雑記掲載方針
この文書は、当サイトにおけるトップページ「雑記」の掲載方針について詳細に記したものです。
取り扱うネタは、基本的に以下の基準に則っています。
「雑記」では、以下の画像等を掲載し、紹介・研究・論評しています。
ここでのポイントは、ただ1つ「変なもの」という視点です。
ここが極めて重要なのですが、「変なもの」というのは、決して、「面白いもの」とイコールではありません。
「面白いもの」と「変なもの」は似て非なるものです。
「面白い」というのは「楽しい・愉快・興味深い」という極めて主観的な要素であるのに対し、「変」というのはある一般的・「常識」的なものに対して、「異常・奇妙・奇怪・怪しい・不思議・珍しい」という、どちらかというと客観的な要素です(もちろん、それが「変」と規定されるためには、一定の文化・風習や慣習を共有している必要がありますが)。
あるものを「変」と規定するのは、比較的容易です。なぜならば、「正常」、すなわち「一般的に見てまともと思われているもの」に対して「異なる」性質をもっているからこそ、あるものは「変」であると、自明の判断ができるからです。
一方、あるものを「面白い」と感じるか否かは、個人差が非常に大きい。ある芸人を「面白い」と思う人もいれば、「つまらない」と思う人もいる。同様に、ある看板を「面白い」と思う人もいれば、「つまらない」と思う人もいる。人それぞれ。「面白い」とはそういう性質のものです。
もっとも、私は「変なもの=面白いもの」という認識をしていますが、「変なもの=取るに足らない、つまらないもの」と考える人が多数いることを 、深く承知しています。
ですから私は、ある事象につき、「○○が変だ」とは言えても、「○○が面白い」とはあまり強く言えません。今述べたとおり、「面白い」とは、極めて個人的性質の強い感情であり、なかなかそれを他者に押し付けることができないからです。
そこで当サイトでは、どの事象についても、「○○が面白い」というスタンスではなく、「○○が変だ」という視点からネタを掲載・紹介しております。「面白い」と「変」、この微妙な違いが非常に重要なのです。「変」は人によって面白くもあり、つまらなくもあるものなのです。
よって、当サイトのネタを単純に「面白い、面白くない」という基準で読もうとすると、判断を見誤るかもしれません。もちろん、取り上げたネタを「面白い」と思っていただけるのが一番嬉しいのですが、 そこまでを求めるほど、私は傲慢にはなれません。
したがって、当サイトのネタを賞味頂く際は、「面白い、面白くない」という視点だけではなく、「変なのか、変じゃないのか」という複眼的な視点も加えていただけると、ネタをもっと楽しく「賞味」出来るのではないか、と思います。
その結果として、「街には変なものがいっぱいあるな」「日常はネタの宝庫なんだな」と思っていただける方、そして、同じようにネタ探しをする同士が増えたのであれば、 作者として、これに勝る喜びはありません。
上述の通り、「変なもの」という視点から物事を抉ることは、そもそもが"一般の基準"に照らして「奇怪なたたずまい」であることを示すということ 、いわば客観による視座を持つことであって、「面白いもの」という視点から事例を提示する場合と比較すると、その受け取り方のブレが少ないと思われます。
もっとも、人間はどこかしら「異常性」を帯びています。どんなに気取っている人でも「無くて七癖」、異常な部分を持っているのが常です。全部がまともだったらそれこそ「変」ですね。
ですから、当然に、「変」の基準(すなわち「一般」の基準)もどこかしらがずれているのが当たり前なのです。私が「○○が変だ」と思っても、大多数の人が「いや、それは別に変じゃないよ」と思うかもしれませんし、大多数の人が「○○って変だね」と思っても、私は「○○は変じゃない」と思うことがあるかもしれません。
ただ、それでも、「面白い」の基準よりは「変」のほうが、ブレが少ないことは確かだと思われます(ややこしい書き方ですが)。
なぜならば私たちは、「世間」という、確かな実態のない、「一般」という基準に、常に「監視」されながら生活しなければならないという宿命を背負っているからです。「世間」がある以上、そこから外れるものは「変」というレッテルを貼られていくのです。
私は、その「世間」との「隙間」たる「変」を、徹底して追い求めたいと考えています。
「世間」ある故の「変」・・いや、もしかすると、「変」あっての「世間」なのかもしれない。いったい「変」とは何か、何なのか。なぜ、人は「変」を生み出すのか・・・これを探究する試みは、現代社会の拠り所であり、同時に、最大の「勢力」でもある、「世間」と対峙する行為といえます。
別にここで、「脱世間」などを滔々と申し述べるつもりはありません。しかし、「変なもの」を追い求めることは、畢竟、世間との隙間を垣間見る試みであり、 また、世間を「外」から見る試みにもなるような気がしてなりません。私がこのサイトで目指す目標は、そこにあります。そしてそれは必ずや、「公(世間)」と「私(個人)」とのバランサーとして、機能するであろうと信じております。
しかしその究極に辿りつける日は来るのでしょうか。今の私にはわかりません。ぜひ、その日が来るまで、読者の皆さまからは叱咤激励を頂戴できればと思います。
「雑記」では、基本的に撮影地を公開しておりません。それはただ1つ、以下の理由によります。
街角ウォッチングの基本は、「被写体に迷惑を掛けない」ことです。
「見て楽しむこと」「鑑賞(観賞)して一人笑みをこぼす」ことが、「変なもの」に対峙する際の適切な態度と考えております。
ある意味で、「変なもの」は、赤ん坊のお肌よりもデリケートなものです。いたずらに被写体に関わると、それは傷つき、痛みます。場合によっては、跡形もなく消えてなくなる危険性も孕んでいます。できるだけ「そっとしておく」というスタンスが、何より重要だと考えております。
なお、どうしても詳しい所在地を知りたいという方は、個別にメールをいただければ対処します。ただし、町名番地まで所在地が判明することは稀ですので、 予めご容赦ください。
「このネタが面白かった、その写真が欲しい」という場合は、ダウンロードして自由にお使いください。なお、元写真の希望も承っております。メールにてご連絡ください。
●放っておく
ネタ元となった被写体やリンク先に対して、当サイトの記述内容を基にしたお問い合わせをすることは大変なご迷惑となります。絶対にお止めください。「見ているだけ」というスタンスこそ重要です。
●趣味の世界のルール
変な看板などを見ると、「何故・どうしてそんな名前に?」「どうしてそうなっちゃったの?」という疑問が沸くものです。
趣味的世界で「変なもの」と対峙する場合は、「見ているだけ」というスタンスこそ重要です。いたずらに「何故?」などと 遡及していくと、被写体にかかわった先方が気にしてしまい、大切な被写体が消失してしまう恐れがあります。
「変なもの」は人類の残したかけがえのない財産です。それを末永く守っていくためにも、「見ているだけ」というスタンスこそ重要なのです。この点をご理解ください。
●学術研究およびジャーナリズム的観点からの取材には全面協力します
前述の内容にかかわらず、当サイトの記述内容を起因とした、学術的・ジャーナリズム的な観点からの取材には全面協力いたします。 過去にもさまざまな協力例がございます。
是非、管理者に「気付かぬ視点」をご教示ください。