過剰適応?
毎日INTERACTIVEの記事(平成14年12月17日付)
引用は中止。
コメント;
この記事、思わず納得してしまう。事実、その通りなのだろうが。特にいつも他人のせいにする特有の体質を批判してるのには同意。
「昔のヒット曲はレコードを持っていなくても誰もが歌えたものだが、今はミリオンヒットの曲でも一部の人しか知らない」
世の中が多元化し、共通の価値観というものが見出せなくなってきた現在、これは非常に大きな問題だ。
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現在、日本には、趣味という範囲を越えた独特の文化が、同じ社会に多元的に存在している。
この記事の筆者は日本の若者はいったいどこへ行って、何に興味があるのか、激しく知りたいと心の叫びを述べるが、
恐らく若者というカテゴリーで括れる共通の居場所、共通の文化など、もはやないのだろう。
一ついえることは、このままでは社会の文化規範が瓦解するということである。
文化とは民族なり。民族とは文化なり。その文化が崩れるということはすなわち・・・
社会の衰退。
社会とは人間性なり。人間性とは社会なり。つまり・・・
人間性の崩壊。
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記事の筆者は不況や少子化や高齢化などを原因として考えているが、
私には「現代の若者」が一種の過剰適応状態なのではないかと思えてならない。
では、その過剰適応とは何か。ちょっと説明を記すと・・・。
<過剰適応>
1、生物の性質はそれが持つ遺伝子の組だけでは100%は決まらず、環境によっても影響される。
2、生物にとってその性質には融通性があることが重要で、融通が利くから外形を変えるなどで環境に適応出来る。
3、だが、融通のある変化が次から次へと遺伝子の変化となれば(過剰適応)、生物の「適応性」はすべて食いつくされ、存在できなくなる。
もっと簡単に記すと、
環境に適応、適応、適応・・・・と繰り返していくうちに、進化の袋小路にはまってしまうということである。
哀しい矛盾だ。適応の超過は過剰適応という名の不適応に転化するのである。
進化の袋小路にはまった生物は、そのまま進化出来ない。すなわち、いずれ・・・・・・・・・
現代社会の人間は、この疑いが非常に濃いと私は危惧を感じている。
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社会の瓦解=人間性の崩壊=・・衰退?
過剰適応の恐怖をもう一度おさらい。
ある専門家は過剰適応について以下のように定義づけた。以下はそのノートである。
1、食料が豊富など生物的に困難な状況が減ると、遺伝子の活性度が極端に下がり、適応性が固定される。
するとこの場合、環境が激変すれば滅亡を免れない。適応できないのだから。
>>この例が、絶滅したドードーだったとか。もちろん、乱獲した人間のせいでもあるわけだが。
人間の場合は1.の疑いもあるが、むしろ2.の疑いが濃い。
2、生物的に困難な状況(食料や寒さなど)が減ると、多様な適応の形態が共存できるのだが・・・
この「多様性」は、生物単体よりも もっと上のランク(集団など)が収束を行っている場合 にのみ優位に働く
すなわち、人間で言えば 集団(つまり社会) が個人を収束できるのであれば、多様性はプラスに見てよいわけである。
だが、もし、集団が個人を収束できない場合、
多様性の方向は、帰属集団を崩壊させるベクトルに転換されるのである。
つまり、せっかく生物的に安全(外的安全)が確保されても、
集団的な安全(内的安全)が瓦解するので・・・・衰退は免れない。
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こう考えると、戦後極度に安定してきた日本社会、
そしてそこに生きる日本人は、
今、多様性によって集団帰属を崩壊せしめ、
今、不況など環境の変化によって個人の人間性を瓦解せしめている
と結論付けられる。
滅茶苦茶な結論かしら。
でもとにかく、
この社会この人間、過剰適応じゃないのか、と。
過剰適応寸前ならば、まだ間に合うのかもしれない。
何か社会の瓦解を防ぐ共通の価値観を形成できないものだろうか。
できないですね。