捕鯨問題に関する一考察

〜環境原理教の裏に見えるもの〜

平成15年6月18日(水) ううせいじん

 

はじめに−考察を行う背景と目的

国際捕鯨委員会(IWC)の年次総会がベルリンで開催された。米英を初めとする反捕鯨国が、鯨の保護強化を目的とする「保存委員会」設置決議案を提出、賛成25、反対20で可決された。

これは、商業捕鯨を再開したい日本やノルウェーなどの捕鯨国の動きを大幅に牽制するものであり、日本政府代表はこれに対する資金拠出を拒む方針をすでに打ち出している。

IWCは、従来捕鯨国が捕鯨のの問題について話合うために設置された機関であるが、この委員会の設置は、「鯨の保護」、すなわち、「反捕鯨」という性格をいっそう強めることとなる。

この問題、つまりは一体どういうことなのか。文を連ねるごとに明らかにしつつ、考察を進めていく。

 

第1章 根本的な問題点

(1)希少生物問題は環境問題なのか

希少生物問題は、環境保護の問題なのだろうか。・・・こう問われれば、多くの人がイエス、と答えるに違いない。だが、それでは性急ではないか。

「希少生物問題」=「環境保護問題」と定義したとき、ここに現れる命題は「地球上のすべての種は絶対的に生存を認められているのか」というなかば哲学的なものとなって我々の元へ突き刺さる。

ラディカルな環境主義者は、「すべての動物には等しく生存価値がある」とする。これがエスカレートすると、「すべての動物には権利(アニマルライト)がある」となる。そこから「動物実験反対」などの論が生じてくるわけだが、それはここでは触れない。

この「アニマルライト論」に関しては、反証が容易である。すなわち、「動物を食べることはいいことなのか。」を問えばよい。あるいは、害虫とされる蚊やノミやダニの駆除のみならず、人類の課題であるエイズウイルスの撲滅に関して、その是非を問えばよい。

もちろん、超・ラディカルな環境主義者であれば、それすらも「いけないことだ」というかもしれない。あるいは、西洋的な宗教観を持ち出して「それは 神に認められたこと」と逃げるかもしれない。だが、そこまで行けばすでに科学的な話ではなくなっているので、論じる手段を失う。

すなわち、「アニマルライト」主義は極論、もしくは非科学的であると位置づけるほか無い。

だがしかし、悲しいかな、世の中、「大きな声を上げたほうが勝ち」なのである。このプロパガンダを反証しにくいレベルにまで矮小化し、理論のつまみ食い状態にし、「アニマルライト」を広めようという動きは、世の中に、確実に存在するのである。

そうする方法は簡単だ。「分かりやすい動物」に的を絞り、「保護しなくては可哀想だ」と煽ればいいのである。分かりやすい動物・・・それは、可愛かったり、人間にとって「無害」の存在で、皆の愛情を集めるような動物である。逆に、可愛くなかったり、人間にとって有害だったり、皆から嫌われるような動物はこの「保護しなきゃ可哀想だ」基準には引っかからない。

つまり、ハクビシンを「保護しよう」と言っても誰も見向きもしないだろうが、迷子になったアザラシを「可哀想だから保護しよう」と言えば多くの人が耳を傾けるであろう事は想像に難くないということだ。ラディカルな環境主義者たちはこの点をよく理解しているはずで、事実、「永年の昔から生存するゴキブリを駆除するのは止めろ」というような論を聞いたことはあるまい。「分かりやすい動物」を「保護しないと可哀想だ」という観点から語ることは、「アニマルライト」という極論を世に伝播させる一種の手段になり得る。このことを理解しておかなければ状況を見誤るだろう。

(2)動物保護は生物学的多様性保護になりうるか

動物保護を巡るもうひとつの無視出来ない要素に、「生物学的多様性保護」という視点がある。これは、「希少生物保護はアニマルライトがあるからだ」という前項の論とはまたことなる理論で、一言で言えば「生物学的にみて種が多様であることの重要性」を示したものである。

生物学的多様性の事例には、次のようなものがある。

この点を鑑みると、生物学的多様性の重要性が浮き彫りになってくる。と同時に、後者の例を見れば明らかなように、草食獣の保護のために肉食獣を殺戮したところで草食獣は結局減少してしまったという例から、動物保護=生物学的多様性保護にはなりえないということを、人類は学ぶべきであると強く思うところである。

何よりも重要なことは、「人間はすべての種の生物を把握していない」という点だ。未発見の動物が、ひっそりと、誰にも知られずに絶滅するといったことはあるはずである。だが、それは、未発見故に誰にも気をとめられない。 それに対する因果、影響、そういった点も常に考えていかなければならないだろう。

まとめ 環境原理教に嵌(はま)り込まない−分かりやすい話ほど、要注意−

とにかく環境問題は、動物保護ひとつとっても人間に痛い所があるだけに、ちょっと分かりやすい話があると、それが大きく流布しがちである。しかし、それが実際にはそれがすでに間違っていたり、極論だったり、そういうことは往々にしてある。分かりやすい話ほど核心を突く問題点が矮小化されていたり、場合によっては隠されていたり、あるいは論理の飛躍(一見それとは気づかない)が発生している場合がありうるのだと、常に心する必要があるだろう。そのことは、マスコミの報道や政治家の国民への説明にも言えることだが、それはまた別の話。

●補則事項

過剰適応

環境問題は、社会科学的観点からだけのアプローチでは処理しきることが出来ない、というより、本来、自然科学の分野である「環境」を社会科学の分野だけで解決することは本来、不可能である。その意味で、環境問題ほど学際的な分野はないのである。

動物保護を考えるとき、我々は自然科学的手法でそれを捉えることに組しなければならないだろう。すなわち、保護、という観点から少し離れ、「観察」という視点からのアプローチを掛けるべきである。早い話が「放っておく」ということになるだろうか。少し飛躍するけれども。

これによって、この生物が「過剰適応」であるかどうかのみきわめをすることが可能になる。過剰適応とは、進化の袋小路にはまったことを指すのであるが、過剰適応に陥った動物は、いずれ、絶滅するということになる。こういった観点からの研究は、もっともっと行われるべきであろう。我々人類の将来のためにも(この項に関しては、直接捕鯨問題と関わるものではない)。

 

第2章 捕鯨問題とは何か

前章で論じたとおり、「鯨が可愛いから捕鯨禁止」というのはきわめてナンセンスな発想である。

(1)国際捕鯨委員会とは何か

国際捕鯨委員会(略称IWC)は、捕鯨国が捕鯨問題について話し合うために1948年に設置された機関である。本来の役割は、国際捕鯨条約に基づいて、捕鯨の適正な管理を実施することであった。この時点で、「捕鯨禁止」については当然、想定されていなかった。なお、この機関は国連とは無関係である。日本は1951年に加盟。

なお、設立の背景には、鯨が絶滅してしまえば捕鯨国自身が困ってしまうので、捕鯨の適正化を真剣に討議するという観点があった。もちろん、何度も述べるが反捕鯨という志向で設立された機関ではない。

(2)加盟国によって違う認識(メモ)

●日本−伝統的捕鯨国(近代漁法以前からの捕鯨の歴史)

食用だけでなく、髭や歯も使用するなど、様々な利用。
 →有効利用。

●米・英・豪−新興捕鯨国(近代漁法)

クジラの油をとるためだけの乱獲。
 →鯨の減少→IWCの設立
 →やがて油を取るだけの捕鯨産業は消滅。
 
 →ただし、原加盟国ゆえに委員会からは除名されず。

以上のような相違がある。このことは、頭に入れておかなければならない。

(3)IWCの性格が変わった!

米国などで鯨の油をとる産業が消滅したことなどで、国際捕鯨委員会の性格は激変、いつの間にか「捕鯨禁止をテーマに捕鯨国を責める場」と化していったのである。

捕鯨禁止思想の根本は、先ほど筆者が「ナンセンスだ」と断じた「鯨が可愛いから捕鯨禁止」というものである。何しろ、反捕鯨派のバックには、ラディカルな環境保護NGOがついているのだから。鯨は可愛いし、大きいものだから、彼らの運動をアピールするのに大変目立つのである。そう、プロパガンダを広げる格好のターゲットというわけだ。

IWCの性格が変わったのは1970年代後半、反捕鯨を訴えるラディカルな団体が本会議への参加(傍聴であるが)ができるようになる頃と重なるだろうか。ただし筆者は時系列的な点に関しては詳しくないので、後述する リンクを参照されたい。

とにかく、捕鯨禁止がテーマとなったIWCは、やがて「捕鯨国」対「反捕鯨国」との戦いの場に発展(退化?)していく。年を負うごとにその戦いはエスカレート、欧米の強制的な「反捕鯨」の圧力に、捕鯨国は大いに悩まされることになる。

すでに商業捕鯨は禁止され、認められるものは科学目的の調査捕鯨のみである。もっとも、IWC総会では毎回、この「調査捕鯨」にすら日本へ自粛勧告をする決議案を採択している。一種のいじめ、である。

では、ここにおける問題点とは何なのか。次章で論じたい。

 

第3章 「捕鯨問題」の問題点

平成15年6月18日現在、IWCの加盟国は50カ国を数える。日本、フィンランドといった伝統的捕鯨国に対し、「反捕鯨連合」は米英豪、欧州、旧ソ連・・・と数多い。その構造を考えてみたい。

(1)加盟国の問題

IWCは、アメリカ政府に加盟することを通知さえすれば、どの国でも参加できる。どの国でも、それはすなわち、鯨と無縁の国であっても加盟できるということである。これは問題だ。加盟国を見てみると、なんと!内陸国も含まれているではないか(オーストリアなど)。

加盟国にはバランスが一切考慮されていない。欧米と、欧米の旧植民地系の国が多く、欧米の志向をきわめてスムーズに反映できるような構成となっている。このことに、我々は本気の怒りを向けなければならない。

反捕鯨連合は、自分たちの支持基盤を強固にするために(捕鯨とは無関係な)加盟国を増やすという戦法を用いて伝統的捕鯨国いじめを続けてきた。1980年代には、この手法で多くの国がIWCに加盟している。もちろん、日本もこれに対抗するため、ODAなどの経済援助を通じて加盟国の票集めをすることになる。これは、相手がやってきたことへの仕返しであり、責められるべきは反捕鯨連合であろう。

だが、ここに問題が生じる。第一に、IWCの分担金は「一律」なのである。小国を取り込もうとしても、その国が分担金を支払えるかどうかは微妙であり、ましてや自国が捕鯨と無関係であれば、なおさら加入に躊躇することになる。支持をとりつけるためだけに税金を投入するという、きわめて悲しい事態が生ずる。

また、日本がある国と票を確約しても、または、その国が捕鯨国いじめに批判的な立場であったとしても、欧米からの圧力で票を転向せざるを得ないケースもあるとされ、なかなか一筋縄ではいかないようである。はっきり言って、不毛なことだ。

今回の「保存委員会」設置において日本は、そうした「欧米からの圧力」を排除するために、無記名投票制を提案した(実際はもっと前から提案していた)が、見送られた。このことを記しておく。

(2)反捕鯨国の実際−排外処理の話−

生物は、排出をしないと生きていけない。すなわち、尿や便然り、咳や鼻水然り、である。

同じことは、国家にも言える。山積する国内問題を容易に処理する方法、それは、「排外処理」である。それは戦争に限らない。外交の場において常に隣国を批判したり、マスコミを通じて「敵国」を嘲ったり、そういう「情報戦」も、排外処理の一種である。これを単純に悪いこと、と捉えるのは余りに安易であろう。むしろ、国内統一に必要な「必要悪的な統治テクニック」の1種と捉えるべきである。もっとも、排外処理せずに内部処理できる状況がベストであることには違いない。この排外処理、出される側は堪ったものではないが、相手の意図を読み取ることで、内情が見えてくる。逆に言えば、それを知ることで、相手に物怖じしない態度で臨むことが出来るようになるのである。

米国の例を見てみよう。米国は大気汚染を生み出す工業国であり、ラディカルな環境保護団体もこの点は大いに批判をしたいところである。だが政府にとって産業の振興は望ましいことであり、ラディカルな環境保護団体に目をつけられれば、この大気汚染が大騒ぎになって都合が悪い。そこで、ラディカルな環境保護団体の目をそらす目的で、政府として「捕鯨反対」をぶち上げるということである。鯨の保護・・・それは「分かりやすく」、対象も「可愛く」、「無害で」、「皆の愛情を集める」動物である。単なる極論を「保護しなければ可哀想だ」というオブラートに包むのには格好のターゲットだ。ラディカルな環境保護団体が食いつくに決まっているのである。しかも、この国はすでに捕鯨国ではないので、少しも気をとがめることが無い。

なお、アメリカ政府が反捕鯨に針を触れたのはベトナム戦争の頃であることはよく言われる。すなわち、世界に戦争を批判されたアメリカは、ヒューマニズム国家であることをアピールする必要に駆られ、また、枯葉剤などのから批判の目をそらす目的で、「捕鯨」を槍玉に挙げたのではないか、といわれている。

文藝春秋(平成15年7月号)の養老孟司「白装束とタマちゃんとバカの壁」においては、「ベトナム戦争の際に枯葉剤の使用から目をそらさせるためにニクソン大統領が反捕鯨団体に支援を行っていたこと」が文書公開で明らかになった旨の記述があった。

こういう構図が見て取れる。これを、「国内問題の排外処理」というのである。伝統的捕鯨国にとっては、迷惑千万これ極まりない話である。

他国においても環境保護団体を敵に回すことは得策ではないと考えるであろう。「環境保護」に対峙する者は、容易に悪魔化されてしまうからである。

だが、この「環境保護」というのは極めて欧米的な自然支配思想の賜物であり、そもそも八百万の神の下で「自然との共生」「環境との共生」を図ってきた日本の環境観とは著しく異なるものである。それを半ば強制的に「押し付ける」欧米の発想に、もはや辟易、非常に不快な思いをするところである。これを文化侵略といわずして、何と言うのか。

 

第4章 日本の動き

日本は、この捕鯨問題に対しては、水産庁主導で、一貫して「徹底抗戦」の立場を貫いている。非常に誇らしい態度だ。この抗戦には大変な価値がある。何故か。食糧安全保障の観点からの価値である。

この捕鯨問題、明らかに欧米的視点「鯨を捕ったら可哀想」という観点から語られている。その感情が巧みに利用され、米国などの国内問題処理に用いられているとすれば、溜飲を飲まされ続けている日本として、誠に不快なことである。それを突っぱねる行為は、 誠に尊いものである。

さらに、この反捕鯨がうまくいくと、次は「魚介類の捕獲禁止」へ向かうのではないか、と注目されている。すでに、マグロなどに注目が集まっていると聞く。気づかないうちに、魚が食べられなくなっていた・・・では済まされない。周りを海に囲まれた日本は、強硬な態度を貫きつづける必要があるのである。

なお、鯨は捕食量が半端ではなく、過度な保護が漁場を逆に荒らしているのではないか、との懸念も日本が指摘していることを忘れないでおきたい。

 

まとめ

非常に簡単ではあるが、ここに捕鯨問題の概要を記述した。IWCによる日本いじめがエスカレートしている現状に腹が立ち、ついつい書いてしまったが、この問題は、決して捕鯨問題だけで収まることではない。

何度も書くが、「分かりやすい」話ほど嘘があるものである。今回の捕鯨の話においては、その本質は欧米による一種の文化侵略であることが露呈された。

こういう「一見いいことを言っているようで本質は害となっている事例」は、極めて多いのではあるまいか。情報を鵜呑みにせず、常に裏の裏を読むようにしたいものだ。

 

関連リンク

捕鯨ライブラリーhttps://luna.pos.to/whale/jpn.html

>捕鯨問題全般(https://luna.pos.to/whale/jpn.html

 IWCの概要、IWC加盟国、調査捕鯨、反捕鯨団体の概要、鯨肉事情、総会概要、論文集など

日本捕鯨協会https://www.whaling.jp/index.html

 

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