国語力には、「読解力」「文章力」など様々な能力が提唱されています。ここでは、「事象の抽象化能力」という部分に絞って論じてみたいと思います(試論)。
最近面白く読んだ本に、上田優紀『エベレストの空』がある。「なぜ、過酷な山に登って風景写真を撮るのか」-「そこに撮りたい風景があるから」を地で行く作者のエベレスト登山のルポルタージュである。高山病で吐いても吐いても写真を一心不乱に撮り続ける作者の姿には、内発的な使命感に燃えるある種の神々しさまで感じた。
この本を紹介すると、「吐いてまで山に登るなんて信じられない。感情移入できない」という感想を抱く人がいた。しかしこれは、「山登り」という表面だけを捉えた感想である。
ここで見方を変えてみたい。この表面的な感想を直截的に日常生活に援用してみると、「吐いてまで酒を飲むなんて信じられない」ということも言えるし、さらに抽象度を高めると、「吐いてまで(体調を崩してまで)仕事を続けるなんて信じられない」ということも言えてしまうのだ。
すなわち、エベレスト登山は「人生の山」に譬えられ、「高山病で吐いても一心不乱に続ける」というのは、あるいはワーカホリックに、あるいは「推しにハマる」(沼にハマる)趣味に、それぞれ敷衍して考えることもできるのである。
何が言いたいかというと、『エベレストの空』を読んで、「風景写真家が艱難辛苦に耐えた登山の話」で終えるのか、「社会一般に適応できる概念の話」ととらえられるのかで、得られる学びの深さ・広さがまったく違ってくるということだ。そしてこれは、いわゆる「書かれたことの意味内容を答える」式の「国語の読解」では得られない「読み方」になる可能性がある(書かれたことを正確に答えることの重要性を否定しているわけではない)。
これはすなわち、「氷山モデル(アイスバーグモデル)」で言うところの、「どこをみて読書をするか」ということにもつながってくる。水面から顔を出している「出来事」「結果」「打ち手」「手法」だけを読む「読書」も可能だ。しかし、ここに下部構造の第一段階としてパターンや傾向を見出すこと、第二段階としてそのパターンを構成する構造やシステム、枠組みを見出すこと、さらには第三段階としてそれを大本で支える「思考」「思想」「価値観」に到達できるかどうか、を探る「読書」もまた、可能なのである。
一般的に「再現性」(マネできること)は、表面的な「打ち手」「手法」に着目されがちなきらいがある。しかし打ち手も手法も、個人の置かれた状況や都合、そして何より時代や場所の状況により左右されることが非常に大きいものである。実は、真の再現性とはある「打ち手」や「手法」の成功パターンを支える構造が構築されるに至った「思考」に他ならない。「打ち手は真似できない(かもしれない)が、思考は取り入れることができる(可能性が高い)」とでもいえるだろう。
よくある「自己啓発書」「ビジネス書」をいくら読んでも-「セミナー」「勉強会」にいくら参加しても-巧くいかないのは、結局は他人の「打ち手」「手法」をなぞっているだけだから、である。その背景にある「考え方」にまで到達するような読み方をしていかなければ、「よい食い物」にされるだけだろう。
これを一言で言うと、「抽象化思考」ということになる。ここでは、分かりやすく著名な「ゲーム」の例で例えてみたい。
まずは「桃太郎電鉄」を例にしてみよう。表面上は、「全国をサイコロで巡る双六ボードゲーム」である。ただ、サイコロを回してのほほんとプレイしているだけでは「浅い遊び」にしかならないところがこのゲームの奥深さである。
これを下部構造のパターンでみてみると、「すごろくと鬼ごっことモノポリーとカードバトルを組み合わせたボードゲーム」と再構築することができる。さらにパターンを支えるシステムとしては、すごろくという「運」の要素を入れつつ、鬼ごっこ(貧乏神から逃げる)やモノポリー(物件独占)、カードバトル(持ち札の組み合わせ)といった戦略がものをいう「国盗り戦略シミュレーションゲーム」であることが見えてくる。さらにそのシステムを支える思想は、「貧乏神が寄り付かないように常に目的地の近くにいるようにしながら、カードを巧く活用して物件独占を進めていくと勝てるゲーム」であることが見えてくる。
では、「スーパーマリオブラザーズ」はどうだろうか。これも表面上は、「アクションゲーム」である。しかし、「アクションゲーム」と一言で片づけるにはもったいない奥深さがあることは周知のとおり。
これをパターンで見てみると、「パワーアップアイテムの力も借りながら、敵を倒し、穴を飛び越え、仕掛けをよけて、ゴールを目指すゲーム」と再構築できる。システムは、「ジャンプとダッシュで敵やギミックを掻い潜りながらゴールを目指すゲーム」と定義できる。すなわちその思想は、「敵や仕掛けにやられずに前に進むとクリアできるゲーム」なのだ。「やられないこと」、これがマリオのアクションゲームに隠された思想である。シンプルだが、実に奥が深い(例えば「ドンキーコング」も「やられないこと」がクリアの条件である。この「やられないこと」を前提として様々なギミックを追加していくことがアクションゲームなのだと言えそうである)。
表面をなぞるのではなく、背後の「パターン」、「構造」、そして「思想」を読み解くこと。生活全般を広義の「ゲーム」-環境や他人との相互作用-とみなしたとき、これは単に狭義の「ゲーム」の攻略にとどまらず、日常生活はもちろん、社会生活においても必要不可欠なスキルであることが分かるだろう。
常に、表象される事物の水面下の状況を想像することは、「生きる力」そのものなのだ。
抽象化思考とは、すなわちメタ認知であり、アナロジー思考とも言える。抽象化思考は、事物Aを、より一般化できる概念Bに昇華させ(演繹)、これを事物Cに適用させる(帰納)ということでもある。よく「視野・視座・視点」と言うが、視野(時間軸や空間軸)、視座(立場、いわゆるチェンジチェア思考)、視点(フォーカスする観点)の転換を容易にすることで、物事の捉え方をより広く、深くすることができる考え方だと言えるだろう。
抽象化思考を鍛えるのに最も身近なのは、「ことわざ」であると私は考える。ことわざはまさに、「ある出来事」をアナロジーによって概念抽象化(演繹)せしめ、さらにそれを別の具体的な事物に置き換える(帰納)ことで、視野・視座・視点を転換してくれる叡智だからだ。
この試論は「子育て」のコーナーにある一節なので、ここからは「子どもの抽象化思考を鍛える」という観点で論じてみたい。
抽象化思考ができることは、「物事を別の視野・視座・視点」で捉えられるようになることである。これができないと、「他人の気持ちを考える」ことも、ましてや(本当はよくわかっていない)「自分の気持ちを知る」ことも難しくなってしまう。また、当然に抽象的な文章も碌に読めなくなってしまうし、数学的な思考すら育たなくなってしまうだろう(分数、小数、関数、無理数、文字式・・・)。
「ことわざ」を学ぶために必要なのは、何と言っても「日常化」である。おもちゃを欲しがって駄々をこねたら「二兎追うものは一兎をも得ず」と言ってやればよいし、動物園に連れて行っても弁当のことしか考えていなかったら「花より団子だな」とつぶやけばよろしい。毎日、1つでもいいから「こどわざ」を使って日常会話をしていくのがもっとも良い方法だ。
「子どもに本好きになってもらうにはどんな方法がいいですか?」という質問の答えは決まっていて、「親が本好きであること」でしかない。読み聞かせも含めて、親が夢中になって本を日常的に読んでいれば、子どもは自然と本好きに育つ。親が碌すっぽ本を読まずにダラダラスマホ、永遠にテレビ-というのでは、自然に本好きに育つわけがない(テレビもスマホも否定しているわけではない。表面の文脈で批判するか、背後の思想を知るか?)。
これと同じで、抽象化思考を鍛えたければ「ことわざ」で、「ことわざ」を好きにさせたかったら「ことわざ」を日常的に多用することがよいのだ。
「門前の小僧習わぬ経を読む」よろしく、最初は韻なり語感でインプットするのもよいだろう。くもん出版の『ことわざカード(1~3集)』などは、読み聞かせの合間に読んでいると興味を持ってくれるものである。我が子が3歳くらいの頃、公園で転んだ後に遊具に頭をぶつけた時、子どもが「はっ」という顔をして「これが、泣きっ面に蜂だね!」と叫んだときは実に驚いたものである。ある程度ひらがなが拾い読みできるようになってきたら、「いろはかるた」で遊ぶのもよい。北星社『ことわざ犬棒かるた』は、かるたのサイズが子どもが持ちやすいサイズで、「読み上げアプリ」もあるので、親子でかるた取りをするのにちょうどよい(かるた遊びに慣れさせるためには、ひらがなに興味を持ち出した頃にセイカ『アンパンマンかるた』などを与えるのもよい。絵で覚えてしまうかもしれないが、それはそれで能力といえるだろう)。
年長くらいになって、「1分間で200字」くらいのひらがな・カタカナをすらすら読めるようになってくると(※1文字ずつの拾い読みではなく、イメージを持って読むことができている状態。改行があっても先の文字を拾えている状態)、いよいよある程度の本は「一人読み」できるようになってくる。簡単な内容のものなら、漫画も読める。すると、子守をスマホやテレビではなく「本」や「漫画」に任せることができるようになってくるのだ。
こうなってくるとお勧めなのが小学館『ドラえもんの国語おもしろ攻略 ドラえもんのことわざ辞典』である。ドラえもんの四コマ漫画でことわざを紹介しており、楽しみながら夢中でことわざを覚えてしまう名著だ。最初は四コマしか読まないかもしれないが、徐々に解説の文章も読むようになり、やがて自然と「ことわざ」が口をついて出てくるようになるだろう。そうなれば、それは一生モノの知識として子どもの財産になる。
子どもに少し注意すれば、「パパ、それは人の振り見て我が振り直せでしょ」と言い返され、少し慎重な物言いをすれば「それは石橋を叩いて渡るだね」と指摘され、こちらも「二階から目薬」「暖簾に腕押し」「糠に釘」「猫に小判」「馬の耳に念仏」と反撃し、説教するときは「良薬口に苦し」、説教が終わってけろっとすると「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と指摘して-と「ことわざ」で日常のやり取りに彩がもたらされ、抽象化思考の「芽」が芽吹くのであった。