自然の都市 ←→ 人工の都市(計画された都市)
自然の都市と人工の都市を比較したとき、人工の都市に「何か本質的なもの(=人間生活の垢、都市の活気、豊かさ、多様性など)」が欠けているように感じる。
その背後に、自然の都市と人工の都市を区別する「秩序の法則」が存在する。
自然の都市はセミラチスである。 しかし、現代は都市をツリーとして計画している。 |
1. 「車と歩行者」の関係
計画都市→「車と歩行者は完全に分離されるべき」と固定的に考えがち(ツリー)。
現実→車と歩行者は「駐車場」「タクシー」などで重なり合う。
計画都市→「運動場」「児童公園」などが他の区画と独立して整備される(ツリー)。
現実→子供はどこでも遊ぶ。空き地、路地、川岸、畑、工事現場・・・
計画都市→工場地区と住宅地区を分離する(ツリー)。
自然の都市→「職人の仕事場」がその典型。「家」と「工場」をまたいだ「職住一体」の生計システムが存在(ブルックリンの「バックヤード・インダストリー」)。
「友人のネットワーク」
あるコミュニティに住む人々は、その区画とは無関係に、コミュニティを超えて多種多様な場所で働く。学区、商圏などにも同様のことが言える。
現実の都市は、生活に必要な「複雑さ」を備えている必要がある。すなわち都市はセミラチスであり、ツリーではない。しかし、計画の段階でツリーになってしまう。
上記のアレグサンダーの考えを具体化したのが本作。街を構成する様々な要素である「パタン」を非常に細かく分類し、それらをカタログ化。パタンを適宜組み合わせることで、「セミラチスであるまちづくり」ができることを示している。
街を構成する要素を「パタン」という。パタンは、網目のようなネットワーク構造(=セミラチス)になっている。
これを環境設計の言語(ランゲージ)で表すときは、「骨格を為すパタン」→「肉付けをするパタン」→「それを補強するパタン」と1つの繋がり(シークエンス)で捉える。その総体が「パタン・ランゲージ」である。これはネットワーク構造だから、1つのシークエンスを見ても全体像を掴むことはできない。いくつものパタンをぐるぐると辿ることで、全体像を掴める。
ある1つのパタンは、より大きなパタンを支える要素となり、自らはより下位にあるパタンに支えられ、相互に連関している。このパタンが全て集まることで、ネットワークが1つのランゲージとなる(その中にある各々のシークエンスも、1つの小さなランゲージとなる)。
本書には、「町 / 建物 / 細部の施工」に分かれて、253のパタンが示されている。それぞれのパタンごとに、そのパタンを成り立たせるためのシークエンス(そのパタンの形成に他のパタンがどのように関係しているのか)や条件が説明されている。
→パタンNo.173「小さな駐車場」作成の手順とパタンの関係 を例に
街における全ての「パタン」は独立せず、相互に連関して存在する(セミラチス)。
だが、現代の都市計画は粗暴で断片的すぎ、人間性を欠いてしまっている(ツリー)。
だから、パタンの総体(建築・コミュニティ)は、都市計画ではなく、自らの手で為されることが必要。
本来の都市は、そもそもそのように形成されてきたはずだ。
自分たちの手に「環境言語」を取り戻し、都市に生気を取り戻すために『パタン・ランゲージ』はある。
→ありとあらゆるものが有機的かつ相互に連関している。それを生かしたまちづくりは、断片的な「計画」からは出来ず、「自らの手」で行われるしかない。
理論がより過激に発展。「全体性」の観点から自然の都市と人工の都市を比較し、「現代の都市計画」を批判している。
ツリー的な都市計画を「断片的でまとまりがなく、無機的で情もない」と強く批判。
都市の自律的成長を妨げる「近代都市計画そのもの」を根本から問い直す議論へ展開。