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明らかに異常事態なのに、「緊急事態宣言」が出し渋られている。

「緊急事態」と「都市封鎖」が混同されたことで、社会的混乱を何としてでも防ぎたい政府が余計に出しにくくしているのか。新年度だから避けているのか。経済への影響を恐れているのか。

「要請でそれなりに統制がとれるから、まだいいや」というのだったら、ひどい忖度社会である。そんな忖度に甘んじるのもいい加減にしろ、という話。

国は黙っていても税金が入ってくるからよいが、自粛に求めることで、保証もなしに業務をシュリンクさせざるを得ない民間の立場にもなってみろ。

「あと1週間、2週間」といって、すでに1か月以上たっているではないか。中途半端な期限設定で、何度も何度も「自粛」を要請して、「コロナ疲れ」というより、「振り回され疲れ」でもある。

誰もがこの「戦時体制」で「精神的疲労」を感じている。もちろんコロナが憎いのだが、精神的疲労は人災の側面が多分にある。

どのみち、感染爆発を防がなければ経済は崩壊するのだ。「鶏が先か、卵が先か」の議論である。

経済は「金」だけで動くのではない。「人」がなければ動かない。その「人」が未知の病に侵されているのだから、まずは「人」を正常にしていかなければ。

もはや「ソフトランディング」を期待する状況ではない。あれほど「自粛」を求めて、結局、感染拡大は防げていないのだ。どう転んだって、「痛み」を伴う。

それを訴えてこそ、為政者ではないのか。


2020年4月1日公開

志村けんが、あの志村けんが。あの志村けんが、逝ってしまった。

憎い、憎い、とにかく憎い。クソコロナめ。
悔しい、悔しい、とにかく悔しい。クソコロナめ。

日本で随一の喜劇王。現代のチャップリン。日本の宝。

志村けんの笑いで、どれだけの人が元気と、勇気と、やる気と、希望をもらったことか。志村けんが社会にもたらした効用は、何よりも深く、大きく、重い。

クソコロナめ。

「8時だヨ!全員集合!」「ドリフ大爆笑」「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」「志村けんのだいじょうぶだぁ」「志村けんのバカ殿様」・・・日本のコントの最高峰。バラエティの金字塔。これ以外にも、たくさんの、数えきれないほどたくさんのヒット番組の数々。

数年前、念願の舞台「志村魂」を見た。行先に「志村魂」と書かれた観光バスが続々と止まり、期待に顔をほころばせた老若男女が我先にと「明治座」に押し掛ける・・・

これだけ多くの人を笑わせ、元気づけ、「さあ、明日もがんばろう!」という気持ちにさせるような人が、なぜ逝かねばならぬのか。

***

第一報を聞いた時、私は職場で号泣した。仕事中に泣くなんて、自分でも驚いた。その後、お昼休みになると食事をしながら涙が止まらなくなってしまった。帰り道。涙で視界がぐちゃぐちゃになって帰路についた。そして夜。まだまだ涙は枯れないのである。

志村けんが、自分にとってどれだけ大きな存在だったか。仕事を離れ、「我」に返ると涙が止まらない。まったく止まらない。

喪失感があまりにも大きすぎて、まったくこの感情が言葉にできない。何だろうか。この「偉大なもの」「寄りかかれる何か」を亡くした気持ちは。

悔しい。あまりにも悔しい。

***

コラムニストの堀井健一郎さんが、堀井さんらしい切り口で、志村けんへの追悼コラムを寄せている。タイトルは、「志村けんの死でわれわれは何を失ったのか 彼が作り続けたコント世界のすごさ」。

最後に、こう締めている。「志村けんは、いなくなってしまったのだ。」と。

そうなのだ。志村けんは、もう、いなくなってしまった。書いていて涙が止まらない。志村けんは、あの、あの少しシャイで、寡黙で、でも見ているだけでとっても楽しい志村けんは、もういないのだ。突然、あまりにも突然、いなくなってしまったのだ。

もう、新しい志村けんのコントは、もう、、もう二度と、、、、二度とみられないのである。二度とだ。

なぜだ。なぜだ。

いつも僕の心をときめかせ、いつもわくわくさせてくれ、画面に映るだけで楽しくて楽しくてしかたがない、あの志村けんは、もういなくなってしまったのだ。

***

志村けんで育った1人として。

本物の笑いを本当にありがとうございました。心からご冥福をお祈りいたします。


公開:2020年3月31日

一緒にいてどうも疲れる人と、元気をもらえる人。これと「うまくいかない人」と「うまくいく人」は相関があるなぁ・・・と思うようになった。

最近気づいたことは、人には4タイプあるということだ。
■表面上は明るくて、性格も前向きな人(陽で陽)
■表面上は暗いが、性格は前向きな人(陰だが陽)
■表面上は明るいが、性格は後ろ向きな人(陽だが陰)
■表面上は暗くて、性格も後ろ向きな人(陰で陰)

このうち、大切なのは表象される明るさ・暗さではなく、性格的な「前向き」「後ろ向き」の部分であることに気づいた。

人が人を呼ぶ。元気をもらえる人、すなわち、「うまくいく人」は、例外なく性格に「陽」の属性を持っている。すなわち、「陽で陽」「陰だが陽」の2者である。

「陽で陽」は、解説不要。
「陰で陽」は、一見、暗い人なのに、心持が前向きな人。
人付き合いは、この2タイプに精力を注ぐことが人生を豊かにする秘訣だと私は感じてきている。
(仕事上も、このタイプとの付き合いに注力をすることで「生産性」が向上するのだと思われる)

「陰で陰」は、解説不要。
「陽で陰」は、一見、明るい人なのに、心持が後ろ向きな人。一番タチが悪いと私は思う。いわゆる「無能な働き者」の類だ。後ろ向きなら後ろ向きらしく、騒がずに静かにしていたほうがよい。
人付き合いは、この2タイプとの接点を避けることが、幸せのカギなのではないか。
(仕事上も、このタイプとの付き合いを極小化することで「生産性」が向上するのだと思われる)

松下幸之助の逸話に、「運がいい人を採用する」というのがあった(7年くらい前にも書いた)。
そしてタモリも、一世を風靡した「ネクラ・ネアカ」論でこのことを指摘していた(のだと今にして思う)。

つまりは、「見た目」の陽・陰ではなく、性格上の<陽タイプと付き合い、陰タイプとは疎遠になる>ことが、人間関係で悩むことを極小化する最適解なのではないか、と思われるのである。


公開:2020年3月29日

もはや想定外の事態である。パンデミック寸前の新型肺炎だ。あまりの広がりぶりに、「全国の小中高、一律休校を要請」という、前代未聞の要請も総理大臣から発せられた。今後状況が悪化すれば、交通機関の利用制限、特定地域の外出禁止、企業の一斉休業・・と取られる対策がエスカレートしていく可能性も想定し得る。まさに、「未曽有のフェーズ」に入った。「終わりの見えない戦い」に、国民は疲弊の一方だ。「会社は行け、でも外の娯楽はすべてナシだ」とあっては、フラストレーションもたまっていくばかりである。やり場のないイライラの矛先は、畢竟、政権へと向けられる。

ただでさえ、消費増税や不動産バブル、資源価格上昇に伴う事実上のスタグフレーション化、そして過去最高となる国民負担率(財政赤字を含めると49.9%なので、まさに「五公五民」。昭和45年と比べると25%も増えている)・・で国民経済が大きな悲鳴を上げているこのときに、今回のコロナ禍は、日本社会全体にとって決定的な一撃となった。仮にここに「最悪のシナリオ」である「オリンピック中止」が重なれば、日本経済は壊滅的なダメージを受けることにもなりかねない。まさに今が、パンデミックを食い止める正念場であろう。

***

今回の「一律休校」の要請。一連の反応を見ていると、「遅すぎた」という人もいれば、「まだうちの地域では何も起こっていないのに、なぜ」という人もいる。「理屈と軟膏はどこにでもつく」という。誰が何を決断してもどこかしら文句は出る。現時点で、あれこれとこの政策の効果を評価するのは、一概には言えず、とても難しい。

ただ、本来こういった「評価が難しいものの利害の調整」こそが「政治」の役割である。行政府の長が強いメッセージで今後の方針を打ち出したことは、以前から書いているが「現状改善主義」を取る長期政権が、本義の「政治」を実行した事例、ということだけはいえる。

現政権は「悪しき現状になったところによるものを改善する」ことにより長期政権を維持してきた。支持率が下がるようなことがあると、それを転換するような政策をパッチワーク的に打ち出すことで乗り切ってきたのだ。決してイノベーションは起こらないが、決定的な事故も起こらない。平時であれば、これが一番うまくいく。なぜなら、「今までやってきたこと(=妥当性があると少なくとも現時点までは証明されていること)の微修正」が一番安全である確率が高いからだ。だから、歴代最長の政権として続いてきたのだ。

「現状改善主義」。これはいかにも老年化した国らしい受け身の姿勢だが、これは「俺が生きているうちは持ちこたえてくれ」という高齢者の暗黙の支持あってのものである。ちょうど、「定年まであと数年なんだから、俺がいるうちはいらんことは起こすなよ」という上司がいる職場の、国家バージョンである。

もっとも、現状改善主義の最大のウィークポイントは「イノベーションが起こらない」ことである。無謀な挑戦はしないし、何より「劇的な変化」を想定していない。なぜなら、「変わらぬ日常の延長」こそが国家運営のビジョンだからだ。

したがって、「平時」はよくても「非常時」には弱い可能性がある(弱い、とは言っていない)。日常の延長・修整こそが施政方針であるところの政権が、「日常の延長でない状態」のグランドデザインを描いて、かつ、現実的な政策的対処を行えるのか、というところはまったくもって未知数なのだ。

実際、今回の新型肺炎に対する中央政府の初動対応を見ていると、(昔ではあまり考えられなかったことだが、一部の地方自治体が、政府判断の前に動きだしている・・あるいは明確に中央政府の施策に反旗を翻している・・つまり中央の判断が100%アテにされなくなってきているところからも、)現状改善主義の「弱いところ」が覿面に表れてきたな、というのが直感的な感想である。オブラートに包まずに言えば、要は、未曽有の事態に対する対応は「怪しい」のである。これを国民も直観するからこそ、支持率も低下傾向にあるのだろう。

今回の「一律休校」は、東京オリンピックへの隠しきれない影響が市井でささやかれ始めたこと、株価急落に代表されるような実体経済への影響、そして春節の「爆買い」に目が眩んで「国内での感染封じ込め」の失策を受けた目の前の支持率低下を受けて、まさに「現状改善主義」が発動した、というところが根底にあろう。

***

さて、口では簡単に「イベント中止」「レジャースポット自粛」「オリンピック延期」などと鼻をほじりながらでもいえるのだが、いざ主催者側になってみると、「中止」「延期」は相当の覚悟がないと決断ができないことがよくわかる。TDLすら休園する異常事態の中で、規模を縮小してでも強行開催された東京マラソンを見ても明らかだ。おできではないが、too big too fail(大きすぎてつぶせない)というやつだろう。

実際、仕事で何らかのイベントの「中止」を経験してみればすぐわかる。この新型肺炎で様々なイベントの中止対応に休日返上で直面した人間としては、安易に「○○を中止せよ」とは言えなくなるのだ。

関係者への経緯説明と連絡からはじまり、それこそ賛成から反対まで無限に湧いてくる意見を捌き、善後策を取る。金銭的、時間的、労力的な損害はそれこそ計り知れない。

もちろん理屈では、パンデミックを防ぐためには一度社会機能を封鎖して「人と人の直接接触を断つ」のが最適解なのだが、それが通常の社会生活のなかではかなり難しいということが・・・身に染みて、分かった。「水清ければ魚棲まず」、そんな清濁併せ呑む感じで世の中は成り立っているんだなぁ・・としみじみ思う。

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国はすでに「テレワークの拡大要請」「大規模イベントの自粛要請」および「公立学校の一律休校要請」など、これまでにないレベルで相当に強力な要請を発出してきている。

これを「もっと具体的に、強く」「要請だけでは、会社を休めない」といって批判する声は一定数あるが、そもそも自由主義国家で、しかも憲法で「移動の自由」「営業の自由」が掲げられており、さらにこういった非常事態に対する法制が100%は未整備である以上、国が出せる「命令」には限界がある。

今回の一律休校要請は、そのあたりをよく忖度した、ぎりぎりの表現だなと私は思った。「こういう時だから、超法規的措置をとれ」という一見するとすっきりするが、それがほかに適用されたらどうなるんだ・・となる「狂気の意見」が大勢を占めず、比較的冷静な世論が形成されている点は、成熟社会そのものである。

***

だが、一方でマスクの転売禍、トイレットペーパー騒動、「紙製品」とあればキッチンペーパーからおむつまで片っ端から売れていくという大パニックには、これが「本当に成熟社会か」とほとほと呆れ返るほかない。

西に電車で咳をすれば非常ボタンを押されるものあり。
かと思えば、東に自分は大丈夫だからと、自宅で安静にもせずにウイルスをまき散らすものあり。

東京オリンピックは「おもてなし」の祭典だと喧伝されてきた。やれ、日本人は礼儀正しいだの、和の心があるだの、さんざん持ち上げてきた。

それがこのコロナパニックの直撃でどうか。人は非常時に本性を現すとはよくいうことだ。トイレットペーパーを並んで買い占めるその姿。どこが「おもてなしの精神」か。

これは自分を差し置いて書いているのではない。「自分も」そのパニックに巻き込まれている一員だからこそ書くのだ。今すぐ、「おもてなしの精神」の看板は下ろすべきだ。

羊頭狗肉というやつだ。恥ずかしい。

***

ネットで炎上していたが、「学校が休校と言って、大人は子どもの学習機会を奪われることより先に、自分たちの就業機会が失われることをまず嘆いた。もうこの国は終わりだ」という趣旨の記事が話題になった(あえてリンクは貼らない)。

私の見る限り、この記事への反対意見は「勉強はどこでもできる」「親の大変さを差し置いて、ごちゃごちゃぬかすな」という感情論に支配されていた。

人は図星を指されると、激怒する。「私を含め」、「学校が一斉休業」のニュースを見た時、最初に感じたことは「こりゃ、親が大変だぞ」であった。だから私は、「子どもの学習機会を奪う政策だ」という冷静に事実を指摘する記事を見たときに、我が身をとても恥じた。もっとも、「この国は終わりだ」とまでは思わなかったが。

普通に議論すれば、少なくとも我が国では、「学校」=「急に休校になっても、親が困るだけの場所」という程度でしか見られないくらい、ものすごく軽視されていることが、このコロナ禍によって明確になったことだけは確かなのである。教育関係者は、大慌てでこの現実を見据えなければならない。

記事では「感傷的に卒業式が、思い出が」と嘆く前に、「1年の1/12の学習機会が奪われたことの現実認識を」というごもっともなことも書かれていた。だが確かに、文科省を含め、ここに触れた政策はついぞ聞かぬ。

事実を指摘されて脊髄反射で怒っている場合ではない。「公教育軽視」が浮き彫りになったという意味で、このコロナ禍が示す事実は、とても重い。

***

会社で様々な「人と人が集まる機会」が中止となる中で、1つ、明確になったことがある。それは「こんなに集まらなくても、仕事ってできるよね?」という事実であった。

都心部は、平日で2割ほど人が減っているという報道もある。大企業を中心にテレワークが進んでいることと、主に公共交通機関を使用した移動、出張が激減しているからである。

テレワーク導入初期のあるあるは、「本当に仕事をしているのか監視できない」とか、「途中でサボる奴もでる」というとても些末な反対論である。

だが、よく考えてみてほしい。1日に合計すると何十分ものタバコ休憩に出ている人、どうでもいい愚痴のおしゃべりで相手の手を止める人、いるでしょう。結局、2:8:2の法則の通り、「やるやつはどこでもやるし、やらないやつはどこでもやらない」のである。

実際、テレワークがはじまって数週間たったが、それでも社会が崩壊したというニュースはついぞ聞かないのである。むしろ無駄な移動や会議が大幅に減って、「今までって何だったんだろう?」と思い出している人々も多いのではないか。

私の実感としても、これまで絶対に行ってきた大きなイベント、必ず実施してきた必修の研修、会って話すことを是としてきた会合・・・これらをすべてなくしたところで、「何も変わっていない」のである。

「やらなくてよいことを時間をかけて準備していた」ことがどんどん明確になってきた。これは大いなる無駄である(通勤時間も同様)。

捉えようによっては、異常に低いといわれる我が国の生産性を劇的に変えていく千載一遇の大チャンス・・・なのかもしれない。

***

政府は、「学校がお休みのせいで、子どもを預けられない」親への休業補償を行うという。だがちょっと待ってほしい。「子どもを預けられないから、何とか工夫して仕事をできるようにした」人たちはどうなるのか。

例えば、夫婦が交互に有休をとるケース。本来は別のことに充てられた有休は、「取り損」になってしまわないか。

こんなケースもある。実家の親に見てもらう、シッターに預けるなどだ。交通費や手数料をかけて何とか見てもらう方法をつくろうと必死に努力しているパパママを身近で数多く見ているだけに、そうした努力への補填を行わないことに対しては怒りすら湧いてくる。

もう少し突っ込んでみると、本当は家族のためにも自宅で感染リスクの低いテレワークをしたいのに、どうしても出社人数が足りず、やむを得ず出勤をせざるを得ない・・という人もいる。遠距離通勤者に比べて、家が比較的職場の近くにあるから、というただそれだけの理由で、遠距離通勤者よりも職場への出勤圧力が高い人もいる。家庭持ちの出勤が「不安定」だからと、独身者・単身者に出勤を偏らせるのも、ある意味で差別的である。

みんながみんな、このコロナ禍では「我慢」をしている。政策的に「目立つから」というただそれだけの理由で、特定の層を優遇するとか、安易に「補償」を連発するとかいったことは、公平性の観点から言っても、絶対に許されない。

***

斯様に、この度の新型肺炎は図らずも様々な問題を社会に投げかけている。
為政者が「東京オリンピック実施ありき」を崩さないところは、「日本が敗戦するわけがない」で破滅に突き進んでいった戦時中の精神構造とまったく一緒である。

政府や社会の上層部は当然にオリンピック中止または延期の善後策を「検討」しているはずなのに、それを「検討もしていない」というから、余計に世論は不安になるのだ。

むしろ、「このままでは東京オリンピックの中止・延期も考慮すべき事態になりつつある。だからこそ、世界全体のパンデミックを防ぎ、我が国もできる限りの予防措置をとるための策を多方面から講じていきたい」という前提に立って(それをオープンにして)政策を進めていくべきなのだ。

事実を認め、そこから対策を検討する。・・・この当たり前のことができないからこそ、国民の疑心暗鬼はますます深まり、それが「トイレットペーパー騒ぎ」にまでつながっていくのである。

今回の政府の対応は、「後手後手」というよりは「グダグダ」である。「先手先手」といいながら、「やります」といって宿題を31日までやらない少年のようである。

ここから巻き返しを図るのは容易ではない。ただ1つ、今の事実を認め、それこそ「オリンピックも黄色信号である」という「不都合な真実」を明確に国民に示し、全国民の協力を仰ぐことである。

それが「ただちに」できなければ、今度こそ「現状改善主義」は瓦解し、国民から見放されるときが来るだろう。それこそ、オリンピックまで持たないかもしれない。


2020年3月9日公開

消費増税後の「10-12月」のGDPが年換算で-6.3%になった(日経)という衝撃的なニュースが飛び込んできた。

政府はこれを「台風」だの「暖冬」だのに結び付け、果ては「緩やかに景気回復」という大本営発表(日経)までして、「やっぱり消費税増税は失敗だった」という世論が形成されぬように躍起になっている。

ただ、大本営発表は生活実感と乖離しているので、圧倒的大多数の物言わぬ国民は、「そんなことないべ」と鼻をほじりながら、財布のひもをしっかりと結んでいるのである。景気がよいのに個人消費が上向かない、そんなことはあり得ないからだ。

ここへきて新型コロナウイルスの市中感染拡大、という日本社会にとって特大のリスク要因が発生した。すでにインバウンドバブルの崩壊(ダイヤモンドオンライン)も確実で、常識的に考えて、1-3月期のGDPが前期よりも好転する要素はない。

そして誰もが薄々思っていることだが、「東京オリンピック」の開催も、もはや黄色信号である。もし中止となれば、大阪万博と併せ、老年期に突入しつつある「近代日本社会」の「壮年期、最後の仇花」だっただけに、実体経済はもちろん、個人消費の前提となるメンタルに与える影響も計り知れないことになるだろう。

大本営は、だからこそ「座してコロナが過ぎるのを待つ」「心頭滅却すれば火もまた涼し」という心境なのだろうが、何も手を打たなければますます状況はひどくなる・・という点では戦前の敗戦直前と類似した「誰も決断しないし、したくない」状況にあるといえよう。

斯様に、チャレンジングな状況にある日本経済において、今回の増税のタイミングは、おそらく「最悪」であったと、後世の経済学の教科書には記銘されるに違いない。

私は2019年の8月に、以下の趣旨のことを書いた

1.参院選を冷静にみれば「野党の政策実現能力」は国民から既に見放されている。与党の「現実改善主義」だけが、現状のシュリンクし続けていく社会を少なくとも<下支え>だけはする、と国民が暗に感じているからこそ、与党は「増税」を訴えたにもかかわらず、議席を維持できた

2.これで増税は決定的になったが、もはや国民に増税を受け入れる経済的余裕はなく、消費増税を受けて、決定的に消費回復の芽は絶たれる

3.増税後は放っておいても深刻な不況が訪れる可能性が極めて高い

4.現政権は「現状改善主義(≠理念先行主義)」を取っているので、「善なる現状に国民の支持が立脚する」。したがって、不況になって「悪なる現状」になった途端、国民の支持は容易に離れていく

5.だからこそ国民は、徹底した家計防衛行動をとるべきだ。目に見える形で不況が深刻化すれば、「現状改善主義」であるだけに、政策的対処も取られやすい

この議論の核心は、「消費増税を受けて、決定的に消費回復の芽は絶たれる」というところだったが、これはたぶん小学生でもわかる理屈である。

今回の「やっぱりGDPがものすごく下がってしまいました!」というニュースに対する感想は、「やはり」という言葉しかもはやない。

***

いくら「軽減税率」や「ポイント」でごまかしても、「10%」である。「消費した分の1割を持っていかれる」という数字のインパクトは、やはり大きい。

「お店で1割引きの値札を見ても、『それって税の分が安くなったというだけで、定価のままということでしょう?と感じてしまう』」なんて話も聞くので、それだけ痛税感が大きいのだ。

ここまでのデフレで「値下げは消耗戦略でしかない」ことに気づき、安易な値下げ勝負に懲りた日本企業は容易に値下げをしなく(できなく)なった。「物の量を減らす」「サービスの内容を減らす」ことで価格だけは維持する戦略を取り始めている。

物の量を減らすといえば、食料品の極端ともいえる少量化が典型例である。大義名分は「高齢者や女性でも食べきれるように」という形をとるわけだが・・

サービスの内容を減らすといえば、営業時間の短縮が典型例である。これまた大義名分は「働き方改革」「労働者確保」という形をとるわけだが・・・

増税で可処分所得は減っているので、これらは実質的にはすべて「値上がり」である。すでに日本は不況時の物価上昇、すなわち、スタグフレーションに突入しつつあるのではないか。

それを示す兆候の1つに、不動産価格の高止まりがある。

資産バブルで異常な高値が続く都市部のマンション市場は、もはや一般の家庭では手が届かない水準になってきている(「19年マンション発売12%減 価格上昇、43年ぶり低水準」[読売新聞2月22日付東京版]、「誰が買えるの?マンション1戸当たりバブル期越えの8360万円」[MAG2NEWS] など、価格高騰を懸念する記事は枚挙に暇がない)

しかし、不況が続けば結局は「今の価格では売れない」・・そんな時代が間違いなくやってくる。

現に、前回のバブル経済の象徴の1つであった別荘地の不動産は、マイナス価格でも買い手がつかない状況に陥っている場所が出てきているという(空き家問題で増え続ける「マイナス価格物件」の実態 [IT Media])。

深刻なデフレが目の前まで迫っている。それを庶民は敏感に感じ取っているからこそ、資産防衛に走るのだ(消費を手控えるのだ)。

まさに日本経済崩壊を防げるかどうかの正念場だ。

だというのに、新型コロナウイルスの影響で、レジャー、移動・・つまり「人が集まって何かをする」機運が大幅に減るなど、実体経済も深刻なダメージを受けつつある(例えば東海道新幹線は、休日の利用者が現時点ですでに1割減になっている[日経])。

    *** 

このように、ただでさえ消費マインドが下がっているときに、さらに「老後は2000万円貯蓄しないと野垂れ死ぬし、国も面倒はみないよ」(意訳)と言ってみたり、IMFに「消費税は15%、20%と引き上げていかないと国の財政は破綻するよ」(意訳)と言ってもらったり、どんどんどんどん消費の足を引っ張ることをする。

これに追い打ちをかけるように、働き方改革で「仕事量は変わらないけれど残業代は減らすよ。休みも増やすから、あとはよろしく」(意訳)となって、家計にもじわりじわりとダメージを与え続けているのである。

これで景気が上向くわけがないのだ。

財務省は、「景気に左右されない財源を確保し、税収の安定化を図ることを以て、国家国民の安寧を図る」ことを存在意義としている。国際的な下げ基調で法人税は下げざるを得ないし、景気に左右される所得税も心もとない。となると、生きている限り発生する「消費行動」に着目した、事実上の「人頭税」である消費税は、確かに「安定した財源の確保」には寄与したのだといえる。

しかし、「安定した財源」というと聞こえはよいが、これはすなわち「国は景気を安定させることではなく、どんなときでも税を徴収できる仕組みづくりを優先します」と言っていることと同義である。

すなわち、「国家の繁栄と国民の福祉増進のために税金を徴収する」ことよりも、「税金を安定して徴収するために、税金を徴収しやすい仕組みをつくる」という手段の目的化が起こっているのだ。

この倒錯した状況で、国民経済の発展や、福祉増進が為されるわけがない。

今後間違いなく大きなデフレ(資産価値上昇)が起こることが目に見えている以上、やはり国民がすべきは、徹底したデフレ対策(資産防衛)なのである。間違ってもインフレ対策(投資や消費)ではない。

・・・これが論理的にせよ非論理的にせよ感覚として持っている国民の一般的な経済観念の帰結である以上、消費が上向くことはないのだ。

これをどう逆回転させるか。まずは「このタイミングでの消費増税が失策だった」ことを出発点に政策パッケージを展開していくしかないだろう。

しかし、ああいう「大本営発表」をしているようでは・・・それを期待しようもないのだが・・・(だから、余計に消費マインドが下がるのだが・・・)。


2020年2月24日公開
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