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このコロナ禍で、「当たり前」だと思っていた日常が、まったく脆いバランスの上で成り立っていたことに気づかされた。「学校」という一番最初の社会基盤ですら、「平時」のシステムの一部に過ぎなかったことも。

「ランドセルを背負って、毎日学校に行き、40人がぎゅうぎゅうに詰まって学び、どんな成績でも1年後には次の学年に持ち上がる」という仕組みが、もしかするともう限界なのかもしれない、とも感じられた。

よく考えると、「スマホ」「ICT」「AI」「ユビキタス」「個別最適化」が当たり前の社会で、近代以来続く「黒板」「わら半紙のプリント」「教科書とノート」「通学前提」「集団授業」というのは、「学校が社会に合わない」現象を加速させてはいないだろうか。

前回書いたように、9月入学は社会変革の1つの起爆剤だと私は信じるが、「性急な導入はしない」方向に政治も世論も全部動いているので、「今すぐ」はあきらめざるを得ない。グランドデザインが描かれたわけではないところがつくづく残念だ。ただ、中長期的には、社会が急速に変化している以上、伝統的な「黒板」「集団授業」型の教育は変わっていかざるを得ないだろう。

そのイメージを考えてみる。一言でいうなれば、「学びの多様化」である。戦前の「強兵養成」でも、戦後の「企業戦士育成」でもなく、「公共の福祉に資する個人の育成」こそが、この「学びの多様化」には求められよう。

【入口】=基礎学力を高める=
基礎も何もないところから、「多様性」も「創造性」もあったものではない。早期のうちから「学びの土台」を固めることが教育改革の第一歩である。


<読み・書きの基礎ができた状態での入学>
・年長期からの基礎教育課程の導入をすすめたい。具体的には「国語」「算数」「生活科」の基礎領域のプレ導入だ。4月入学の場合は9月?、9月入学を導入する場合は年長の3月?、すなわち「年長」期は6か月として、残りの6か月は「ひらがな」「カタカナ」の読み書き、「100までのすうじ」の読み書き、「自己紹介」「通学路の安全」「動植物の知識」あたりを(ちょうど「小学校英語」の導入のように)義務教育化する。これがあると、小学校1年生になったときに「読めない、書けない子」を少しでも減らせるはずであるから(いわゆる「小1の壁」)、スタートダッシュがはかれる。

<ブックスタートの拡充>
・読み聞かせは、「学び」の最もベーシックな部分、「言語能力」や「コミュニケーション能力(感情含む)」に直結する、教育の要点である。どんなに手間をかけても、国策として「読み聞かせ」を推進してくことは意義のあることだと思う。具体的には出生時?3歳に達するまで、毎月1冊、各家庭に絵本を届ける。出生数はだいたい90万人なので、1年の予算は90万人×12か月×3年代分×1000円=324億円。新国立競技場建設費の1/5でかなりの教育効果が見込める施策だ。子育てをしている全世帯に届けるので、ここに年齢別の広告封入を募集すれば、有用な広告媒体(=国庫にとっては収入源)ともなる。

【中間】=学び方の多様性を図る=
早期教育によって「基礎学力」の基盤を創ったところで、いよいよ学校である。テーマは「学びの多様性」だ。「学校のあたりまえ」を見直すところからメスを入れていく。

<単位・飛び級・留年制>
・小学4年生以降の「教科担任制」「単位制」の導入を考えたい。「算数」は「数学(代数)」と「数学(幾何)」に、「国語」は「現代文」と「表現」「古文」に、「英語」は「リスニング&スピーキング」と「リーディング&ライティング」に、「理科」は「化学」「物理」「生物」「地学」に、「社会」は「歴史」「地理」「現代社会」にそれぞれ細分化する。必修科目/選択科目も設定する。選択の新設教科として、「プロジェクト実践(例えば特定のテーマの「調べ学習」をグループで行い、1年後に地元の大学で発表させる)」とか、「コンピュータプログラミング基礎(プログラム言語を使い、実際にソフトウェアを作らせる)」、「社会デザイン入門(大学教授などを招聘し、ゲーム理論やナッジ理論など、行動経済学のトピックスを通じて、よりよい社会を”自分たちが”作っていくという自覚を持たせる)」のような目新しい科目を入れるのもよいかもしれない。
・小学4年生以降高校3年生までの「飛び級」「留年」制度の導入も併せて行う。到達度によってはどんどん先に進んでもよいし、留年もあり得る。「単位制」とセットなので、例えば「数学(代数)」は小4のうちに小6のレベルまで単位取得をしてしまって、「リスニング&スピーキング」は小4では学ばず、小5・小6で一気に単位を取る、得意な「現代社会」は、その時だけ中学まで授業を受けに行き(オンラインでも可)、結局小6までで中学3年分の内容を修了してしまった・・ということも可能とする。
・学校行事も「必修」と「選択」を設定する。例えば「運動会」「体育祭」は毎年必修1単位とするが、「合唱コンクール」は、3年間で必修1単位とか、「芸術鑑賞」は音楽・美術・舞台芸能などから毎年1単位選択とか、中には「海外留学」を入れるなど、子どもの趣向に併せてアレンジメントできるようにすることも検討する。学校ごとの個性があってもよい。
・教科担任の先生は、毎年初に「シラバス」を発行し、授業計画や単位認定の基準を明確に示す。「自分のやっていることが何につながっていて、どんな効果を得られるか」は、授業を受ける側の「知る権利」でもあろう。特に公立学校においては、納税者全員が「知る権利」を有するはずだ。
・教員免許も、「幼稚園教諭(年少?年長6か月度まで)」「初等教育教諭(年長7か月度?小学3年生まで」「中等教育教諭(小学4年生?中学3年生まで)」「高等学校教諭(高校)」に組み替えることも考えたい。
・ここまで書くと、発達段階から見ても(要は「つ」のつく年までが初等で、それ以降は中等ということなのだが)、これまでの「6・3・3制」から、より柔軟に、
「初等教育」 3.5
「中等教育」 6
「高校教育」 3
という、「3.5、6、3制」というのを検討してもよいのかもしれない。地域によっては、「こども園・初等教育学校(年少から小3までの6年間)」「中等教育学校(小4から中3までの6年間」「高等学校(高1から高3年までの3年間)」という「6・6・3」のくくりで学校を再編するところがでてくるかもしれない。

<皆勤賞の廃止>
・今や、体調不良者が出勤することは社会の重大なリスクになっている。「体調の悪いときは、休む」という当たり前の社会を創ることは、教育の責任でもある。ときたま、「クラス全員が皆勤賞を狙うために、体調の悪い子をクラスの何人かが迎えに行って、何とか全員で皆勤賞を達成した」という気持ち悪すぎるニュースを目にするが、これは美談でもなんでもなく、ただの「集団圧力」という暴力であることにそろそろ気づかねばならない。休んだ人がいたら、その分を皆でフォローしあう姿勢を育むのが本当の教育だろう。
・この「皆勤絶対主義」で育った大人の行く末は、「緊急事態宣言下で、会社がテレワークの指示を出していても、出社していないと落ち着かない企業戦士」の量産だったことを絶対に忘れてはならない(ウイルスだけではない。もともと地震などの自然災害も多い国だ。人が「不要不急」で集まることそのものが、もはや社会的なリスクであることは、改めて自覚したい)。

<集団授業とe-ラーニングのハイブリッド化>
・「絶対に集団教授式でなければ、学びは成立しない」という拭い難い先入観は打破された。ほんらい、学びは「自分でやるもの」であって、「誰かから教えてもらわないと、できない」ものではない。いや、そもそも「教えてもらう」ことですら、「教えてもらう」→「自分で気づく」→「習得する」というプロセスを踏むはずだ。
・学習習慣が身につくまでは、学校という場で「勉強とはどんなことか」を知る必要がある。また、集団生活に慣れることそのものも大切だろう。しかし、いつまでも集団授業「だけ」で教育を行うというスタイルにも無理がある。
・そこで、「e-ラーニング」と「集団授業」のハイブリッド化を進めたい。小学4年生くらいから、「聞けばわかる」「読めばわかる」「練習すればできる」ことは「e-ラーニング」を積極的に取り入れたい。特に計算や漢字などは、身もふたもないことを言えば、「理解力」というより「適切な練習量」が「学力」に直結する課題だ。ある意味、「入力」×「努力」=「成果」という方程式が成り立つものである。方程式にできるということは、「数値化」、すなわち「機械化」できるということもである(ただし、これが学びの基礎であることは論を俟たない)。すなわち、こういう機械化可能な分野=「わざわざ学校でやらなくても、家でもできてしまうこと」については、「ミスした問題」「定着した問題」の峻別をとっととAIに任せ(つまり人間を解放し)、積極的に個別最適化を図っていくのだ。ある課題ができない子は徹底的にその単元を学んでいくべきだし、できる子はできることをどんどん伸ばしていくほうがよい(ただし小3までに、「世の中にはいろいろな子がいる。できない子がいれば時には待つことも大切。自分がそうなることもあるのだから。ただ、あえて自分が先に進んでそこで待っているということもある。みんな違ってよい」ということを、それこそ集団授業で気づかせることが前提ではある)。一方の集団授業は、科学実験とか、ディベートとか、1つの目的(例えば「調べ学習」など)をチームで達成させるプロジェクト志向型の授業、などに絞って時間を使っていくべきだろう。繰り返すが、「計算力」や「漢字」などは、機械化が可能であるから、ICTによってトレーニングプログラムを入れて、ただちに個別最適化の方向に舵を切るべきであるし、それができない分野については、「人」の介在で、「人」ならではの授業を展開していくべきなのである。

<学力到達度認定テストの創設>
・年に1度、インフルエンザの時期に1回勝負の「大学入学共通テスト」(旧大学入試センター試験、共通一次試験)を行うという慣行は、「学びの多様化」と逆行している。大学以降の高等教育は、「いつでも、だれでも、いつからでも」学べる状態が理想である。
・学力の到達度を公的に認定するテストがほしい。イメージはアメリカのSATとかACTのような大学進学適性試験だ。ちなみにSATは年に7回も受験機会があるようだが、まずは現実的に四半期に1回、すなわち「年4回」の受験機会を提供する(3月・6月・9月・12月)。
・内容は、あくまで「到達度の認定」なので、基本的にはローコストのマークシート方式とする。各教科はスコア化され、例えば国語であれば、「現代文は200点/500点」で到達レベルC、のような感じ。あとは大学ごとに「〇科目で到達度A以上、〇科目で平均A以上、ただしC以下がないこと」のような受験資格を設ければよい。偏差値というより、このスコアが事実上の大学ランクを示すことになる。
・一定の条件で(例えば「大検」の受検、「高校に〇年在籍し、〇単位取得済」など)、この「学力到達度認定テスト」の認定基準に達していれば大学を受験できるという制度は積極的に推進していきたい。すなわち、非常に優秀な学生であれば、高校2年のうちに「日本版SAT」の基準に達し、大学入試の受験資格を得られる、ということも考え得ることだ。上記の「飛び級」ともリンクする話だ。

<時間割の発想からの脱却>
・年間授業コマ数に拘らない、柔軟な授業設定も考えたい。例えば、高校の独自設定科目として「都市景観の課題を発見する」というフィールドワーク型授業を設定した場合は、コマ数ではなく、「1年間、個人またはグループで研究した結果を論文で発表する」ことを以て選択3単位とする、ということも可能にする。また、例えば小学4年生の「数学(代数)」においては、「分数の計算力到達試験」で80点以上、「小数の計算力到達試験」で80点以上、「まとめの試験」で80点以上それぞれ取得した場合に「合格」とする(明確に成果で測れる課題については、授業時間数ではなく、「成果」で判定する)といった運用も考えられる。一方で、中学3年生において選択3単位の「修学旅行」においては、「準備・計画」に50分1コマ、「修学旅行」に3日程、「振り返り」に50分1コマを以て単位認定をする、など「時間で測る」ことがなじむものは、コマ数に換算することも併用する。

【出口】=一括管理方式からの脱却=
どんなにここまでの制度が整っても、結局は「出口」がすべてを規定するのが公教育の限界点である。「出口」が富国強兵ならば「兵隊とそれを支える良妻賢母の養成」が公教育の目的であるし、それが従順なサラリーマン錬成ならば「企業戦士とそれを支える専業主婦の養成」が目的となる。今は何だろうか。国際社会において、持続可能な社会の担い手となる人材の育成、といったところだろう。となると、必然的に「公共感覚を持った自立した個人」の養成が不可欠となる。ここで求められるのは、一括管理によって「製造」された「正解探し」型の「ロボット」的な「マニュアルワーカー」ではなく、多様な社会状況を経験して「創成」された「イノベーション」型の「自律した人間」による「ナレッジワーカー」であろう。

<大学の入学時期の見直し>
・日本版SATを年4回受験できることと併せ、大学の入学時期も例えば「4月入学/9月入学」と分けるなど、柔軟な設定を行いたい。

<官公庁と企業の通年採用>
・いうまでもなく、多くの企業は定期採用で4月に新卒一括採用を行う。管理が圧倒的にラクなのと、ある程度横並びにしておかないと、「取り得るべきときに人材を確保できない」という機会損失が発生するからだ。ただし、「これまでは」という留保がつく。
・だが「学びの多様化」が進めば進むほど、すなわち、人材の多様化が進めば進むほど、「一括採用」は経営上のリスクとなっていく。すると今度は、却って「取り得るべきときに人材を確保できない」ことになるからだ(「多様化」とはもとから、その本義から言って、従来型の「管理」は棄却されるということを意味する)。
・「分散型採用」が「普通」になると、結局どこかで「横並び」になるのだから、これが「横並び」になるまえに、ブルーオーシャンに漕ぎだす・・ほうが得をするかもしれない。問題は、「誰が先陣を切るか」だけだ。

***
これからは、「一括教育システム」から、「分散型教育システム」にいちはやく転換し、ナレッジとして内在・蓄積している組織のほうが、はるかに多くの人材を結果的に呼び込めることになる、かもしれない。そんな予感を覚える。「組織」を「国」と置き換えても同じである。


公開:2020年5月31日

新型コロナウイルスとの闘いは、正に「戦争」である。銃後を生きる我々は、コロナと戦うとともに、もう二度と社会が「コロナ前」には戻らないことを自覚し、今の社会の「当たり前」を見直すしかない。

■9月入学で、社会を変える

「9月入学」説がにわかに現実味を帯びてきた。3月・4月、そして5月と3か月間も「学校の授業」がまともに実施できない現状では、夏休みを超えて「9月入学」に切り替えるのが、生徒の学習機会担保の観点で見て、もっとも現実的な選択肢であろう。

「4月が入学の季節。桜とともに入学式!」という向きもあろうが、近年の気候変動で、例えば首都圏では3月には桜が咲き終わってしまっているし、そもそもの話、東北では5月前に桜が咲く。別に、「入学=桜」ではないのだ。

そして単純に9月入学が国際標準であるからして、今後の国際競争を見据えた時には、日本独自の制度に拘る必要もあまりない。

強いて言えば、予算管理の問題であろう。ただこれも、仮に「年度」という枠組みを活かすならば、9?3月の7か月を1年度、4?8月の5か月を2年度として、分割管理すればよいだけだ。

本当は、社会全体で年度そのものを「9月?8月」としてしまうことも考えたいところだ。難しいようでいて、実はできないことではない。そもそも、確定申告は「1月?12月」で行う。年度管理を「1年」とずらしたところで、人が決めただけのこと、やろうと思えばできるはずだ。

9月入学の導入によって、意識が変わり、社会の常識が変わる。就活が変わり、企業活動も変わる。空白期間が生じている今こそ、前例にとらわれず、社会全体で取り組むべき課題であろう。

■オンライン化を一気に進める

在宅勤務を続けて、心底思ったことがある。「通勤って、本当に無駄だな」ということ。往復2時間が「家での時間」に代わるだけで、どれだけの時間が捻出されることか。仕事の時間+通勤時間で大幅に拘束されていた「自分の時間」がつくれたという人も多いのではないか。これこそ、「働き方改革」である。

小池都知事の公約通り、図らずも「満員電車ゼロ」が実現した。誰とも知れない人とくっついて出勤するという光景が、そもそも異常なのである。「同じ時間に、一斉に移動する」必要が実は全くないことを、この在宅勤務は示してくれた。

ミーティングはオンラインで充分。むしろ、無駄な話をしている余地がないので、テーマが明確で、サクッと会議が終わる。

FAXなど時代錯誤の遺物。メールなり、BOXなりで済む書類を、今までどれだけ無駄にやり取りしていたか。

そしてそもそも、事業所という存在がもったいない。オフィススペースを縮小し、浮いた賃料を社員のオンライン経費に回し、「いつでも、どこでも、誰とでも」仕事ができる環境を整えるほうがよほど生産性に直結する。社員が自宅近辺で仕事をできたほうが、災害時のリスクヘッジにもなる。

これも、「在宅勤務」を多くの日本人が”体感”しはじめている今こそ、前例にとらわれず、社会全体で取り組んでいくべきテーマとなろう。

■学校の常識を変える

時折、休校期間中でありながら、「登校日」と称して学校にランドセル姿で登校する子どもの姿を見かける。

「ちょっと待てよ」と思う。一体何年、「学校に行くこと」を前提として教育制度を組み立てているのか。

オンライン環境を整えれば、非常時にはわざわざ学校に行かずとも、在宅で授業を受けることはできる。まずは「学校に行けない状態でも、教育機会を担保する」ための環境づくりが急務であろう。

そして、そもそも「毎日、決められた時間に学校に行く」ことにもメスを入れる必要がありそうだ。例えば週1回は在宅で授業を受ける日、などを設けることで、「家で学習する習慣を身に着けさせる」ことに特化した教育プログラムを組んでもよい。

「○月○日は市営の○○体育館に集合」とやって、1日中、外部で体育の授業をしてもよい。わざわざ、体育館や運動場をセットで設置する必要もないかもしれないのだ。

ここは、柔軟に考えたい。集団行動も重要だが、同じように「個人としてどう動くか」の訓練も必要なのだ。旧時代的な「標準工業品を出荷する教育」=集団教授式(みんなと、同じ時間に、同じ成果をあげさせることを目指す)だけでなく、「オーダーメイドのオリジナル商品を出荷する能力を磨く教育」=個人別学習(いざ、一人で動くときに、どう学ぶかを体感させる)という「学び方」そのものも提供できる教育機関に脱皮することを、学校には強く期待したい(どちらか、ではなくどちらも、である)。

■会社の常識を変える

筆頭は、やはりテレワークの浸透だろう。この流れは止めようがない。「監視型テレワーク」は絶対に長続きしない(疲れるから)。そうではなく、「成果型テレワーク」に移行していくだろう。「労働時間」ではなく、「成果」だけでもなく、「組織の成長プロセスと成果物」で組織への貢献度を図る、そんな時代がまもなく来ようとしている。

「ハンコ決済」「書類の郵送・FAX」はかなり厳しい局面に立たされる。一度デジタルの「手軽さ」「即応性」に慣れてしまうと、ほとんどすべての書類決済はオンライン化が加速することになろう。

「同じ時間に、同じ場所に、全員が集合する」という勤務スタイルは、もはや古い。「バラバラの時間に、別々の場所で、全員が自分の仕事をする」という勤務スタイルがデフォルトになる。すると畢竟、「通勤」という概念が様変わりする。

まずは「満員電車」がなくなるはずだ。どうしても出勤が必要な時でも、わざわざ激混みの時間に突入していって、体力を消耗させる必要はないのだ。

中長期的には、「居住環境」が多様化するであろう。テレワークが浸透すれば、わざわざ「都心に近い場所」で働く必要性が薄くなってくる。場合によっては、「自然が大好きなので、山奥の広い家を買ってそこからリモート出勤をする」とか、「日本中を旅して、必要な時に業務に加わる。だから家は安いところで充分」みたいな究極ともいえるノマドワーカーも普通になるかもしれない。

会議も出張も、勉強会も。もはや「集まって何かを実施する」というのはリスクでしかない(感染、災害など)。コストもかかる(交通費、会場費、資料代など)。「できるだけ人を動かさない」という方針が、これからますます強くなってこよう。

■”アフターコロナ”を見据えた業務改革を:「再成長戦略」としての働き方改革

今はまだ多くの企業が緊急対応の段階(社員とステークホルダーの安全確保、既存の事業継続計画(BCPやBCM)に基づく応急的実行)にあろうが、やがて1年というスパンで「収束」が見えてきたときに、「戦後処理」が必要になってくる。それが組織や業務体制全体の再構築(リストラクチャリング)の段階である。そして、この2つの段階を乗り越えた先に、「ポストコロナ」のイノベーションを起こしていかなければならない。

平成を駆け抜けたグローバル化、拠点の集約化、選択と集中は、すべて「平時」の戦略であった。「戦時」は、グローバル化が統一対応の足枷になるし、組織効率化はバッファーの不足を露呈させる。これまでの「効率一辺倒、グローバル化頼み」では到底立ち行かないのが、この「アフターコロナ時代」であろう。

組織はまず、BCPやBCMといったリスクマネジメントの概念を、まさに、組織そのものの生命を守り抜くために、より包括的なERMにまで引き上げていく必要が生じよう。リスク評価の概念を、単に「地震」や「台風」といった災害にとどめず、全世界的・長期的に経済活動がストップする状況を想定したものに引き上げていかねばなるまい。

これと密接にかかわってくるのが、組織改編である。組織ビジョンや経営計画の抜本的見直しはもちろん、抱えている事業そのものの大幅な再構築も求められよう。

それにはまず、組織の変革だ。「稼得部門」は「効率化」のみならず、稼得特化能力(不要不急の業務に忙殺されない業務チェーンの見直しと緊急時のリスク対応能力)を高めるための適切かつ迅速果敢な投資を行うことが求められ、一方で「バックオフィス部門」は、一層の効率化を進める圧力が強まるはずだ。

そのために欠かせないのが、ICTを中心とした企業内インフラの充実である。「高速」で「安全」な社内LAN環境の整備を前提に、より社員がテレワークをしやすい環境を常時整えておくことが求められる。

これと併せて、人事制度の改革にも徹底的に着手をする必要性があろう。それこそ、2021度からの「9月入学」1期生に合わせた新卒採用活動からスタートし、社内研修制度の見直し、「働きすぎない在宅勤務」を見据えたテレワーク制度の整備・充実、台風災害などのときに「外で何時間も電車を待って出勤する」ことが”美徳”とならないような人事制度設計も含めて、根本から制度そのものを見直していくことが不可欠である。

本稿の参考文献:「アフターコロナを見据えた取り組みの方向性・・・収束から再成長に向けて 」(日本総研)

■まとめ

以上、様々なことを書いたが、とにかく空白期間が生じている今こそ、前例にとらわれず、社会全体で取り組むべき課題であろう。


公開:2020年4月29日

本来、日本の社会参加意識は低い。近代化も「黒船仕様」なら、民主化も「アメリカ仕様」だ。内発的に近代化・民主化が為されてきたわけではないので、当然といえば当然だ。

今回の事態で、この国がどこまでもムラ社会であることを思い知らされた。「国政はお上が決めること、私たちは作物の獲れ高だけに気をつけていりゃええ」というのが本質的な国民性であり、基本的に社会で起こることは「他人事」なのである。

これは、為政者にしてもそうだ。唐突な一斉休校にせよ、オリンピックの延期にせよ、マスク配布にせよ、10万円バラマキのバタバタにせよ、すべてが「他人事」なのである。これはイソップ童話の「ロバを売りに行く親子」の話そのもので、どこか他人事だからこそ、ここまで一貫性がない政策が繰り広げられるのである。「他人事」というのは「責任の所在がはっきりしない」ということと近しい。まさに戦争末期の政府中枢部の「決められなさ」と相似形をなしている。

しかし、戦争当時と違うのは、国家の権力の拠り所はやはり国民であるという点だ。しかし、その国民が基本的に「他人事」(大事なことは、みんな国が決めてくれるさ)であるからこそ、この体たらくが定義上、国民の総意の集合であるはずの国政に反映しているということは、しっかりと肝に銘じておかなければなるまい。

***

あれだけ「これ以上外出をすると、緊急事態宣言の期間は伸びるぞ」(意訳)と政府も専門家集団も警告しているのだが、基本的には「他人事」なので、平気で外出をする人々がいる。

■自分が平気なので、スーパーには家族みんなで買い物に行く
■自分が平気なので、車で行くなら大丈夫、と観光スポットに息抜きに行く
■自分が平気なので、(在宅勤務中なのに)ちょっと会社に顔を出す

まるで、「自分はよく見えているので、無灯火で自転車を漕ぐ」が如くの浅はかさである。周りの車から、あなたの自転車は見えていないのだ。ウイルスは、無差別である。

この身勝手な行為が、どれだけ「緊急事態宣言の期間が伸ばされる」ことに寄与しているのか、こういう行動を平気でする人たちは、おそらく誰も気にしていない。

スーパーに集団で行くなど、「三密を実践しています!」を地でいくようなものだ。車で観光スポットに行ったところで、そこにたくさんの人が集まれば、あっという間に「三密」の出来上がり。そして特に「ちょっと会社に顔を出す」クセは深刻で、「FAXを送るから出社しなくては(←Web上でFAXは送れます)」「郵送物があるから出社しなくては(←受け取りは転送できるし、送るのも地元の郵便局を使って清算すればよいです)」「子どもがいて在宅で仕事にならないから出社しなくては(←そういう問題ではない。無理やり工夫して仕事をやりくりしている人のほうが多い)」・・等々、いろいろな理由づけによって、出社がなし崩し的に認められてしまっている様相である。まるで「会社に行くことが正義」とでも言わんばかりに。今は、「会社に行くことが、必ずしも正義にならない」状態になっているというのに。この価値観の転換についていけていない人は、実はとても多い。これが、平日の外出を抑制できていない最大の原因だ。

これも、結局は「他人事」だからなのだ。「私たちは作物の獲れ高だけに気をつけていりゃええ」のである。

***

発想を変えよう。

もはや戦時中である。最前線で戦う兵士(医療関係者)を支え、少しでも早く戦争に勝利するよう協力するのは銃後の国民の義務である。敗戦(医療崩壊)は、端的にいえば今の社会の破滅を意味する。

それを防ぐために国民がやるべきことはただ1つ、とにかく「ソーシャルディスタンス」に耐え、1日でも早く事態を収束させることに協力することのはずだ。

長いとはいえ(ものすごく長く感じる)、わずか4週間。「スーパーに行くのは週に1回、1人」とか、「2キロ以上の外出は控え、近所の公園の散歩で済ます」「どんなに不便でも、自宅でできる仕事をする工夫をする」というのが、銃後の国民ができる最低限の社会貢献だろう。

今、目の前の「作物の獲れ高」だけに拘泥すると、もっと先の「将来の作付」にまで影響することに気づかなくなってしまう。今こそ近視眼的思考から脱却し、中長期的視野で「感染拡大収束」への協力をしていきたい。

これでも「関係ない」と言い張るのなら、もっと状況が悪化して「緊急事態宣言」の期間が伸びても政府に文句を言う道理はないし、医療関係者のご厄介になる権利もないし、それこそ経済が崩壊してどうしようもなくなったときに、誰かに助けを求める筋合いすらないとよくよく心得ねばなるまい。

戦時中だ。銃後の国民が前線を支えぬ行動をとって、何になる。「自粛疲れ」などと寝言をぬかしている場合ではない。平和ボケを通り越して、ただの「ボケ」である。


公開:2020年4月19日

多くの企業で「在宅勤務」がスタートした。しかし営業現場の声に押されて「原則オフィス閉鎖だが、緊急の場合は出社を可能とする」という”抜け道”が用意されていることが多く、部署の1/4くらいは出社をしている・・みたいな職場もある。

しかし、(会社が出社を抑えているのに出社する行為は)結局、コロナウイルス感染拡大を封じ込めることと「真逆」のことをしているわけで、却って事態終息を遅らせ、余計に自分たちの首を絞めることになる。ここはおとなしく、できる人は、在宅勤務を徹底すべきであろう。

1度出勤すると、場合によっては1日で90人近い人と2m以内で接触することになる。もし、自分が感染者だとすると、最悪の場合、その100人に感染させてしまうかもしれないのだ。

行きの改札で10人、ホームで5人、電車の中で20人、エレベーターで5人、コンビニで5人、昼食で5人、帰りの改札で5人、ホームで5人、電車の中で20人、スーパーで10人、、と2m以内に接触するとすると、それだけで90人だ。「外出」がどれだけ「接触」のリスクがあるか、これでわかる。

「まさか自分が・・・」という人が、クラスター源になっている。「自分がかかるわけがない」のではなく、「自分はかかる可能性がある」のである。

そう考えたら、安易な気持ちで「緊急だから、出社しよう」と思えるはずがないのだ。それくらい、事態は逼迫している。「会社が出社を禁止しているのに、軽い気持ちで出社をする」という行為は、危険行為でもあると心得なければなるまい。

出社は、癖になる。「家で一人でいても手持無沙汰だから」「家では子どもがいて仕事にならないから」「なんとなく、心配だから」「印刷しなければならないものがあるから」・・・様々な言い訳で、会社を「居場所」にする。しかし、本当に感染爆発が起これば、その「居場所」には行けなくなるのだ。「居場所」を確保するためにも、今はその「居場所」に行かないという選択が極めて重要である。

在宅勤務を1か月も続けるためにはどうしたらよいか。いくつか考えてみた。

■時間割を決める
メリハリのある生活をすることが、きわめて重要だ。例えば私は、平日を以下のような時間割を組んで勤務することにしている。今時、塾のない小学生並みの健康スケジュールだ。

07:00 起床
07:30 朝食
08:00 新聞チェック
08:30 午前の勤務開始(3時間30分)
12:00 昼食
13:00 午後の勤務開始(2時間)
15:00 休憩
15:30 午後の勤務再開(2時間)
17:30 午後の勤務終了
18:00 入浴
18:30 夕食
19:00 ニュースチェック
19:30 残務処理
20:00 業務終了
23:00 就寝

今は通勤時間は、仮にドアtoドアで30分程度であっても、結局準備や待ち時間だなんだで、その倍(1時間)はかかるので、結局往復2時間はロスする。これが丸々「自分の使える時間」として活用できるのは非常に大きい。

そして、オフィスにいるときはなんだかんだで、人から話しかけられたり、自分が話しかけたり、トイレや印刷、探し物で立ち歩いたりと結構ロスが多い。丸々2?3時間、机に向かって集中できる時間というのは、そうそう捻出できないのである。

こういう仕事の組み方をすると、脳が非常に疲れる。それはそのはずで、ずっと集中しているからだ。しかし、通勤で疲れない分、オフィスにいるときよりも朝の集中力は高くなる。まさに生産性革命である。

■休憩をしっかりとる
集中して仕事をする分、それなりに意識してレストタイムを設定しないと、くたばってしまう。朝は3時間30分ぶっ続けで仕事をする一方、業務効率が落ちてくる昼は、2時間で休憩をはさむスタイルをとる。もし、仕事が押していれば、この休憩時間を調整時間に充てるわけだが、ここでせめて10分、15分でも休憩をとるようにすると、後半の2時間の効率が違ってくる。

■通勤しないことにより捻出された2時間
1つは、「残務処理」の時間に充てる。夕食前までに終わらなかった業務(細かいメールの返信など)は、やることが全部終わって「あとは寝るだけ!」というテンションの比較的高めの時間に集中して終わらせてしまう。それでも20時には開放されるようにすると、そこから寝るまでの3時間以上を「自由時間」として使える。これは大きい。

■適度に運動する
通勤もしない、途中でランチの外出もしない・・・となると、必然的に運動不足になる。ただでさえずっと同じ場所に座っているのだから、非常に体に悪い。アイデアも出なくなる。だから、運動の時間は設けたほうがよい。

おすすめは3つあって、1つは勤務前の「ラジオ体操」、昼食後の「youtubeでエクササイズ」、あるいは15時の休憩時の「散歩」だ。全部組み合わせると疲れるので、どれか続きそうな1つでもよいだろう。とにかく「少しでも体を動かす」。それだけでも、その後の業務の効率は違ってくるだろう。

■人と話す
今は、Skypeなり、Teamsなり、Zoomなり、FaceTimeなり、職場のメンバーとのコミュニケーション・ツールは劇的に進歩している。1日1回は、職場のメンバーとしっかり肉声で話す時間を作って、できれば顔を見せて、生存確認をするべきだろう。誰とも話さないでいると、例えば近所のコンビニで「ポイントカードはお持ちですか?」と聞かれたときに、「あっ・・うっ・・持っていないです・・」と、びっくりするくらい声が詰まることに苛まれるだろう(実話)。

■深夜と土日は仕事をしない
いつでも家で仕事ができてしまう環境にあると、特段やることのない自粛期間のことである、ついつい仕事をしてしまう・・というワーカホリック現象に陥りやすい。ただし、ここはオフィスがあるときと同じペースで土日仕事をしないことが重要だ。1日中、気が張り詰めた状態となり、これが1か月も続けば確実に破綻する。「深夜と土日は仕事をしない、メールを返さない、電話にも出ない」という心構えを、むしろ「在宅でない」とき以上に守らなければならないのである。

■在宅でできる趣味を複数見つける
ついつい、在宅のときは「ゲームをする」「Youtubeをみる」「NetFlixをみる」「Amazonをみる」といった画面行為に走りがちだ。事実、私も「あつまれ!どうぶつの森」や「スーパーマリオメーカー2」にハマっているし、Amazonで「全員集合」を見まくっているし、Youtubeも大好きだ。息抜きには最高!!だろう。

ただし、在宅で、ただでさえ「画面系」の仕事をしているのである。ここは「非画面系」の趣味も同時並行でやってバランスをとったほうがよい。厳密に決める必要はなかろうが、画面系に○分、非画面系に○分、と決めるのもありかもしれない。

「非画面系」で真っ先に思い浮かぶのが「読書」「音楽鑑賞」である。「料理」もよい。また、読売新聞の「編集手帳」の編集者が「園芸でも・・」みたいなことを書いていたので、私はさっそく、ベランダで「ガーデニング」を始めることにした。また動画を見ながら「ダンス」というのも面白そうだ。これを機に「語学を勉強する」(ラジオ講座など)というのもありだろう。派生で、「資格を取る」「敢えて昔苦手だった教科を勉強しなおす」などもよいかもしれない。「手芸」とか「DIY」に凝る人も出てこよう。「掃除」という向きもあるかもしれない。子どもがいる家では、「トランポリン」もおすすめだ。小さい子どもは、ずっとそれで跳ねている。親もよいエクササイズになる。マンションならば、下にも音が響きにくいという利点もある。

■意地でも出勤しない   
先程、「出社は癖になる」と書いた。当たり前である。オフィスは仕事がしやすいようにデスクや椅子、レイアウトが設計されているからだ。インターネット環境も家とは段違いに高速なはずである。出したいときに印刷ができ、ちょっと目をやれば外の景色も、観葉植物も自分たちの目を和ませてくれる。空調だって、家よりもずっと効いている。

何より、(ほかの人が出勤していない分)静かである。静かで快適な空間。そりゃ、仕事しやすいって。

だから、ダメなのである。出社しては。社会の要請は「一刻も早くコロナウイルスの感染拡大を抑止して、今までの日常に戻ること」であるからして、今の時分に「行ってはいけない」と言われているオフィスにのこのこ出社するのは、「自分はこの感染拡大抑止に協力する気はありません!」と高らかに宣言しているようなものなのだ。

家は、基本的には「寛ぎの空間」である。職場ではない。ゆえに、生活はしやすいが仕事はしにくい机やいす、レイアウトになっているはずだ。インターネット環境も、オフィスとは段違いに低速なはずである(最近は一斉テレワークによってVPNがつながりにくくなっており、Wi-fi接続ですら超低速回線のようになってしまっている)。印刷はコンビニに行くしかなく、外の景色はいつもの風景、観葉植物などありゃしない・・と。空調もかび臭いもわっとしたエアコンのそれだ。

何より、(ほかの家人がいれば)にぎやかである。にぎやかで仕事にはおよそ向いていない空間。そりゃ、仕事しにくいって。

だから、工夫が必要なのである。そして、出社欲を抑えなければならないのである。社会の要請は「一刻も早くコロナウイルスの感染拡大を抑止して、今までの日常に戻ること」であるからして、今の時分に「行ってはいけない」と言われているオフィスへ出社するのは、「自分は感染拡大をしています」と言っているようなものなのだ。


公開:2020年4月14日

「接触を8割減らす」。どうもこれが、今、日本社会において国民・市民が参画できる唯一にして最大の社会貢献であるようだ。

もっともこれを明確に解説していたのが、小池都知事とヒカキンの対談動画であった。ここで「接触を8割減らすことの意義」が非常にわかりやすく解説されていた。すなわち、

  • 感染者1人を何もしないで放っておけば5日後には2.5人が感染し、1か月後には406人にまで感染が拡大する。
  • 2次感染者を半分に減らせば、5日後にはこれを1.25人にできるので、1か月後には15人にまで抑えられる。
  • そして接触を75%減らすことができれば、5日後には感染者が0.625人となり、1か月後には2.5人という水準にまで減らせる

というロジックである。だから、「8割減」が必要なのだ。

ちなみにこの動画は、大量に存在するであろう「テレビ非視聴者」層へのリーチとしては、現時点で最も効果が高い動画だと感じられた。ピコ太郎の「Wash Hand」もそうだが、「動画インフルエンサーの、拡散力」は、社会にとって今、必要な力である。

そしてこの「8割減」は、可及的速やかに為される必要がある。日経の記事(4月11日付)で、「「接触7割減」では収束まで長期化 北大教授が警鐘 」という記事が掲載されていた。

これによると、

  • 7割減のままでは、感染拡大抑制まで34日、効果の確認まで2か月弱かかる
  • 2週間かけて段階的に(4割→6割→)「8割減」を目指すと、感染拡大抑制水準まで39日、効果の確認まで2か月程度かかる
  • 8割減にしてはじめて、感染拡大抑制まで15日、効果の確認まで1か月程度になる

という。

そしてこれは誰もが懸念していることだが、この記事でも指摘されていた通り、「外出自粛を1か月以上続けると、実行が難しくなる」ということには留意しておかなければならない。何より、実行する側の精神衛生の問題にかかわってくる。もちろん、経済的にもだ。実際は学校の休校は2か月目に突入しており、これが仮に夏頃まで続くとなると、子どもの学業はもちろん、親の精神的負担はいよいよピークに達することとなる。

国も地方自治体も「経済的影響」を気にしてちぐはぐな政策をパッチワーク的に当てこんでいるようにしか見えないのだが、とにかく何が何でも「接触を8割減らし、自粛期間を最小化する」ことが、結局は長期的な経済的ダメージを最小化する最適解のようである。

***

では接触を「8割減らす」とは具体的にどういうことなのか。これについては、TBSの「新・情報7DAYS ニュースキャスター」(4月11日放映)で非常にわかりやすい解説をしていた。普通のサラリーマンが「会社に出勤する」ことで「接触」が拡大することの意味することが、危機感を持って伝わる内容であった。

私なりに、その放送内容を踏まえて「オフィスに通勤するとはどういうことなのか」を記述してみる。ちなみに、「半径2メートル以内」を「接触」とここでは定義する。

すなわち、

駅の改札付近で3人に接触
駅のホームで7人に接触
朝の通勤電車の中で20人に接触
オフィスのエレベーターの中で10人に接触
オフィスの中で15人に接触
お昼のランチで、同僚3名+店員2名+客4名の計9名と接触
帰り道のコンビニで店員1名+客1名の計2名と接触
夜の居酒屋で、同僚3名+店員2名+客3名の計8名と接触
夜の通勤電車の中で15人に接触
帰り道のスーパーで店員1名、客3名の計4名と接触

とすると、1日のうちに93名と接触することになる。
仮に、オフィスへの通勤を取りやめ、在宅勤務に切り替えるとすると、
スーパーで店員1名、客3名の計4名と接触するだけとなり、容易に「8割減」を達成することができるのだ。通勤は最も「接触機会」を増やす触媒となるということが、よくわかる。

***

しかし、実態は「8割減」とは程遠い。
内閣官房が「新型コロナウイルス感染症対策」というページで、所謂ビッグデータを活用し、NTTドコモの携帯電話位置情報を基にした「都市別の人口変動の推計」を公表している。

これによると、例えば4月10日(金)の渋谷周辺の人出は、2019年11月比-57.7%、宣言直前比-30.0%という水準だが、宣言発効翌日の9日比では+1.9%と「増えている」。この傾向は横浜、千葉、船橋、大宮といった都市部でも観測されている。中でも、浦和は2019年11月比でわずか-10.9%しか人出が減少しておらず、宣言直前比でも-7.7%、そして発効翌日の9日比率でも+1.7%の増加となっている(※ただし、居住者のデータを含むので、千葉・船橋・大宮・浦和といった衛星都市部では、むしろ都心部よりも人口の滞留があることは含みおいておく必要がある。参考:「横浜40%、浦和は10%… 緊急事態宣言で人の数が減少 ドコモ調べ」[産経 4/9の記事])

この減少幅では、まったく足りないことは素人目にも明らかである。「もう少し、企業が協力してくれるだろう」と高をくくっていた感のある政府は慌てたはずだ。だからこそ、散々「休業要請はもう少し様子を見てから・・」などと弱腰だった政府をして、「「出勤、7都府県は7割減」 首相、接客伴う飲食自粛を」(日経 4/11)というかなり強めのメッセージを発出せざるを得なくなているのだ(安倍首相は「どうしても必要な場合でも出勤者を最低7割は減らす」とまで言い切っている)。

政府の狙いは明確で、「緊急事態を1カ月で終える」ことだ。すべては経済のため。しかし、結局は「自粛要請はするが、カネは出さない」のであるからして、本当に実効性があるのかはかなり怪しい。

「経済を優先するあまり、目的を見失っている」のが今の政府の状況である。本来は「国民の生命財産を守る」のが政府の存在意義であって、国民の健やかな生命あっての「経済」であるはずだ。

いくら鶏が金の卵を産むからといって、無理して産ませ続けてその鶏の健康を損ねてしまえば、その「金の卵」も手に入らなくなるだ。国民の健康が損なわれてしまえば、経済もさらに立ち行かなくなる。

このままではますます国民の健康は害され、「緊急事態宣言」の対象地域が全国に拡大し、結局「緊急事態宣言」の期間が延び、政府が優先するところの経済は崩壊する。蔓延状況次第では、あれだけアレルギー反応を起こしてきた「ロックダウン」を、本当にやらなければならない非常事態に陥る危険性だってないとはいえない。

***

すでに、危険な香りは漂い始めている。11日、国内の感染者は初の700人を超えるという未曽有の領域に達した(「新型コロナ 国内感染、新たに745人」[毎日 4/12])。

累計感染者の増え方を見ると、すでに「感染爆発」にタッチしてしまった可能性は高い。

1000人→2000人台(3/31) 11日
2000人→3000人台(4/3) 3日
3000人→4000人台(4/6) 3日
4000人→5000人台(4/9) 3日
5000人→6000人台(4/11) 2日
6000人→7000人台(4/??)    1日?(※)

※すでに4/11の時点で6900人となってしまっているので、直近の感染ペースを鑑みると6000人台→7000人台まで、ついにわずか「1日」となってしまう可能性が極めて高い(4/12 1:10現在の情報)。

【上記累計データの参考:時事 「国内感染5000人超す」(4/10)】

3月までは、まだ「増え方」がゆるやかであった。それが4月に入り、急激に拡大の一途をたどっている。約1週間で2倍である。これを爆発的増加と言わず、なんというのか。

もう時間的猶予はない。ここは「とにかく外に出るな。補償はする」という強いメッセージを発出して、向こう2週間でもよいから「人が出歩くことがない環境」を徹底してつくることしかない。そして、お為ごかしの現金給付でごまかすのではなく、緊急の「一律現金給付」や回復後の「期限付き消費税減税」など、これまでには考えられなかった大胆すぎる施策をセットで打ち出し、「政府が責任をもって何とかする。回復後は国民一丸となって復興のために立ち上がろう!」というメッセージを打ち出すしかないのではないか。

「自粛はしろ、でも自己責任で生きろ」というのは、普段酷税に苦しむ側からすると、あまりにも惨い話である。「とにかく外に出るな。補償はするから」というメッセージをただちに出すこと以外に、事態収拾の術はないのではないか。


公開:2020年4月12日
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