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■当たり前を見直す
コロナ禍で、痛切に感じたのが「当たり前は、実は思い込んでいるだけ」ということがいかに多いか、ということであった。

「人が一堂に会さないと仕事はできない」というのは虚構も虚構であった。あらゆる「デスクワーク」は、文字通り「デスク」ワークであって、「オフィス」ワークではないということを思い知らされた1年であった。

さて。これだけ「人と会うな、社会的距離を取れ」の大合唱を受けると、これまでのいろいろな常識や慣習も、もしかしたら「思い込んでいるだけ」なのではないかと感じることが多くなってきた。

「列車の中でタバコを吸うのが当たり前の時代」と、「電車の中でタバコを吸うなんてとんでもないという時代」には隔絶がある。

「駅前に公衆電話がずらりと並んでいる時代」と、「携帯電話でいつでもどこでも連絡が取れる時代」にも隔絶がある。

「コンサートやライブはチケットを買わないと見られない時代」と、「オンラインで誰でもライブを視聴できる時代」にも隔絶がある。

■「コモンセンス」と「変化」の合間で

最初に断っておくと、長年培われてきた「慣習」「習慣」「慣行」「常識」「伝統」といったものは、絶対に馬鹿にするべきものではない。これまでの人類の営みの集合で「やっておくべき」「やっておいたほうがいい」あるいは「やらないとまずい」そんな「知恵」の集合体だからである。

ただし、一方で、社会は常に変容するものでもある。「歌は世につれ、世は歌につれ」なんていう言葉もある。「進化論」を持ち出すまでもなく、「社会の変化に適応できなければ、淘汰される」危険性もある。例えば今、ちょんまげで入社試験を受ければ、間違いなく就職は困難を極めるだろう。お歯黒でミスコン1位も難しいだろう。太陰暦だけで生活をしていれば、社会生活も儘ならない。

ということで、こういう「常識」と「変化(進化)」の中庸で私たちは生きていく必要がある。ものすごく長い間の「伝統」だと思ったら、実は明治以降の慣習だったりすることも多い。そのあたりをよくよく吟味して注意深く生活していく必要がある。

■年賀状について

そして、今の時期柄、最も「変化」させるべきと思うのが、私にとっては「年賀状」であった。

年賀状の起源は、平安時代後期まで遡れる(「年賀状博物館」)という説もあり、やや人口に膾炙している感のある「郵便制度ができた明治以降の制度だから、伝統なんてない」ということではどうやらなさそうである。

そもそも、「年始のあいさつ回り」の代わりとなる書状が「年賀状」であるからして、「年始の何らかの挨拶」というのは、かなりの昔から「伝統」として続いてきている、ということだ。

要は、「新年のあいさつ」そのものは、形を変えど、残り続けている。今は、「直接会う人は直接」、「そうでない人とはほぼLINE」ということに相場が決まりつつある。あいさつがなくなるのはどうかと思うが、人々は挨拶そのものを捨てたわけではない。「何らかの形であいさつする慣習」は非常に根強く、人々の間に残っているわけだ。

それでいいんじゃないか、と思う。
というか、そう思う人が増えた。「年賀状じまい」とか、「職場間や企業間での虚礼廃止」はもはや普通のことになった。よく考えると、私自身をみても、20年/21年比で-50%である。最盛期はおそらく120枚くらい書いていたので、もはや感慨深くすらある。

年賀状そのものはなくならないはずだが、おそらく、賀状のやり取りは「親戚」「恩師」「恩人」くらいに収斂していくのではないか。

結果として急速に年賀状の発行枚数は落ちている(ピークが2003年の44億5946万枚、2021年が19億4198万枚。前年比で-17.4%減、ピーク比で-56.5%)。ちなみに、この間の象徴的な出来事として、「プリントゴッコ」は2008年に販売終了している。

■拝金社会では決して抗えない「コスパ」

一度、「やめてみると、こんなに時間とお金が浮くのか」と知ると、人々は、ますますラクな方に靡いていく。これは世の道理である。

*お金は、「年賀状代」「印刷ソフト代または印刷委託代」「プリンターのインク代」
*時間は、「デザイン決定」「住所録メンテナンス」「コメントを書く」「デザイン決定までの家族間の喧嘩」

これらの手間暇が、「LINEのスタンプをポチ」という「0円・ほぼゼロ時間」に経済合理的に勝てるわけがないのだ。

■「元旦に届く」ということの意味を問い直す

私は、元日に年賀状を確認する(郵便受けを確認する)ことを、ちょうど今年からやめた。いつも、年明けの昼前頃に「あ、あの人に出していなかった」とか「あ、あの人に出したのに届いていない」とかやきもきするのが、いい加減に厭になったからである。

また新年早々、「コメントなし」の賀状を見て、「無理して出されなくてもよいですのに」と一瞬でも思ってしまうのも、もう嫌なのだ。

で、「元日に年賀状を見ない」を実践したところ、驚くほど精神衛生上の安定が得られて自分でも驚いた。「年賀状は、元旦に届くもの。こ昼前には確認しなければ!」という一種の強迫観念である。この感情、明らかに不要なものであった。

・・で、この考え方を延長させていくと、「別に、コストをかけて元旦に配達しなくてもよくない?」ということに思い至る。元日の夕方でもよいし、3が日にしたってよいし、もっといえば「松の内まで」にしてもよい(7日ないし15日まで)。考え方によっては、旧正月までだってよい。企業宛の年賀状なんて、どうせ年明けにしかポストを開かないわけだし。

「働き方改革」のご時世である。電車だって終電を繰り上げて、終夜運転すらしないのだ。コンビニやファミレスも「24時間営業」の看板を取り下げはじめている。「年賀状配達」だって、無理に「元旦」に届ける必要が、もしかするとないのかもしれない。

「実家に帰省していて、3日の夜に帰ってきたら年賀状がポストにどっさり。明日から仕事だというのに、長距離移動で疲れた体で慌ててプリンターを起動したらインクが切れてて大騒ぎ・・・」なんて人も多かろう。こういう人にとって、「1日」に年賀状が届いている必然性など、全くないのではないか。

ただでさえ、はがきは値上がりしているのである。平成の頭は「41円」だった。令和の今や「63円」である。30年で1.5倍だ。値上げそのものにどうこう言っているのではない。「必ず元旦に配ることのコスト」と「まあ、正月の間に配れればよいや、のコスト」との感覚はどうなっているのか、という話である。

■年賀状を「松竹梅」に分けたらどうなの?

そこで、提案。

相手にわからない形(バーコード)で「特急年賀状(28日までに投函で必ず元旦に届く)」と「普通年賀状(28日までに投函で1月7日までに届く)」「エコノミー年賀状(28日までに投函で1月15日までに届く)」に分けたらよい。デザインを同じにすれば、わかるまい。

「特急」は+200円(つまり263円)、「普通」は+50円(113円)、「エコノミー」は63円である。

所謂「松竹梅」の商法と同じで、大多数は、おそらく「普通(竹)」を選ぶだろう。63円→113円と179%の値上げなので、仮に発行部数が30%程度減少しても売り上げ実額は確保できることになる(もっと減るかもしれないが・・・)。

年賀状は、何となく「特別感」があるように見せて、実は最も「急を要する文書」ではない。だからして、エコノミーの値段を普通郵便と同じにして変えなければ、実は国民生活を脅かすことには至らないのである(エコノミーという選択肢は担保されている)。ここがポイントだ。


2021年1月2日

これまで、ありがたいことに多くの方から取材を受けたり、メディアに掲載していただいたりしてきた。

中には、こういう個人サイトをハナから馬鹿にして、「取材してやってるんだ、協力するのが当たり前だろ」的な対応を取るメディアもあれば、反対に、非常に懇切丁寧に、(個人だというのに)どういう過程でメディア化するかを説明してくださる会社もあった。扱いは全く違う。

さすがに「どこがよかった」とはここでは書かないが、これは、メディアの規模の大小関係なく、担当者ないしはリサーチャー、ライターの人柄、ひいては社風に依るものだと感じた。

総じて(規模は関係なく)長く続いているところは続くだけの理由があり、新興メディアでも対応がいいところは結局、その後も長く続くものだ。一方で、「ああ、やっぱり」と思って消えていったメディアも少なくない。「ああ、こういうところなら続くよな」と思うメディアとは、やはり違う。

有名なたとえ話で、「石職人の話」というのがある。「何をしているんですか?」という旅人の問いに対し、「石を切ってるんだよ。見ればわかるだろ」と答えるか、「みんなが集う教会を作っているんです!」と答えるか、要は「自分が何をしているかの目的意識」の話なのだが、これはそのまま、取材姿勢にも通ずるものがある。

お互いが気持ちよくやり取りをする、これはとても大切なことだ。その背後には必ず「目的意識」が潜んでいる。

***

この「目的意識」というのは実はすごく大切で、こういう「気持ち」の部分がないと、何事も続かないものである。

最近流行の「ワークライフバランス」というのは、要は「自分の境遇(将来への期待値を含む)が、自身のライフ観・ワーク観と合致しているか」ということである。

「ブラックな仕事」というのは、ここが(大多数にとって)破綻しているわけだ。それでもライフ観・ワーク観と合致していればその人にとっては「ブラック」ではない可能性もある。

まあ、ブラック度が高ければ高いほど、他者への当たりもきつくなって、結局、よい客・取引先を逃すから、どんどんブラックになっていくわけですよね。「他者は鏡」とはよく言ったもので、ブラックな仕事は自ずからブラック(いらぬトラブル)を引き寄せている可能性もある、と。これはまさに、「引き寄せの法則」のマイナススパイラルバージョンであった。

***

「気は心」。よい「気」で相手様に接していきたいものである。


2021年1月2日

百花繚乱・・・もとい、諸説紛々の「英語教育界」に、「英語を学ぶには、絵本がよい」という流派があることを最近知った。よくある「日本人は9年間も(今は12年間)も英語を勉強するのに、ちっとも話せない。それは受験英語に問題がある」という批判の急先鋒ともいえる論点であり、興味深く思った。

絵本か・・・まずは有名な英語の絵本、「Clifford the Big Red Dog(おおきいあかいクリフォード)」を手にしてみよう。いきなり原書のハードルが高ければ、CDつきのクリフォード初歩の初歩、「フォニックスファン」シリーズからでよいと思う。たぶんこれくらいとっつきやすくないと、続かないと思う。

しかし「絵本」と馬鹿にするなかれ。まずびっくりするはずである。文字だけだと、すべての意味が分からないことにすぐに気づくからだ。

そこで絵を頼りにすると、何とか推測して文章を読み進めることができる。「英語は絵本で」派の主張はまさにここで、「絵を頼りに、文脈を補足する」ことの積み重ねこそが、英語力の基盤になる、と言っている(やや乱暴なまとめかもしれないが)。なるほどそうかもしれないな、と思う。

とあるTOEIC850点の才媛ですら、当該書籍を初読で「意味が分からない単語があった」と言っているくらいなので、私が読めなくても当然なのだが、現地人はこれを2、3歳で読み聞かせされて意味が分かるわけだ。それだけ、「テストの英語」と「実際の英語」が乖離しているということだろう。

例えば英単語の「POP」。絵を見れば「じいじ」のことだとわかるが、「祖父」=Grand Father もしくは Grand-Paなんて機械的に覚えている脳には、どうしても「POP=じいじ」とは思い浮かばない。こういうのがたくさんあることに、「クリフォード」シリーズを1冊読むだけでも、愕然とさせられるのだ。

日本人が、ちょっとふざけて「うちのじーちゃんがさぁ」という話をするようなノリで、英語圏の人と「My POP was ●●●、HAHAHA,,,」なんてやられて、「?」だったら、「こいつ、こんな言葉も知らねぇのかよ」と思われること請け合いである。

***

翻って、言葉を学ぶには、「絵本がよい」ということなのだろうと思う。よく「歌と読み聞かせが大切」というが、確かに、語彙も十分に獲得していない乳幼児が、ことばの世界を広げていくには、情景を想像できる(その言葉が表す意味内容が具体的に表象される)「メロディ」や「絵」の存在が決定的に大切なのだろうと思う。

わが子には、0歳から約2年かけて「読み聞かせ1万冊」を実践してみたが、それから約2年。約100分の「ドラえもん映画」の内容を理解し(例えば名作の1つである「宇宙小戦争」の感想を述べることはできる)、「すみっコぐらし」の映画で感動して泣くくらいの状況把握力は身に着けてくれている。「絵本に触れさせることの大切さ」は、日に日に(事後的に)体感しているところである。内田樹さんが著書『日本辺境論』で、「学びとは、事後的に体得されるもの」ということを書かれていて「なるほど!」と思ったものだが、本当に「絵本」の効果は事後的に顕れるように思うのである。

「言葉」で生活する人間は、その言葉の獲得を、何かで担保せねばならない。その1つの方法が、確かに絵本なのではないか、ということはわが子への実践からも何となく感じるのであった。


2020年12月29日

この2020年は、「当たり前を疑う」ことをつくづく、思い知らされた1年であった。

コロナ禍によって、「当たり前」だと思っていたことがいかに「常識の壁」によって阻まれていたか、思い知らされることになった。

***テレワークでわかった、仕事の「当たり前」の虚構

「市井の生活者」という視点で一番大きかったのが、やはりテレワーク化の急激な進展であろう。これ以前の生活様式が、もはや嘘のようである。

そう。もはや、完全に身体がテレワーク仕様になってしまったのである。
今までどうして、「決まった時間に電車に乗って、決まった時間に出社して、決まっていない時間に帰宅」していたのだろうか。信じられない苦行をしていたものだ。

仕事のうち、「資料作成」「情報収集」「アポ取り」「情報共有」「会議」「打ち合わせ」「構想を練る」に関わる領域は、ほぼ間違いなく、「会社でやらなくてもできること」だ。というか、「デスクワーク」というくらいだから、机でやれることは基本的にはオフィスでやらなくてもできてしまうのであった。どうして、こんな簡単なことに気づかなかったのだろう!

物理的に見ても、判子は必須ではなくなりつつあるし、経費精算だって電子化が進む。印刷はコンビニでもできるし、FAXなんて使うことはほぼない(よく考えたら、今年はついに1件もFAXを送らなかった!)。

物理的に「オフィスでしかできないこと」が急激な勢いでなくなっているのだ。

では、オフィスで必要なこと(オフィスでしかできないこと)は何か。究極的には「日常の動きの中で、刺激を受けること」くらいしかないのではないか。「〇〇さんの会話を小耳にはさんで自然と学ぶ」とか「ちょっと相談」とか。いわゆる昭和型の「ワイガヤオフィス」で得られた「暗黙知」の部分である。

こればかりはTeamsなりSlackなりZoomなりSkypeなり、オンラインツールでは出来得ない「何か」空気的なものなのだと思う。だからオフィスは「完全には」なくならないし、なくすべきではない。

とはいえ、である。オフィスで毎日働きづめる必要もないのだ。
人類は「楽な方向」へ行くように進化する。
もはや、「毎日出社」社会には間違いなく戻らない。なぜならば、それが楽だから。

すると経済合理的にみて、賃料の高い都心部のオフィスは急激に減床(社員の収容数をハナから100%で設計しない)していくことが容易に想定される。これはもはや、「時代の転換」というやつだ。

そうなると、どういうことが起こるか。少し考えてみるだけで、以下の10点が思い浮かぶ。急激すぎる大転換である。

(1)電車に乗る回数が激減する
「移動せずにできること」が極めて多いことに、誰もが気づいてしまった。通勤だけでなく、移動や出張も「わざわざしなくても・・」ということになる。

(2)通勤経路に乗じたビジネスが変容する
通勤頻度が減るのだから、会社帰りにわざわざ単価の高いエキナカ・エキチカのお店に寄る、といったことがそもそも少なくなる。

さらに通勤手当が廃止されて「交通費の都度清算」が増えれば、ますます「通勤経路の途中で寄り道してお買い物」などもしなくなる。

(3)ビジネス街の商売が変容する(訪問販売、ビジネス街のコンビニ、昼食など)
通勤しないのだから、必然的にお昼もそこで食べなくなる。給茶機の減りも悪くなり、オフィスのお菓子も全然なくならない。

仮に部署の半数の人間が週2テレワークをするだけで、単純に胃袋の数は4割減である。この影響はかなり大きい。

(4)オフィスファッションビジネスが変容する
スーツを着なくなる。革靴を履かなくなる。ネクタイを締めなくなる。腕時計もしない。ベルトも痛まない。鞄もほとんど持ち出さない。・・オフィスファッションは極端な変容を見せるはずだ。

(5)在宅勤務向けのビジネスが伸長する
家具の新調。気になる部屋の掃除。「家にいる時間が長くなる」ゆえのビジネスは伸長する。

(6)駅チカではなく、家チカビジネスが伸長する(近所のスーパー、商店街など)
駅チカにわざわざ行くのではなく、家チカで昼を済ませる。気分転換は近所の散歩。「あ、こんな店あったんだ。意外とおいしい」で常連へ。家チカビジネスが相当にアツい。

(7)「飲み会」が消滅する
最初に書いておくと、「飲ミニケーション」というのは、先述した「暗黙知」の1要素であり、ここで会社の「空気」を学ぶという要素があるという点で、飲み会は(少なくともコロナ前の時代においては)重要なコミュニケーションの場であったことは疑いない。

しかし、「集まらない」社会になってしまったゆえに、1回で3?5000円/人が費消されてきた「飲み会」(懇親会、会社帰りの愚痴大会、忘年会、納会、新年会、歓迎会、送別会、2次会周り)は、もはや風前の灯火である。まさか「忘年会」や「新年会」がなくなるなんぞ、去年は誰も思わなかっただろうなぁ。「三密を避ける」を大義名分に、これ幸いと右へ習えで「やーめた」って人も多いのではないか。

飲みたい人どうしは言われなくても飲むわけで、「飲みたくない人が駆り出されない」という点で、「よかった」という向きはとても多いのではないか。これまで、「特に飲みたくない人と飲む」ことにどれだけの人が時間と金銭とことによっては健康コストを費やしてきたかと思うと頭がくらくらする。

ちなみに「オンライン飲み会」などの手段もあったが、それとて「切りどきが分からず意外としんどい」ので定着しきらず(最初は珍しさで流行ったが)、ちょっと残念な感じになっている気がする。おそらく、これは従来の「飲み会」の代替にはならないだろうな、と感じている(1時間強制終了・再入室不能くらいのシステムじゃないと、毎回やる気にはならないだろうね)。

(8)「終電ビジネス」が変容する
多くの鉄道会社が、コストばかりかかっていたであろう深夜帯の列車運行の切り上げに舵を切った。そもそも遅い時間に飲み歩く人の絶対数が減っているから、終電逃がしの「タクシー」「深夜バス」といった分野も以前ほどの需要は見込めない。折からの人手不足で深夜のコンビニも休業するケースが出てきた。夜の歓楽街の人手が減ったので、畢竟、漫画喫茶やカラオケ、カプセルホテルなどの「一晩過ごせる」空間の需要の絶対数も変容をみせるはずだ。

(9)「貸会場」も変容する
コロナ前、コスト削減の観点から「オフィスを減床して、大きめの会議やセミナーなどは会議室を都度借りたほうが安くない?」みたいなことが流行した。実際は、同じことを考えている企業が多かったので、会議室を借りるコストが意外と高くつき、「想定していたよりもコスト削減にならない!」なんていう笑えない話を見聞きした。が、それも今は昔。

オンラインで会議やセミナーができてしまうのだから、わざわざ高コストの会議室を借りる誘因が完全になくなってしまった。「打ち合わせや会議、ミーティングは原則オンラインで。オフィスには会議室は設けない(その分減床する)。どうしようもないときだけ、外部会場を借りる。」というのがこれからの標準的なオフィス設計になってくる。そこへどう「貸会場」が切り込むか。

(10)なんでもオンラインが普通になる
結果として、ビジネスモデルは大きく変容していかざるを得ない。平たく言えば、「直接会うこと」はほとんどなくなり、「なんでもオンライン」が普通になるということだ。これに適応できるかどうか、がそのまま自分自身のQOLともつながっていくことになる。

このように、あまりにも「仕事の当たり前」が、実は虚構に満ち溢れていたことに気づかされるのである。「これまでのこうあるべき律」からの脱却・・これは、人口オーナス期に突入し、「放っておいても売り上げが上がる時代」をとうに過ぎた日本が直面する「生産性向上」のための第一条件であるのかもしれない。

***長い「自粛生活」でわかった、日常の「当たり前」の束縛

都合、我々は2月中旬くらいからほぼ1年間にわたって、「非日常の日常化」というフェーズを歩んできた。ほぼずっと「自粛生活」を余儀なくされ、それがむしろ普通になる「ニューノーマル」を演じることとなったわけだ。この結果、日常の「当たり前」が、むしろ「それ、今やらなくてもいいんじゃない?」ということの連続によって成り立っていることに気づかされたのである。もちろん「歳時記」は重要であるが、あまりにも「やること」に私たちは追い立てられていたのではないか。

(1)学校に毎日通うこと
昔から、「皆勤賞のために、クラス一丸となって全員が出席できるクラスをつくる!風邪でも1時間だけ出席したからOK!」というニュースを見るたびに、「頑張るところが違うよなぁ」と思ってきたが、このコロナ禍で「皆勤賞」という仕組みの虚構性が浮き彫りになった。「具合が悪かったら、休む(人にうつさない、自分も早く治す)」という当たり前のことが、ようやく・・・ようやく日本の公教育で認められたのである。

だいたい、徒歩20分かけて毎日通学させる必要はもはやなくて、オンラインでできるものはオンラインでやればいいし、飛び級も落第も作って「できる奴を伸ばす、できない奴も救う」という個人別教育を入れていくべきなのだ。必要なのは多様化・個人別カスタマイズであって、「みんなで同じ空間で同じ字を書いて、同じ絵を描く」ことではないはずだ。

これからの時代、「テストで習っていない漢字を書く生徒には×」とか、「りんごが5個入ったかごが7個あります、という問題に7×5と式を立てると×」とか、狭隘な視点の教育は淘汰されるべきなのである。まったく意味がないから。

※ちなみに私は「集団教育に意味がない」とは一言も書いていない。集団で何かをすることの意義はある。しかしそれは、あらゆる時間を同じカリキュラムでやることとはイコールではないはずだ。

(2)GW、お盆、年末年始の過ごし方
「長期休み=旅行、レジャー」という構図が、完全なる強迫観念であることが分かった。必ずしもこの時期に誰も彼もが民族大移動をする必要はないし、時間があるからこそ「家やその近所で過ごす」という楽しみ方もある、ということは多くの国民にとっての「気づき」となったはずである。

(3)多くのイベントと付随する購買行動
新興のハロウィンをはじめとして、「イベント=バカ騒ぎ、何か記念になることをする」がすっかり定着してしまった。これも一種の集団強迫観念であったことが判明した。別にハロウィンで渋谷に集まらなくても、クリスマスでイルミネーションを見なくても、別の楽しみを見出してしまえることに気づいてしまった。

(4)「24時間社会」
24時間社会の旗振り役であったコンビニが、「深夜営業」に白旗を上げつつある。人手不足から、ファミレス業界は早々に(コロナ前から)「24時間営業」の旗を降ろしてきたが、いよいよ「深夜に開いている意味」が問われる社会が到来した。

飲食店への度重なる営業自粛要請、さらにこれに追い打ちをかけるように鉄道各社の終電切り上げと、「夜型社会」そのものの存在が問われようとしている。

(5)病院に気軽に行くこと
日本の医療費負担(特に高齢者)が相対的に軽いことで、「病院が高齢者のサロン化」していたことはよく指摘されてきたことである。今は高齢者が行かなくなったので、病院がむしろ「空いている」。コロナ発生後に都合3回ほど病院にかかったが、いずれも空いていて、スピーディーに診療していただけた。こんなこと、今まではなかった。・・・ということは今までどれだけ、「サロン」に国民の血税(実質税の健保料含む)が費やされてきたのか!

・・と、思いつくだけでいろいろと「当たり前」だったことが「当たり前」でなくなっていることに気づかされるのである。


2020年12月27日公開

このウェブログのタイトルが「編集後記」だったことを今更ながら思い直した。

観る人からすると、お、何か掲載されているネタの裏話かな、なんて期待して開くと、突然、エコに対して激怒していたり、消費増税にブチ切れていたり、かと思うと突然映画のレビューをしていたり、全然このサイトの話をしていない(していることもあるが)。そう、まったく「編集後記」ではない。

・・・ということで、ちょっとは珍しく「編集後記」をしたいと思う。

***
2020年11月8日のトップページのネタについての制作話から。
まずオープニングとエンディング画像について。普段はソースを書かないが、これは千葉市花の美術館(三陽メディアフラワーミュージアム)である。ここはゆったりといろんな花を眺めることができるのでなかなかおすすめのスポットである。1つ1つ装飾もかわいいのよね。掲載した写真も、ディスプレイが可愛すぎてフォトジェニックすぎて、どうしても撮っておきたくて撮ったもの。愛らしいものが好き!

次にネタについて。コメントにものすごく時間がかかるネタもあるのだが、これはスパーンと決まった。ほとんど言葉なしでいける、シンプルなネタが一番気持ちいい。作っていて最高なのは、看板を見つけた瞬間にネタまで出来上がることだが、これは何となく感じるものがあって写真を撮って、PCに保存して、画像を見たときにコメントが急にインスピレーションが湧き上がってきたパターンである。気持ちいい!

ちなみに最近は電動自転車を買って、それでサイクリングをしながら神社巡りをしたり、サイクリングロードを走ったり、スーパー銭湯に行ったりするのが趣味になっているのだけれど、その道すがらで発見した看板がネタになっている。「趣味」と「実益(何のだ)」を兼ねているのだ。

最後にお約束のはとについて。「鳩時計」、そのまんま。気持ちいいくらい「鳩時計」。ちなみにここは葛西臨海公園。ここの葛西臨海水族園は非常におすすめである。メインはマグロ大水槽とペンギン島なのだが、それ以外にも様々な珍魚、海鳥などラインナップが充実。「ショーなし」だから比較的安いし、万人向けの好スポットだと思うなぁ。

***
youtuberの動画を見ていると、「僕の制作環境を発表します」的なのってよくある。誰がどんな機材や部屋でクリエイティブ活動をしているのか・・というのは、男心を実にそそられるのである(だからヨシダヨシオさんとか、「作業部屋」ベースだから超おもしろい)。

雑誌なんかで「漫画家の部屋公開」とか、「ここであのアニメが作られている!」的な企画も大好きである。

ということで、「ううせいじんの制作環境 大公開」のコーナーが突然はじまる。

(※画像が消えてしまいました/2022年1月補注)

これが私の制作環境である。
上段は時計、卓上カレンダー、ティッシュ、薬箱、しおり、置物であり、
下段は電気スタンド、ノートPC、マウス、アロマスティック、文房具入れ、置物である。

シンプルでしょう。
デスクトップもこんな感じである。

(※画像が消えてしまいました/2022年1月補注)

決してミニマリストではない。むしろ、「物を捨てられない野郎」「趣味は読書と積ん読です」的な感じだが、作業環境はシンプルなのだ。

さあ、お待ちかねのQ&Aコーナーである。

Q「どんなPCを使っていますか」
A「別に動画サイトでもないし、ごく普通のノートPCを使っています。え?スペックですか?2011年から8年間愛用していた(Windows7→8→10 Proと入れ替えて使ってきた年季モノでした)東芝のDynabook T551が壊れたので、2019年の秋にLenovoの IdeaPad L340に買い替えたんですよ。CPUはIntel Core i7-8565U(第8世代)、メモリは8GB、SSDは1TB。Windowsは10 Home。普通にこのサイトを編集する分には何のストレスもないですね」

Q「どんなソフトでサイトを作っていますか」
A「マイクロソフトのWebオーサリングツール「FrontPage2002」を使い続けています。Office XPの時代からのものだから、かれこれ・・・15年じゃくだらないくらいお世話になっています。さすがにWindows10で動かすにはちょっとした手間が必要だったのですけれど、ちゃんとマイクロソフトのライセンスも通ったし、愛用しています」

Q「写真は何で撮影していますか」
A「以前はデジカメを使っていました。ただ、iPhoneになってからはもっぱらiPhoneだけになりました。ちなみに今はiPhone8を使っていますよ。」

Q 「Youtubeはやらないんですか」
A インスタでもブログサービスでも、TwitterでもYoutubeでもなんでもいいんですが、せっかく自分でつくったものが「他人のトラフィック」になるんですよ。もしそのサービスが終了したら、「自分がやったこと」は、その痕跡ごと消えてしまう・・そんなの収集癖のある私にはとても耐えられません! 原則は自分のドメインで、つまり自分のお庭で遊んでいたいので、やらないと思います。楽天が買収したinfoseekのiswebが突然、全部消されて以降、クラウドサービスに頼るのはやめようと決意したので(使っても期待はしない、いつか消えると思う、ということです)。・・・で、答えていて気づきましたが、ここは「持ち家信仰」的なモノがあるのかも・・・


2020年11月8日公開

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