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黒電話でジーコジーコが普通だった。そんな私が携帯電話(白黒)をはじめて手にした時、「こんな小さな機械で、どこでも電話ができて、メールができるんだ」と感動した。その後、「写真が撮れる!しかも送れる!?」「自分で着信メロディを作曲できる!」という時代を経て、「携帯がなんと!折り曲げられるぞ」「アンテナがないだと・・・!」という経験もした。

そんな衝撃的な「携帯電話」との最初の邂逅(言い過ぎ?)から早20年近くが経とうとしている。もはや、「スマホ」なる謎の(※)略称で、手のひらの上では板のようなマルチPCが活躍している。「写メール」なんて言ってたときよりよほどすごいことなのに、なぜか、あの時のような感動はもう、ない。

(※)スマート「フォ」ンなのに、「ホ」はどこからきたのか不明だ

同じく、ワイドテレビ(アナログ)をはじめて目にした時、「こんなに大画面でテレビが見られるなんて!」といたく感動した。マルチ画面機能など、結構活用(※)した記憶がある。今や当時の画質をはるかに凌駕するテレビがあるというのに、あの時ほどの感動はなぜか、ない。

(※)当時は、「野球中継を音なしで流しつつ、バラエティを音ありで同時に見る」などのマルチ画面機能があるテレビがあって、ワイドな画面で2画面を楽しむことができたのである

もっと書きたくなってきた。

☆雑誌の付録がソノシート(レコード)→CD→DVD→Webコードと変化してきたという事実。
☆昔は「定休日」だらけで正月などはしっかり買い物を済ませておかないと大ピンチだった時代が、いつでもどこでも指1つで必要な生活用品が家に届くように(正月でも)なったという事実。
☆車を運転するときは「ドライブ地図」が必携だったという事実。カーナビなんてなかったのだから。
☆VHS、カセットテープとよく「詰まる」ので、鉛筆などでクルクル手動で<巻き戻し>していたという事実。
☆昔は隣人に預けていた宅配物が、「宅配ボックス」や「再配達」に転化(洗練化)されているという事実。
☆つい20年前までは「切符」が普通で、カードをピッなんて文化はなかったという事実。都市部ではもはや小銭が不要になっているという事実。
☆「とりあえず検索」という行為が日常になかったという事実。

いずれも私からしたらこういう変化はかなりの感動ものなのだが、今の「スマホが生まれたときからデフォルト」の世代は、きっと「それが当たり前」なのだろう。

最近の世代は「巻き戻し」「早送り」「チャンネルを回す」の意味が分からないらしい。どこかの国の赤ちゃんが、「本をめくる」ときに「絵をタップしてスライドした」なんてニュースもどこかで読んだ。

当たり前のことを書くと、様々な技術の変化への「感動」の度合いは、「世代」によって違うはずだ。例えば私は、家電の「三種の神器」(冷蔵庫・白黒テレビ・洗濯機)を買ったときに、「携帯電話」(白黒)をはじめて手にしたときと同じ感動にはならないだろう。なぜならば、それ以前の不便な時代を体感していないからだ。ただ、団塊の世代は確かにこれらに「大興奮」したのである。同様に、私にとっては3C(カラーテレビ、カー、クーラー)ももはや当たり前なので、それがあること自体で感動することはない。

しかし、ここがポイントで、団塊の世代は、例えば「白黒テレビの興奮、カラーテレビの感動」ほどには私が感動したような「ワイドテレビ」に対しては感動していない可能性がある。

私は「白黒携帯→カラー携帯」でかなり感動したが、そういえば「スマホ」に対しては「ああ、そういうものかもしれないな」とまず思ってしまった。もしかすると「折り畳みカラー携帯」から入った世代は「スマホ」に大感動したのではあるまいか!

ということで、当たり前のことを言っているようだが、「どの世代に生まれるかで、感動ポイントが異なってくる」というのは、ちょっと興味深いところである。

さて、ここまでは実は導入部。

私はバブル前夜に生まれ、バブルのうまみを味わうことなく成長した「ポストバブル世代」。この世代はしかし、「テレビゲーム世代」でもある。テレビゲームの進化とともに子供時代を過ごすことができたのは、幸運なことであった。

最近は「テレビで」ゲームをするという行為からすっかり離れてしまっていて、もっぱら3DSで遊ぶ日々。しかし、TVCMで流れたNintendo Switchの「マリオカート8DX」のCMを見て、思わず腰を抜かしたのであった。

「え!?今のゲームってこんなにきれいになっているのかい?」と。テレビに向かって叫んでしまったではないか。早速私は、同じHD画質のゲーム機である「Wii U」を買いに走ったさ(※)。そこで「マリオカート8」を買ったさ。そしてプレイしたのだ。

(※)転売屋さんのために「Switch」の値段は高いし、そもそもどこにも売っていない。基本的にゲームの基本構造の変わらない「8」をプレイするためであれば、過去の「Wii」の資産も楽しめる1世代前のマシン「Wii U」を買うというのは合理的な選択なのであった。

「す、、すごい・・・」

マリオカートといえば、私の中では最初のマリオカート、そして次の「マリオカート64」あたりで止まっている(以降も「アドバンス」「DS」「3DS」とシリーズをプレイしているが、やはり最初の2つがマリオカート伝説の嚆矢なのであった)。

テレビゲームでこれほど感動したのは、うーん・・えー・・いつぶりだろうか?ということで、後編へ続く(最初が長くなり過ぎたのだ)


公開:2017年5月11日

少し前に「悪貨が良貨を駆逐する検索の世界」というタイトルで、跋扈する「まとめサイト」という名の情報切り売りサイトはもう長くないよねぇ、いつかアタリショック的なことが起こるよ、みたいなことを書いた。

案の定(思ったより早かった気がするが)、いきなり化けの皮がはがれてそのうちの一部は瓦解。さらに大本のGoogleもようやく「日本語検索の品質向上にむけて 」というタイトルで対策をしていることを公表。まさに検索バブル崩壊、アタリショック寸前の状況だったわけだ。

ここまでの推移はもういい。

問題はここからである。
マスコミはここぞとばかりに旧来型の「ネットの情報は悪」というキャンペーンを貼り、さらにトランプ大統領就任にかこつけて「フェイクニュースに気を付けろ」と、「ネットの情報はすべてフェイク」と言わんばかりの論調で攻めてきたではないか!

極めつけはNHKのクローズアップ現代+の「フェイクニュース特集」。
これには腰を抜かした。

日本には、フェイクニュースの元祖があるではないか。
大切なサンゴに傷つけたのはどこの誰だ?
意図的な虚報のせいで世界中に恥ずかしい銅像を建てられて国辱をさらす羽目になったのは、いったいどいつのせいなんだ?

ここに触れずして、「フェイクニュース」も何もないだろう、という話なのだ。

トランプ大統領の勝利はマスコミ的価値観の敗北でもある。
第四の権力に「市民」が抗していくためにも、Webの「発信力」「拡散力」は絶対に必要なのだ。

だからこそ、その入り口になる「検索結果の適正化」は今後ますます必要なキーワードになってくる。
さまざまなキュレーションサイトのせいで、検索結果はまだまだ「ぐちゃぐちゃ」なのが現状だ。このままではこの虚をついて、マスコミの「ネットの情報はフェイクキャンペーン」はますます激化する。

こちらの検索リテラシー向上はもちろんのこと、現時点ではGoogleのさらなる「検索結果適正化」に期待したいところである。


公開:2017年2月19日

ありがとう、こち亀。
秋本治先生の「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が、連載40年・単行本200巻の刊行を以て前人未到の偉大なる歴史に幕を閉じた。

このサイトを見てくださる方は「ドラえもん研究」が入り口になって、さらに「看板ネタ」その他を気に入ってそのまま読者になってくださる・・・というパターンが多い(たぶん)ので陰に隠れがちなのだが、管理者としてはドラえもんと双璧をなすくらいに「こち亀」も大好きなのである。

無論、200巻すべて持っている。ついでに言えば藤子・F・不二雄大全集はもちろん全巻持っているが、秋本治の単行本そのものも、基本的にはすべて所持している。「藤子F作品マニア」と同時に、結構な「秋本作品マニア」でもあるのだ(御存じであろうか、秋本治先生の『東京深川三代目』『Mr.Clice』『花田留吉七転八倒』は実に面白い作品である。決して『こち亀』一本の作者ではないのだ)。

話がそれた。どれだけこち亀が好きか。それをお伝えしたいのでもうひと押ししておくと、2006年に『漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に描かれた下町描写に関する研究』というガチの論文(@早稲田大学)を発表しているくらい、ディープに好きなのである。それはもう。

この論文についてもう少しお話しすると、1?148巻(当時のすべて)に描かれたすべてのコマを分析し、こち亀に描かれた下町空間の様相・経年変化を追う・・という研究であった。国立国会図書館(NDL)にこもって過去のジャンプに関連した記事を漁り、こち亀に関連するソースをそれはもう・・探しまくり、家では単行本を山と積んで、とにかく引きこもって「こち亀」について調べまくったのである。

さすがに、これをリアルな知人等に話すると絶句される。だいたいの反応は「ドラえもんだけじゃなかったんだ・・」もしくは「そう・・・」といった淡白な反応しかないのだが!

・・・さて、こち亀が好きだ、ということはここまででご理解いただけたと信ずる。決して「40周年だからにわかでファンになった」というわけではないのだ・・・

ダメ押しで書いておくと、過去にこんな記事もこのサイト上で書いているのだ。
派出所はこれまでに何回壊れたの?リスト
両津巡査長のアルバイト―1406話316種全リスト(これは物凄く大変だった)
「こち亀」巻末解説者リスト
こち亀の変遷を辿る ―コミックス表紙・中表紙完全リスト―

さあ、これでにわかじゃないってこと、・・・・・・信じていただけますか?
さらについでに書いておくと、単行本に唯一未収録の話があって(「帰ってきたあの男の巻」)、それもNDLで調べて、ちゃんと所在を確認して40年間の全話を読了した・・・くらい、そのくらい好きなのだ!

***

さて。
最終回を「ジャンプ42号」と「200巻」それぞれで読んで(最後の4ページの展開が異なる)、私は人知れず涙が出てきたのである。「ああ、もうこれで・・楽しい両さんたちともお別れなのか・・」と。

最終話は、ある意味「こち亀」らしい、なんというか・・とても「馬鹿らしい(←褒め言葉です)」ドタバタで終わった。しみじみとしたラストはいらないよ、と言わんばかりのハチャメチャぶり。そのあとのページの「作者コメント」を見ていたら、「ああ、すべて終わってしまったんだ」という虚無感にとらわれて・・・

こち亀には思い出がいっぱいある。仕事がうまくいかないとき、落ち込んでいるとき、疲れているとき、どれだけ両さんに助けられたか。

エピソードを思い返してみるだけでも、、
「FAXします わたしのすべて」のような超絶ギャグに抱腹絶倒し、
「ゴキブリ大行進!」で身の毛もよだつ思いをし、
「下町交番日記」のような東京が大好きになるエピソードに心が洗われ、、

ああ、書ききれない。
・・・以下、ファンにしかわからないだろうが。。。

両津と部長の東北旅行にしんみり、、
中川の超絶金持ちエピソードにわくわく、、
ゴキブリの「トモダチ」で牛乳を吹き出し、、
土地高騰により交番の場所がなくなって・・・
ボルボが考案した「桃太郎」、、
村上龍も絶賛した「テスタオッサンドナイシテマンネン」、、
「S.ANYO(安世笹子)」、、「S.ONY(進おにいさん)」、、
マーク||(ソーズ)、、
珍名ランキング第1位といってもいい「平平平平(ひらだいらへいべい)」、、、
両津のにせ結婚式・・・
江崎コロ助。。。
どうしても家の見つからない寺井(現・丸井ヤング館)、、

ああ・・どれを思い出しても・・私にとっては最高の読書体験であり、思い出なのであった。

ありがとう、こち亀。
ありがとう、両さん。
ありがとうございます、秋本先生。

こち亀は永久に不滅です。
私たちファンの心になかに、いつまでも。

本当に、ありがとう。
ありがとう、こち亀。


公開:2016年9月17日(「こち亀」最終回が「週刊少年ジャンプ」に掲載された、その日に)
追記:2017年5月10日

追伸;
「こち亀展」を見に行って、そこで展示してあった「こち亀の<本当の>最終話」を読んだ。感動で涙が止まらなかった。ありがとう、こち亀。フォーエバー、こち亀!

日本社会の発展(衰退も含む)に貢献してきたご老人。もちろん敬老の精神を以て接するのが当然であり、普通の状態であればン万円もする年金保険料を黙って払うし、優先席だって(たとえ電車に駆け込んで乗ってくるくらい元気でも)お譲りするのだ。

だが、以下に挙げるような図々しい「老害」はどうか。一度ブチ切れてみたくもなるというものだ。
こうなってはいけないという自戒を含めて、ありのままを記録する。

ドキュメンタリー、「図々しい老害事件簿」の開幕である。

■公共図書館編

「公共図書館は、大変」と聞いたことがある。

比較的「民度が高い」と言われている自治体でも、雑誌の切り取りは日常茶飯事。それによって購読停止というケースはよく見かける。館内を見ていると「切り取るな」を筆頭とする本当にレベルの低い注意書きが多く、そんなのに日々応対する図書館員には心底同情する。たぶん、このテーマだけで新書1冊は書けると思う。タイトルは『民度の低い日本の図書館 司書の悲鳴365日』でどうか。買うぞ。

もっとも以下の事例を見ると、それも「むべなるかな」と思うのだ。

某市の「中央図書館」では無料名画上映会を定期的に開催している。
そこに夫婦で参加した時のことだ。

まず、開場が5分ほど遅れ気味だった。静かに列に並んでいると、我慢できなくなったババアが一言、「なんでそんなに時間がかかるの?理由を教えてくれる?」と側にいた職員に詰問していた。いや、タダで見るんだから少しは我慢しろって。まずここで「何だこれ」と思った次第。

ようやく開場。妻の後ろの席に座った別のババア。いきなり妻に向かって「あなたの背が高いのでかがんでもらえませんか」と放言しやがった。妻も驚いたようで「映画の間中、ずっとかがんでいるんですか?」と応酬。トイレから戻ってきた私は、それを聞いて思わず「ずれて座ればいいじゃんね。アンタの分の税金も払ってるんだからさぁ」と独り言を言ったとか、言わないとか。妻がヤンキーみたいな風体だったらお前、何も言えねぇだろ?と。人様を舐めやがって。ここでも「何だこれ」である。

そしてその帰り。あるジジイが「字幕が見えづらかった。ワイド画面にはできないの?」としつこく職員に食い掛かっていた。もうね、眼鏡を買えって話なんだ。またしても「何だこれ」。

・・・わずか1日でこの調子である。思わず会の終りに(あれこれ食い下がられていた気の毒な)職員さんに声をかけてしまった。「大変でしたね、いつもこんな感じなんですか?」と。聞くと「いろいろな方がいらっしゃるので・・・」と多くは語らず、苦笑いしていらした。はっきりは言えないだろうが、まあ、いつもこんな調子なのだろう。

ちなみにこの図書館、夏場になると映画上映中に「うちわ」を無料で配っている。アナウンスでは「暑いという声が多いので」と言っていて驚いた。いやいや、暑さ調節くらい自分でやれって。どんだけ過保護なんだ、と。冬は毛布か?

何というのですかね、こういうの。あとで少しだけ触れるが、少しでもお金を取って「変な奴」を寄せ付けない仕組みをつくらないといけないのではないか、と思った次第。

もっとも図書館法第十七条を紐解くと、
公立図書館は、入館料その他図書館資料の利用に対するいかなる対価をも徴収してはならない。
という条文があるのだ。うーん・・・

しかし、映画の上映という「資料を使った付加サービス」については、「複写」のように「対価」をとるべきなのだと思う。行政側も「サービスを受ける人」を選別(※)してもよい。

こんなわけのわからん老害のために時間(すなわち税金だ)を割く必要など、ないのだ。

※補足
最近、大手電機店などは「スマホ初期設定○万円」「ツイッターを使える設定○千円」などの「サービス」を行っているケースが多い。これは「情弱をだまして簡単なことにお金を取っている商法」というよりは「なんでもかんでもタダでサービスを受けようとする輩を予め排除する」という意味合いのほうが強いのだ。
類似のケースとしては、観光地のコンビニの「道案内お断り」とかもそう。どうして金も払わない客に時間を割いてタダで道案内をするんだ、という話。
図書館でも、タダで映画を観ておいて「待てない」だの「見えない」だの「暑い」だの、「うるせぇ」と。待てないなら優先入場料150万円、見えないなら特大ルーペ代1億円、暑いなら氷の椅子設置費用2000万円、と相手を黙らせるくらいの金をとるべきなのだ。今の老害共はバラマキ高福祉に慣れ切って、「サービスはタダ」と思い込んでいる老害が多すぎる。あれか?日本もチップ制に移行するか?ん?

■グリーン車編

JR東日本のグリーン料金は劇的に値下がりし、過去の「2等車」の風格はもう消えた。今や、「金を出せば座れる車両」という意味にしかなっていない(実際は満員の場合でも金をとられる)。私ですら、仕事やレジャーでグリーン車に乗る機会も増えた(現時点で片道1時間半以上の遠距離通勤をしているので、なおさらだ!)。

話はもっと逸れるが、訪日する外国人が「GREEN CAR」の文字を見て「???」になっている光景を頻繁に見かけるようになった。そりゃそうだよ、「緑の車」だもんね。でも「何となく普通に乗ってはいけない車両」という雰囲気は察するようで、結局間違えて乗っているところは見たことがないが・・もうこの際、名称を「スーパーシート」とか「プレミアシート」にしたらいいのに、と思うけれどな。

って、そんな話ではない。グリーン車の大衆化についてであった。
すると畢竟、「変なの」も混じってくるわけで。以下の例を挙げてみたい。

その1。
2階に乗っていた。奥にババアの声。巡回してきたグリーンアテンダントを呼びつける汚い声。
この電車が鎌倉に着く時間を教えてくれる?」と。まあ、数百円ちょっとのサービスのくせして「自分で調べろや!」と私なんかは思ってしまうのだが、これくらいは(スマホもないんだろうし)許容範囲としよう。

するとしばらくたって、「鎌倉に着いたら、荷物が重いので1階まで運んでくれない?」ときたもんだ。私はびっくりして、思わずそのババアの方を向いてしまった(見えなかったが)。

赤帽のつもりか。

そもそもアンタ、その重い荷物を2階に運んだんじゃねぇのか、と。
グリーン車には平屋(1階)もある。最初からそこに座れよ、という話なのだ。

続きがある。
アテンダント「私は東京で交代してしまうので・・」と丁重にお断り。
ババア「じゃあ、いいわ」(何様だ)
アテンダント「後任に伝えておきますね
ババア「あまり無理しないでね。ダメなら自分で が ん ば っ て おろすから

もうね、何様だと。
本当にね、数百円ぽっちで偉そうにしやがって。

その2。
今度は妻と出かけていた。後ろにはババア2人組。優雅に席を4つ使っている。

妻は「おろしますね」と断りを入れて、席をリクライニングさせた。それも全開ではないのだ。少し。
ババアの声「下げ過ぎ!」 でかい声。

ハァ???

そりゃ、前の奴がいきなりリクライニングしてきて全開にしてきたら「下げ過ぎ」と思わないこともないが、声に出していうことじゃねーだろ、と。貴様はどんだけ図々しいんだ。

妻がヤンキーみたいな風体だったらお前、何も言えねぇだろ?と。人様を舐めやがって。

大嫌いなのだ、こういう図々しい老害。しかもたいてい、「自分より下の奴」にしか言わないんだろ。僕知ってるもんね。図書館のときとまったく一緒じゃないか、この下衆な精神構造野郎がよ。

***

ということで、わずかな事例を挙げてみたが、思い出すだけでむかっ腹が立つ。
こんなクソ老害のために年金を払っているのかと思うと、給与明細を見るたびに泣けてくるのだ。自分は一種の、老人のための奴隷だ、とね。

でもそのたびに、「そうではない大多数の日本社会の発展(衰退も含む)に貢献してきたご老人のために、年金を払うのだ。」と思って自分を慰めるのである。

日本社会の発展(衰退も含む)に貢献してきたご老人。もちろん敬老の精神を以て接するのが当然であり、普通の状態であればン万円もする年金保険料を黙って払うし、優先席だって(電車に駆け込んで乗ってくるくらい元気でも)譲るのだ。


公開:2016年8月29日

「何か疑問点があった時、取り敢えず検索サイトで検索する」のがごく一般的な行動となって15年くらいだろうか。

以前は「公式サイト」が引っかかることが多かったので情報の出どころにまだ信憑性があったのだけれど、ここ数年、「Wikipedia」と「まとめサイト」もしくは「知恵袋」、「アフィリエイト用に作られた情報羅列サイト」ばかりがトップに引っかかるようになってしまった。

少し、「検索する」ことに嫌気がさしてきたのも事実だ(開いてもすぐに閉じる「そっ閉じ」率が高くなり、検索サイトを使用することそのものへの動機が減っている)。

私の「ドラえもん研究」の記事ですら、ごく一部分だけが切り取られ、他の誰が書いたか知らない雑多な記事の<1パーツ>としてまとめられている状況である。このサイトのものは別に好きに使っていいとは言っているが、何だかねぇ・・「ほかに書いてあること」をそのまま載せたところで虚しくないですかね?なんて。

特定の情報を切り取る(広義の編集作業)のにもセンスがあって、そういうのをつくるのに労力がかかることは知った上でいうが、それでも、まあ、自分で一から生み出すよりはお手軽だよねー。ここに金もうけ臭があると、どうも、、、

だいたい、これらのサイト群の中で情報がぐるぐるぐるぐる・・とロンダリングされているので、真にネットしか使わないでいると、知らず知らずのうちに偏った情報だけで生活することになる。これは知的な生活をするうえでマイナスでしかない。

検索サイトの「役立ち度」は、残念ながら、相対的に落ち続けているというのが実感だ(「必要な情報を得る」という本来の目的に立脚すれば、新たな機能が云々ではなく、検索性という意味で絶対に便利にはなっていない)。情報の質・信頼度という点では、オールドメディアたる図書館や新聞からはいつまでも離れているし、どんどん離されているように思う。

検索クロールのアルゴリズムが研究されまくっているので、今のままであれば、検索上位には金儲け目的の情報ばかりが延々と並ぶことになるだろう。そしてある日突然、検索サイト全体のリーチ率が一気に下がる(検索バブルが崩壊する)ことを予想しておく。

もっとも、当の検索サイト側(例えばGoogle)もこの「未来」への危機感は共有しているようで、「アフィリエイト用に作られた情報羅列サイト」の跋扈に結構強い調子で警告を発してはいる。ただこれ、「あなたの良心に訴えます」という段階でしないことの告白のようにも読めるが・・。

Affiliate programs and added value(※英語)

ここに記述されていることのポイントは、「訪れるユーザにとって付加価値のない薄っぺらいサイトを作っているのは許さん」と明記してあるところ。付加価値というのは、つまりは「まだ誰も知らないこと」「読む人にとって有益なこと」であり、「どこかに書いてあることのコピペ」じゃないということだ。

彼のGoogleもここまで書くくらいなので、やがては対策されるのだと信じたいが、それよりも早く「検索サイトそのもの」への信頼性が落ちて、万人に飽きられる日が来るほうが早いかもしれないとも思う。「悪貨が良貨を駆逐する」というが、まさにそういう「アタリショック」的なことが一挙に訪れないとも限らない、そう危惧するのである。


公開:2016年8月27日

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