2024年9月アーカイブ

「学校の先生が大変で、なり手が少ない」と言われて、ようやく給与面にメスが入れられるようになったわけですけれども、実際に「保護者」として学校を見てみると、「やらなくてよいこと」まで先生が忙殺されているような気がしてなりません。

少し前に、工藤勇一さんの『学校の「当たり前」をやめた。』が話題になりましたが、本当に「必要」なことは何なのか、改めて考えてみるときにきているのかもしれません。

学校の意義は、将来自立自活するための最低限のスキルを心身ともに身につけることにあります(国からすると、「納税者となって国を支えてくれ」ということにほかならないわけですが)。
もっとも、実際は能力や才能は個人別ですから、ほんらい教育は個人別であるべきです。しかし、個人でバラバラにスキル・アップをはかると社会的にはきわめて非効率ですから、ある程度スケールメリットを生かせるように、最低保障分野については集団教授する方式を採用することを、政治的・社会的に合意して「学校」という制度を選択している、ということですね。

集団教授が社会的に見て効率的なもの?すなわち学校というシステムがなじむものは(個人的に合理的であるかはわからない)、
*基礎学力の最低保証―国語・数学・英語の、いわゆる「読み・書き・計算」の基礎学力分野の学習機会担保。
*生活知識や教養の最低保証―生活・理科・社会・芸術分野(音楽・美術)・道徳を涵養する時間の担保。
*基礎体力の最低保証―体育(陸上・水泳・球技)の基礎スキルの習練の機会提供。
*集団生活経験の最低保証―式や運動会、発表会、部活動、修学旅行など「集団行動」の機会提供。
*といったものが挙げられるでしょうか。この観点から考えてみると、もしかすると今、学校で「当たり前」に行われているものも、どこかで「見直し」をしてもよいものが見つかるかもしれません。

ここからは思考実験です。本当にこれらの行為が必要か(あるいは今のままでの運用が妥当なのか)、ぜひ考えてみましょう。「できない理由」ではなく、「やめたとしたら何が問題で、本当にやめるとしたらどうするか?」という発想をしない限り、何も変わりませんからね・・・。

■朝礼:いきなり1時間目の授業をスタートすることで、実は何の不都合もありません。どうしても出席確認が必要ならば、1時間目を受け持つ先生が毎回名簿と付け合わせればよいでしょう。
■給食:担任が常に一緒にいる必要はありません。アレルギーや「喉に詰まった」などの万が一の緊急対応要員は必要ですので、生徒は昼にどこか大きな広間に集めて、何日かを持ち回りで見るようにすれば、先生がお昼休みに文字通り「休む」ことができます。お昼ご飯くらい、1日でもいいから先生にゆっくり食べさせてあげたくないですか?
■掃除:なんでも子どもにやらせればよいという話でもないんですね。この時代、ワックスがけまでさせて「無償でやるもの」という奴隷根性を骨の髄までたたき込むのか、ちゃんと「1つ1つの行為にはほんらいカネがかかるものなんだよ」と分からせていくのか。ここは議論の余地がありそうです。
■帰りの会:完全に不要です。必要な連絡はその日の最後の授業の時で十分でしょう。
■連絡帳:少なくとも、「毎回担任の確認印」「家庭の確認印」を求める習慣はいらないですね。本当に必要な連絡はWeb化すればよいだけです。
■宿題:親のチェックを入れさせる管理目的のもの(音読シート、歯磨きシートなど)は絶対不要。忙しいし親子ともに確実に適当になりますから(そんなものにチェックする先生も労力の無駄)。そんな暇があるなら習熟目的のもの(計算、漢字、九九など)をさせたほうがよほど身につきます。自己採点でもさせればよろしい(こう書くと、「嘘つくやつが出る」って反論されるのですが、嘘ついて困るのは自分ですから)。
■PTA:意義そのものを問うとハレーションが起こるので、まずは「外注できるものはないか」を常に問うことでしょう。また、慣習でやっているが効果がほとんどないものは存在意義から見直していくべきものです。「共働き」が主流の時代、「親の力で何とか」というのが不可能になってきているのは自明です。
■担任制:一人で30人も見るのがどだい無理という話なんです(会社組織で、部下が30人もいれば絶対に役職を分散させますよね)。主担当のクラスは持つにしても、教科担任制にして、責任を分散させるほうがよほど子どものためになるのではないでしょうか。
■学級通信・学校通信:家庭で必要なのは校長や担任の長い挨拶ではなく、「いつ、何があって、何が必要か」という家庭での準備に必要な情報です。行事の事後報告も不要(我が子以外の情報は基本的にいらないのです)。「年間カレンダー」1枚で、あとは必要な時にWebで連絡でいい?と思っている人、多いでしょうね。
■面談:総当たり式をやめ、「アンケートを取り、必要な人に実施する」?という方式で教師・保護者双方の負担は減らせそうです。
■掲示物:ごちゃごちゃした壁は、集中学習の妨げになると私は感じます(授業参観の時は暇をつぶせますが)。学校の壁って、「空白恐怖症」になっていますよね。好きならいいんですが、苦手なのにわざわざ壁に何かを貼る時間を捻出するくらいなら、「日本一シンプルな壁の教室」とかのほうがインパクトありますけれどね。
■運動会:コロナ禍を経て、「午前中のみ」「学年分割」になったのはとてもよい傾向です。正直、我が子以外の出番なんて「どうでもいい」というのが圧倒的大多数の保護者の本音ですからね(好きな人もいる=だから続ける、というのは論理的におかしい)。もっと細分化して、リアルタイムの「陸上競技大会」と、後日動画配信の「遊技披露会」に分けてもいいくらいです。
■校則:法的根拠の薄い「拘束」はいらないですよね。

繰り返しになりますが、これらは「思考実験」です。「それは違うよ」と思われる項目もあるかもしれませんが、1つ1つの常識に「疑問符」をつけてみることから「改革」ははじまります。「できない理由」を探すだけでは何も変わらないのです。

おそろしくスモールな視点で論点を挙げてしまったのですが、ここからはもう少し大きな観点からも「疑問」を投げかけてみましょう。

■入試:本当に、「答えのあるテストを解かせる」こと"だけ"で選抜をしてよいのか?
■テスト:生徒の学力を評価するだけで、出題者の評価はないのか?例えば「平均点30点のテスト」だとしたら、「30点しか取れない習熟のさせ方しかできない」という評価もあり得るのではないか?
■クラス:本当にこの単位は必要か?
■一律進級:学力や能力の多様性を鑑みた時に、「落第」や「飛び級」を採り入れないのは悪平等ではないのか?
■部活:内製化は人員的にも予算的にももはや限界。設備や指導者などの外注をどこまで許容するか?
■4月が新学期:本当にこれでよいのか。グローバルな視点で「1月」や「9月」も考慮することはできるのか?

・・・等々、様々な論点があるでしょうね。


2024年9月4日

アーカイブ