2022年11月アーカイブ

最近の新入社員に聞くのが、「家にテレビってあるんですか?」(敬語)だ。
だいたい、「ありません」という答えのほうが多くなって久しい。昔は「テレビは置いてないんです(ドヤッ)」というのが、一種の「ステータス自慢」みたいな感じで妙に鼻についたものだが、今はそういう「自分だけ特別」感はない。

逆に「テレビは置いています」という人は、根っからのテレビ好きだったりする。単に趣味なのである。

すなわち、「置きたいから置く。置きたくないから置かない」ということだ。別に「NHKの受信料が負担で・・」とかそういうことでもなく、純粋に「置くか置かないかは趣味の問題」ということなのだ。クルマとか酒もそう。「〇〇離れ」の正体は、純粋に「趣味化」なのだ。主義主張でも、また多くは、深刻な「経済問題」でもない。単に、「好きでもないことにカネはつぎ込みたくない」だけなのだ(・・そういう意味では経済問題もあるが・・・)。おそらく、今の若者の所得が明日2倍になったとしても、テレビ、クルマ、酒、スキーなどにいきなりお金をつぎ込む―とはとても思えない。おそらく、黙って貯金に回すのが関の山だろう。老後が不安だからね。

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隔世の感がある。子どものころは、テレビの番組1つで曜日を指折り心待ちにしていた時代が確かにあった。

月曜日は『志村けんのだいじょうぶだぁ』
火曜日は『サザエさん』の再放送と、『ドリフ大爆笑』
水曜日は『ドラゴンボール』
木曜日は『チンプイ』
金曜日は『ライブマン』からの『ドラえもん』
土曜日は『まんが日本昔ばなし』『おぼっちゃまくん』『クイズダービー』『8時だヨ!全員集合』/『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』
日曜日は『ウィンスペクター』『仮面ライダーRX』/『仮面ライダーブラック』『ちびまる子ちゃん』『サザエさん』『世界名作劇場』

例えば上記の如くである。3―40年近く前でもはっきりと曜日を覚えているのだから、その影響力たるやとんでもないものがある。紛れもなくテレビっ子だった。

そして、もっと強烈にテレビと歩んできたのが、団塊の世代から少し下の世代くらいまでだろう。その証拠に、今やおじいちゃんとなった彼ら/彼女らの家では、ほぼ例外なく、大音響でずーっとテレビがついているのだ。もう「習慣」としかいいようがない。

しかし、今の若人に「視聴習慣」なるものはない。

今は例えば『おジャ魔女どれみ』だろうが、『プリキュア』だろうが、アマプラなりネトフリなりで過去のものであろうと何だろうと好きな時に好きなだけ見られるので、「あー、来週のドラえもん楽しみだなぁ」とはなかなかならない。別に見たいときに観ればよいのだから。

そしてそもそも、「倍速」で見る時代だ。放映される時間まで律儀に待って、その時間しか楽しめないなんてまどろっこしいったらない。

今の子どもが上記のようなスケジュールでテレビを楽しむとはとても思わないので、これからもどんどん「テレビ離れ」が進むだろう。これはもう抗いがたい時代の波としか言いようがない。

そしてそもそも、子どもが毎年80万人も生まれなくなっているので、マーケットとしてもおいしくない。かくて、「子供向け番組」はどんどんシュリンクし、ますます「将来のお客様」を奪っていく。

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ファミリー層がターゲットのある企業が、テレビCMを見直してプロモーションを刷新した。結果は「売上減」。当然、「メッセージが伝わっていない」と大騒ぎになる。

でも、そりゃそうでしょう。そもそもファミリー層はもはやテレビを見ていないんだから。まず子どもがテレビを見ていない(Youtubeかサブスク、録画が中心)。大人も(多くは共働きで余裕がないので)テレビをのんびり眺める理由がない。

かといって「代替手段」たるWebのターゲティング広告も、トラッキングオフでターゲティングを外し、広告ブロックをかけてしまえばそれで終わり。メールもほとんどは「捨てアド」で登録して目につかないようにすればOK。見ないんだな、これが。

新聞広告も(誰もファミリー層は新聞を読んじゃいないので)激減・・となると、結局もっとも効率がよいのは「ポスティング」なのではないか―と。これまた、要塞化したマンションも増えているのでリーチするのはなかなか難しそうだが・・・・

・・・少し話がそれてしまった。テレビである。

そういえば我が家はどうだろう、と思って1日の家族のテレビ「画面」の視聴状況を振り返ってみた。

■妻
・NHKのBSのテニスの試合の録画(朝夕15分ずつ)

■娘
・NHKのニュース(朝起きてすぐの10分くらい×3日程度)
・アマプラでアニメ(1日60分)
・「ドラえもん」や「プリキュア」などの録画(週に計60分)

■私
・ブラタモリの録画(週に45分)

■家族で
・「ふたりはプリキュア」(週末に50分)

うむ。「テレビ」自体には接している。しかし、「テレビ」という機械には接していても、そもそも「テレビ放送」にほとんど触れていないことがわかる。

なので、スーパー銭湯などで久しぶりに民放を見て、CMを見ると懐かしい気持ちになる。タレントが分からない(ユーチューバーのほうが分かる)、親しみがわかない、だからますます見なくなる―という悪循環。

いかに「時間を割かせるか」の勝負は、手元で簡単にさわれるスマホに軍配が上がる。もはや、「リモコンを押す」という手間さえ億劫に思うようになってきた。「どんな番組をやっているのか」をザッピングするのさえ、実にしんどい。―と、かつての「テレビっ子」であった私ですら思うほどに、構造的な問題は深刻だ。

一日の長があるように思われてきた「コンテンツ制作力」ですらサブスク業者にお株を奪われつつある。また、「機動力」だってSNSに押されっぱなしだ。

一方で、「テレビの強烈なファン」というのも存在する。「マス」メディアの宿命として、「マス」へのアプローチは不可欠なところだが、でもしかし、コアなファンへ向けてニッチに収益を最大化することも、もしかするととても重要なことなのかもしれない。あ、書きながら思ったがそういう番組見たいかも。テレ東やEテレあたりがその方角に長けている気もするが、もっともっとぶっ飛んだテレビ、見てみたいなぁ。

Youtubeが完全に市民権を得て、ポリコレの波によって炎上しやすく多方面に配慮が必要な「テレビ化」をしていく(平たく言えば「つまらなくなっていく」)のであれば、テレビが「Youtube化」してニッチな方向で尖っていくのも面白いかもしれない!

もちろん、そこに行き過ぎるとそれこそ「飽きられたら終わり」の袋小路にハマってしまうわけだけれども・・・。


2022年11月29日

昔、娘の幼稚園で「学芸会」の主役を決めるときに、オーディション形式を導入していると聞いて驚いた。

立候補した数名を前に立たせ、いくつか台詞を言わせて、それをクラスメイトたちが挙手制によって投票するのだという。

「もっともよかった人」「次によかった人」に1票ずつ、そして「もっとも悪かった人」に1票を投じる(当然、票からはマイナスされる)仕組みとのことで、多数決の弱点である「反対意見をくみ取ることが困難」を見事に解消している。

ゆとり時代に騒がれた「手をつないでゴール」からずいぶんと時代は変わり、「勝ち抜き」という市場原理が幼稚園の学芸会にも導入されたわけである。私なんかは、変に子どもに主導権など与えず、先生が勝手に決めればいいのにと思うわけだが・・・(「どうしたら主役に選ばれるか」を考えることは、「どうしたら上司に高評価をもらえるか」の相似形であるからいつか仕事の役に立つのである)。

ちなみに我が子は最初から「町の人役」をやることを強く熱望したそうで、ちゃっかり第一希望を射止めていた。変に色気を出して、オーディションで落ちたらショックも増えるばかりだ。このリスク回避術、どこで覚えたのだろうか。この先ストレスなく生きていくには、「目だちすぎない」ことも一種の処世術である。


2022年11月22日

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