■当たり前を見直す
コロナ禍で、痛切に感じたのが「当たり前は、実は思い込んでいるだけ」ということがいかに多いか、ということであった。
「人が一堂に会さないと仕事はできない」というのは虚構も虚構であった。あらゆる「デスクワーク」は、文字通り「デスク」ワークであって、「オフィス」ワークではないということを思い知らされた1年であった。
さて。これだけ「人と会うな、社会的距離を取れ」の大合唱を受けると、これまでのいろいろな常識や慣習も、もしかしたら「思い込んでいるだけ」なのではないかと感じることが多くなってきた。
「列車の中でタバコを吸うのが当たり前の時代」と、「電車の中でタバコを吸うなんてとんでもないという時代」には隔絶がある。
「駅前に公衆電話がずらりと並んでいる時代」と、「携帯電話でいつでもどこでも連絡が取れる時代」にも隔絶がある。
「コンサートやライブはチケットを買わないと見られない時代」と、「オンラインで誰でもライブを視聴できる時代」にも隔絶がある。
■「コモンセンス」と「変化」の合間で
最初に断っておくと、長年培われてきた「慣習」「習慣」「慣行」「常識」「伝統」といったものは、絶対に馬鹿にするべきものではない。これまでの人類の営みの集合で「やっておくべき」「やっておいたほうがいい」あるいは「やらないとまずい」そんな「知恵」の集合体だからである。
ただし、一方で、社会は常に変容するものでもある。「歌は世につれ、世は歌につれ」なんていう言葉もある。「進化論」を持ち出すまでもなく、「社会の変化に適応できなければ、淘汰される」危険性もある。例えば今、ちょんまげで入社試験を受ければ、間違いなく就職は困難を極めるだろう。お歯黒でミスコン1位も難しいだろう。太陰暦だけで生活をしていれば、社会生活も儘ならない。
ということで、こういう「常識」と「変化(進化)」の中庸で私たちは生きていく必要がある。ものすごく長い間の「伝統」だと思ったら、実は明治以降の慣習だったりすることも多い。そのあたりをよくよく吟味して注意深く生活していく必要がある。
■年賀状について
そして、今の時期柄、最も「変化」させるべきと思うのが、私にとっては「年賀状」であった。
年賀状の起源は、平安時代後期まで遡れる(「年賀状博物館」)という説もあり、やや人口に膾炙している感のある「郵便制度ができた明治以降の制度だから、伝統なんてない」ということではどうやらなさそうである。
そもそも、「年始のあいさつ回り」の代わりとなる書状が「年賀状」であるからして、「年始の何らかの挨拶」というのは、かなりの昔から「伝統」として続いてきている、ということだ。
要は、「新年のあいさつ」そのものは、形を変えど、残り続けている。今は、「直接会う人は直接」、「そうでない人とはほぼLINE」ということに相場が決まりつつある。あいさつがなくなるのはどうかと思うが、人々は挨拶そのものを捨てたわけではない。「何らかの形であいさつする慣習」は非常に根強く、人々の間に残っているわけだ。
それでいいんじゃないか、と思う。
というか、そう思う人が増えた。「年賀状じまい」とか、「職場間や企業間での虚礼廃止」はもはや普通のことになった。よく考えると、私自身をみても、20年/21年比で-50%である。最盛期はおそらく120枚くらい書いていたので、もはや感慨深くすらある。
年賀状そのものはなくならないはずだが、おそらく、賀状のやり取りは「親戚」「恩師」「恩人」くらいに収斂していくのではないか。
結果として急速に年賀状の発行枚数は落ちている(ピークが2003年の44億5946万枚、2021年が19億4198万枚。前年比で-17.4%減、ピーク比で-56.5%)。ちなみに、この間の象徴的な出来事として、「プリントゴッコ」は2008年に販売終了している。
■拝金社会では決して抗えない「コスパ」
一度、「やめてみると、こんなに時間とお金が浮くのか」と知ると、人々は、ますますラクな方に靡いていく。これは世の道理である。
*お金は、「年賀状代」「印刷ソフト代または印刷委託代」「プリンターのインク代」
*時間は、「デザイン決定」「住所録メンテナンス」「コメントを書く」「デザイン決定までの家族間の喧嘩」
これらの手間暇が、「LINEのスタンプをポチ」という「0円・ほぼゼロ時間」に経済合理的に勝てるわけがないのだ。
■「元旦に届く」ということの意味を問い直す
私は、元日に年賀状を確認する(郵便受けを確認する)ことを、ちょうど今年からやめた。いつも、年明けの昼前頃に「あ、あの人に出していなかった」とか「あ、あの人に出したのに届いていない」とかやきもきするのが、いい加減に厭になったからである。
また新年早々、「コメントなし」の賀状を見て、「無理して出されなくてもよいですのに」と一瞬でも思ってしまうのも、もう嫌なのだ。
で、「元日に年賀状を見ない」を実践したところ、驚くほど精神衛生上の安定が得られて自分でも驚いた。「年賀状は、元旦に届くもの。こ昼前には確認しなければ!」という一種の強迫観念である。この感情、明らかに不要なものであった。
・・で、この考え方を延長させていくと、「別に、コストをかけて元旦に配達しなくてもよくない?」ということに思い至る。元日の夕方でもよいし、3が日にしたってよいし、もっといえば「松の内まで」にしてもよい(7日ないし15日まで)。考え方によっては、旧正月までだってよい。企業宛の年賀状なんて、どうせ年明けにしかポストを開かないわけだし。
「働き方改革」のご時世である。電車だって終電を繰り上げて、終夜運転すらしないのだ。コンビニやファミレスも「24時間営業」の看板を取り下げはじめている。「年賀状配達」だって、無理に「元旦」に届ける必要が、もしかするとないのかもしれない。
「実家に帰省していて、3日の夜に帰ってきたら年賀状がポストにどっさり。明日から仕事だというのに、長距離移動で疲れた体で慌ててプリンターを起動したらインクが切れてて大騒ぎ・・・」なんて人も多かろう。こういう人にとって、「1日」に年賀状が届いている必然性など、全くないのではないか。
ただでさえ、はがきは値上がりしているのである。平成の頭は「41円」だった。令和の今や「63円」である。30年で1.5倍だ。値上げそのものにどうこう言っているのではない。「必ず元旦に配ることのコスト」と「まあ、正月の間に配れればよいや、のコスト」との感覚はどうなっているのか、という話である。
■年賀状を「松竹梅」に分けたらどうなの?
そこで、提案。
相手にわからない形(バーコード)で「特急年賀状(28日までに投函で必ず元旦に届く)」と「普通年賀状(28日までに投函で1月7日までに届く)」「エコノミー年賀状(28日までに投函で1月15日までに届く)」に分けたらよい。デザインを同じにすれば、わかるまい。
「特急」は+200円(つまり263円)、「普通」は+50円(113円)、「エコノミー」は63円である。
所謂「松竹梅」の商法と同じで、大多数は、おそらく「普通(竹)」を選ぶだろう。63円→113円と179%の値上げなので、仮に発行部数が30%程度減少しても売り上げ実額は確保できることになる(もっと減るかもしれないが・・・)。
年賀状は、何となく「特別感」があるように見せて、実は最も「急を要する文書」ではない。だからして、エコノミーの値段を普通郵便と同じにして変えなければ、実は国民生活を脅かすことには至らないのである(エコノミーという選択肢は担保されている)。ここがポイントだ。
2021年1月2日