このところ、改めてドラえもん映画(藤子・F・不二雄先生の大長編の原作があるものに限る)を見まくっていて、改めて「すごくおもしろいな」と思う。そして、見るごとに、自分のドラえもんへの理解の浅さが感じられて、本当に恥ずかしくなる。
知れば知るほど、深い。まだまだ理解が浅い。その深淵にたどり着くことは、私のような浅学菲才の身には不可能だろう。ドラえもんの世界は懐が深いが、見ようによってはどこまで掘ってもたどり着かない深谷のようなのだ。
藤子・F・不二雄先生は、本当に偉大だ。これだけの作品を継続的に提供できるストーリーテラーが、どれほど存在するだろうか。空前絶後の存在なのだと、改めて思い知らされる。
原作者亡き後の「映画ドラえもん」は、もちろん「ドラえもん」ではあるが、あくまでも「後世の人が脚色したドラえもん」である。やはり、大長編の裏付けのあるドラえもんの持つ魅力には代えがたい。
なぜ、「大長編」を原作に持つドラえもん映画はこんなにも面白いのか。とにかく感じるのは、次の魅力である。八点ほど挙げたい。
第一に、伏線と練られたストーリーだ。「なんだろう?」と思わせる謎が随所に散りばめられ、ストーリーの展開によって次々と明らかになっていく構成は、「物語のお手本」のようなものだ。「何気ないワンシーン」を、別のシーンで上書きし、あとで「あ、これだったか!」と膝を叩かせる・・これはおいそれとできるものではない。
様々な伏線が思い浮かぶが、『竜の騎士』の「ヒカリゴケ」で真っ暗な洞窟を明るく照らすアイデアは、まさかの後半に活きてくる。これなど物語づくりの好例中の好例だろう。「え?これも伏線だったの?」というのを仕込ませるのも巧い。『宇宙小戦争』でドラえもんが発する「どんな薬にも有効期限はあるの」というセリフは、直近で出てくる「チータローション」にかかってくるかと思えば、物語の核心に触れる重要な伏線である。また、例えば『銀河超特急』の「忍者の星」でジャイアンとスネ夫が「仮免許皆伝」で入手する「巻物」。この「ちょっとしたアイテム」、誰がストーリー上で重要な役割を果たすと思うだろうか・・・
第二に、日常とSFの自然な接続だ。藤子先生の定義によれば、SFは「すこし・ふしぎ」である。まさにこの言葉通りで、日常世界の中にフィクション・・あるいはファンタジーが混在するからこそ、見る者はその世界にどっぷりとつかることができるのだ。
『恐竜』で恐竜の卵をのび太が発掘するシーン、『宇宙開拓史』でのび太の部屋とコーヤコーヤ星が畳の裏1枚でつながるシーン、『鉄人兵団』で頭を冷やしに北極へ行ったドラえもんを探しに行く途中でのび太がジュドの頭脳を見つけるシーン、『竜の騎士』で0点のテストを隠した場所が地底世界の入り口だったシーン、『アニマル惑星』で登場した謎のピンクのもや、などはまさに「日常との接続」そのものである。
第三に、深い教養に裏打ちされた科学物語であるという点だ。古今東西の物語を広く・深く知悉していることで知られる藤子先生だが、併せて最新科学(自然科学だけでなく、歴史や神話などの人文科学を含む)への造詣も、相当に深いことが各作品からもよく窺える。要はまったく「浅さがない」のだ。1つ1つの物語が生半可な知識で描かれていないからこそ、深みのあるストーリーが展開されるといえよう。
その代表例が『創世日記』であろう。宇宙の創造から地球の形成・進化論といった宇宙科学・地球科学・生物学だけでなく、アダムとイブの神話からはじまりシャーマニズムの形成といった神話や宗教の概念、人類の発展史、果ては伝説、南極空洞説まで総動員した「今の人類に至るまでの知識のオンパレード」で1つの作品を成し、100分のボリュームに「子どもの鑑賞に堪えうる」レベルで仕立てるというのは、高名な専門家が束になっても、なかなか創れるものではない。また、『竜の騎士』で地底世界の首都エンリルに向けて地底船に乗るシーンで、多奈川底からアメリカ大陸へ向かう途中の火山帯を通過した時に、静香が「ハワイの近くかしら」とつぶやくシーンがあるが、これはもう、児童漫画で徹底的に培われた「知識をわかりやすく伝える」「技」のようなものである。ほかの漫画で、小4(映画では小5)の女の子に、「ハワイが火山帯」であることをごく自然に読者に開陳するようなシーンが挿入される作品など、見たことがない(ふつうは説明口調になるが、このシーンはもう、「自然」すぎて、視聴者は流してみるだろう。しかし、火山帯を通過する説明はこの静香の説明しかないのだ。もはやこのテクニックには、脱帽するほかない)。
第四に、キャラクタの特徴(ステレオタイプ)を活かしきった活劇であるという点だ。各キャラクタの生みの親は作者自身であるから、それはもう、生き生きと紙面を、画面上をドラえもんが、のび太が、静香が、ジャイアンが、スネ夫が動き回ったに違いないのである。「のび太だったら、こう動くだろう」という後世の人間が頭で考えた「造り」ではなく、もはや「のび太はのび太として自律的に動く」状態だったと想像される。ちなみに「キャラクタ」とは「特徴」のことであるから、必然的にステレオタイプ(いわゆるパターン)で動いてよいのである。
●ドラえもん・・・主人公の立ち位置には2つあって、主人公が動かない作品と、動く作品がある。ドラえもんやアンパンマン、ゴルゴ13は前者、こち亀は後者だろうか。そう。実は、彼は「傍観者」なのだ。アニメの「アンパンマン」を見ていると、彼はここぞという時にアンパンチでばいきんまんをやっつけるとき以外、常に「傍観者」であることに気づく。これと全く同じ構造で、ドラえもんがストーリーを動かすのではなく、周囲のキャラが勝手にストーリーを進めていく。「ここぞ」というときに動くからこそ、圧倒的存在感を放つのである。
●のび太・・・弱虫ですぐに人に頼って、ダメなところばかりだが、本質的に心が優しい。だから、親からも友人からも、先生からも見放されずに生きていける。それがのび太だ。『鉄人兵団』でリルルを撃てないのび太、がのび太の本質を表している。
※ちなみに、「ドラえもん」の主人公はのび太である。そもそも、のび太の成長を見守るロボットがドラえもん、である。原作の短編はもちろんのこと、『ブリキの迷宮』や『雲の王国』『創世日記』などでは、そもそもドラえもん不在でのび太が中心にストーリーを進めるシーンが多用されている。
●静香・・・子どもが幼稚園でもらってきた塗り絵の静香の説明に、「やさしくてしっかりもの」と書かれていた。本質を捉えている。もう少し詳しく書くと、静香は「少年が憧れるクラスのかしこい女の子」である。この「少年」の部分を「のび太」に変えても、究極には「藤子先生」に変えても、本質は全く同じだ。藤子先生のあこがれが投影されているのだから、本物の静香は、藤子先生にしか絶対に描けない。したがって、大長編原作のないドラえもん映画は、圧倒的に静香の描写ができていない。辛辣なことを言えば、「単にかわいい女の子」でしかない。でもそれは、静香とはまったく違うのだ。静香は、「藤子先生が憧れる、クラスのかしこい女の子」なのである。だからこそ、『銀河超特急』でみせるメルヘン好きの部分と、『宇宙小戦争』で(特にスネ夫に)みせる男気と、『海底鬼岩城』でみせる愛情と、『鉄人兵団』でみせるやさしさやかしこさと、、、そういった「こんな女の子、いいな」という要素が集まっているのが静香なのだ。『鉄人兵団』のワンシーンで、湖のザンタクロスの上で「ねえ、このロボットの名前、ラッコちゃんって名前にしない?」と静香が問いかけ、のび太が「そんな弱っちい名前、嫌だよ」と断るシーンがあるが、こういう静香の静香でしか出せない雰囲気を表すシーンは、絶対に藤子先生にしか描けないと思うのである。
●ジャイアン・・・ジャイアンは「乱暴者だが、人情に篤い男」である。要はガキ大将ということだが、すなわち、「シマの中では暴君としてふるまうが、シマの外の奴からは守ってやる」という性質で説明がつく。暴君ジャイアンと面従腹背の従者スネ夫、というコンビネーションは最高級のギャグ・パターンであり、もはや様式美であるとさえいえる。本領発揮は『ブリキの迷宮』であろう。ロボットに変身してチャモチャ星の首都、メカポリスに潜入するジャイアンとスネ夫の迷コンビぶりは、もはやその存在だけで人を元気にさせるコメディアンそのものである。
●スネ夫・・・スネ夫の性質は「臆病者だから、強いものに靡く」なのだが、作品の観点からみると、実は貴重なストーリーテラーでもある。『恐竜』『宇宙小戦争』『鉄人兵団』では導入から「きっかけ」を生み出しているし、『ドラビアンナイト』では彼の見る「幻覚」が物語の核心を突いていく。『竜の騎士』は彼のノイローゼなしには話が進まなかった(道に迷ったスネ夫は、ドラえもん、のび太、静香、ジャイアンの順に助けを呼ぶ・・この順番がまた面白いのだが、それは余談であった)。そして『雲の王国』に至っては、彼の資金力なくしては「雲の王国」を建設すらできなかったのである。表層的にはゴマすりをしているような印象が強いスネ夫だが、実は作品を有機的に動かす原動力となっている重要キャラなのであった。
第五に、子どもだましではない点だ。子どもは「子ども向け」を嫌う。「ここで笑わせておけばいい」「動きを大きくつけて飽きさせないように」「こんな難しい概念はわからないだろう」と馬鹿にして臨めば、それに気づくものだ。わかりやすさは必要だが、あくまでも「人」として扱う、そんな「扱いの丁寧さ」が、作品からひしひしと伝わってくるのである。
例えば『創世日記』は、宇宙の始まりから現代までを、「疑似宇宙」という空間の中で説明し切った作品だが、随所に「神話」「進化論」の概念を取り入れて構成されている。今の「ドラえもん映画」で、オープニングに「聖書」の一節を取り入れたり、さらっとシャーマニズムの概念を説明したりすることなど、おそらく誰もできないだろうと思う。ところで創世期の「神話」や「はじめて物語」は、大長編ドラえもんの中では1つのキーワードになっている。例えば『アニマル惑星』も動物世界の創世期の神話がストーリーの核となっているし(チッポに新年の物語として語らせている)、『鉄人兵団』もロボットのアムとイムがストーリーの最核心だ。『日本誕生』は物語そのものが日本の創世物語である。また『雲の王国』にも創世神話の影響が感じられる(劇中にシアターを設けて説明している)。『竜の騎士』も途中、博物館の中で恐竜の進化・絶滅と創世物語を組み合わせ、ここで地図に登場する「聖地」の形がその後のストーリーの重要な伏線にもなっている。このように、「私たちは何者なのか」を作品の中で丁寧に解説するからこそ、ストーリーに厚みが出て、子どもも、子どもなりの理解で「なんだか、すごい話だぞ」ということを理解するのである。「子どもに、雰囲気で納得させてしまう」というこの手順は「ドラえもん」において絶対に飛ばしてはならないことだと思うのだ。
第六に、あからさまなお涙頂戴でない点だ。感動の押しつけは、暴力である。「ほら、こういうシーンが感動するんでしょ?ほれ」とか、そら「ドラ泣き」だぞ、とかやっているようでは、まったくもって安っぽい作品にしかならない。大長編原作の「ドラえもん映画」には、狙った「お涙頂戴」は一切含まれていない。
こういうときによく言われる『恐竜』のピー助とのお別れのシーンなどは、むしろ「行き場が決まってよかったね」というような話だ。どちらかというと、「自分たちの力でピー助を送り届けた」という自立のほうにこそ感動の軸足が置かれるべき話である。『海底鬼岩城』のバギーと静香の絆、『鉄人兵団』のリリルと静香の友情も、すべてストーリー上の必然であって、「感動させよう」と思って感動させているわけではないことにぜひとも留意を置きたい。
第七に、動きが少ないことだ。もうおっさんだからなのかもしれないが、最近の絵は顔も含めて動きすぎて、落ち着いて見ていられないのである。見ている子どもを飽きさせないようにする工夫・・なのかもしれないが、いくら何でも動きすぎである。いたずらに作画を崩したり、鼻水を出したりする必要性も感じない。こんなに動いたら、却って見ているほうは集中できないんじゃないかと思うが、どうなのか・・・。
第八に、音楽とのリンクである。「ドラえもん映画」といえば武田鉄矢である。このハマり具合は尋常ではない。これは安っぽいタイアップでは絶対に作れない。表層的な曲づくりではなく、真に「ドラえもん」を理解し、作品のテーマと一体化しなければ、到底生まれてこない深すぎる歌詞。大人になって、ますます味わい深くなる曲ばかりである。以下、唐突に全曲レビューだ!!
■『恐竜』・・「ポケットの中に」
最初期にしてこの名曲。ドラえもんの声で聴くから、ますます余韻が深まる。そう、ドラえもんとはいつでも一緒なのだ・・・。ただし、大人になるまでは。 ピー助もそうだったように。
■『宇宙開拓史』・・「心をゆらして」
さようなら、コーヤコーヤ星・・遠くて届かない、「大切なもの」・・
■『大魔境』・・「だからみんなで」
仲間がいるから、勇気が大きくなるんだね! 途中から元気を取り戻すジャイアンにそのまま投影される曲だ。
■『海底鬼岩城』・・「海はぼくらと」
海は広い。どこまでも。だから、いろいろなものを包み込む。海に散ったバギーの思いも、包み込む・・・。
■『宇宙小戦争』・・「少年期」
名曲中の名曲。劇中で、作中人物がこの歌を歌うところは涙ものである(曲を聴きながら寝てしまうのび太をドラえもんとジャイアンが優しく見つめるシーンなんてもう、涙なしでは見られない)。今から聴くと、若くして「大人」になってしまった大統領、パピの心うちも感じる。
■『鉄人兵団』・・「わたしが不思議」
静香は言った。「時々理屈に合わないことをするのが、人間なのよ」。理屈とは違って心が変わってしまう不思議な”わたし”、”わたし”が不思議。これは天使になったロボット、リルルそのものの歌だろう。
■『竜の騎士』・・「友達だから」
初期以来のドラえもんの声のED。牧歌的でよいですねぇ。友達はずーっと友達・・違う服を着ていても、目指すところは一緒!
■『パラレル西遊記』・・「君がいるから」
明日を目指してGo to the West, まさに「パラレル」な西遊記を象徴するごきげんソングですね。「ロールプレイ」という観点で作品のテイストは『夢幻三剣士』と似ているので、曲も「夢の人」と近いジャンル。
■『日本誕生』・・「時の旅人」
1億年前も、1万年前も、2000年前も。そこに「空」があった。過去からずっと紡がれる「歴史」を想起させてくれる壮大な歌。
■『アニマル惑星』・・「天までとどけ」
「業」を抱えながらも、未来に向かって生きていく・・ニムゲ・・いえ、私たち「人間」の在り様がまっすぐに描かれているように思います。
■『ドラビアンナイト』・・「夢のゆくえ」
アラビアンナイトの世界から飛び出してきた、厚手の革製の素敵な装飾の絵本をめくるような、幻想的な曲が作品とびっくりするほどマッチしています。 まだまだ夢を見ているような・・。それは、のび太の見た「夢」でもあり、波乗りシンドバッドの「夢」でもあり、千夜一夜の「夢」でもあったのかもしれないな。
■『雲の王国』・・「雲がゆくのは」
空の雲は今や空っぽ。雲は天上人の諦念と希望とを載せて今日も流れてゆく・・
■『ブリキの迷宮』・・「何かいいこときっとある」
ブリキの「宝石のおもちゃ箱」から飛び出したかのような曲。エンドロールで、のび太が念願の「家族旅行」に行けた、というのとサピオが自力で走れるようになった、というのが最高の感動ポイントである。「何かいいこと」がちゃんとあったのよね。
■『夢幻三剣士』・・「夢の人」
劇中歌とEDの2本立てという豪華版。こちらは『パラレル西遊記』の「君がいるから」も想起させるような、旅を盛り立てる勇ましい名曲だ。
■『夢幻三剣士』・・「世界はグー・チョキ・パー」
このラインナップの中では異色を放つコミカルな曲。ただ歌詞は「多様性」の重要性を訴えるなかなか考えさせられる内容。行き過ぎたグローバル化・画一化への警鐘と考えると、かなり時代の先取りをしている感じもする。
■『創世日記』・・「さよならにさよなら」
すべては「時間」と「DNA」という螺旋の階段でつながっている、ということを気づかせてくれる名曲。だから、「さよなら」は「さよなら」じゃないんだね!
■『銀河超特急』・・「私の中の銀河」
星より遠くなってしまったもう会えない「あなた」の思い出は、海の貝殻の形、そして森に咲く花びらの色に”記憶”として、残っています・・というとても切ない歌。まるで天の川鉄道に乗って、「あなた」が行ってしまったかのような曲である。藤子先生は、『銀河超特急』の半年後に逝去され、武田鉄矢もED作詞から引退。奇しくもこの歌が、武田が藤子先生を思う歌のように聞こえて仕方ないのである。
公開:2020年7月24日