このコロナ禍で、「当たり前」だと思っていた日常が、まったく脆いバランスの上で成り立っていたことに気づかされた。「学校」という一番最初の社会基盤ですら、「平時」のシステムの一部に過ぎなかったことも。
「ランドセルを背負って、毎日学校に行き、40人がぎゅうぎゅうに詰まって学び、どんな成績でも1年後には次の学年に持ち上がる」という仕組みが、もしかするともう限界なのかもしれない、とも感じられた。
よく考えると、「スマホ」「ICT」「AI」「ユビキタス」「個別最適化」が当たり前の社会で、近代以来続く「黒板」「わら半紙のプリント」「教科書とノート」「通学前提」「集団授業」というのは、「学校が社会に合わない」現象を加速させてはいないだろうか。
前回書いたように、9月入学は社会変革の1つの起爆剤だと私は信じるが、「性急な導入はしない」方向に政治も世論も全部動いているので、「今すぐ」はあきらめざるを得ない。グランドデザインが描かれたわけではないところがつくづく残念だ。ただ、中長期的には、社会が急速に変化している以上、伝統的な「黒板」「集団授業」型の教育は変わっていかざるを得ないだろう。
そのイメージを考えてみる。一言でいうなれば、「学びの多様化」である。戦前の「強兵養成」でも、戦後の「企業戦士育成」でもなく、「公共の福祉に資する個人の育成」こそが、この「学びの多様化」には求められよう。
【入口】=基礎学力を高める=
基礎も何もないところから、「多様性」も「創造性」もあったものではない。早期のうちから「学びの土台」を固めることが教育改革の第一歩である。
<読み・書きの基礎ができた状態での入学>
・年長期からの基礎教育課程の導入をすすめたい。具体的には「国語」「算数」「生活科」の基礎領域のプレ導入だ。4月入学の場合は9月?、9月入学を導入する場合は年長の3月?、すなわち「年長」期は6か月として、残りの6か月は「ひらがな」「カタカナ」の読み書き、「100までのすうじ」の読み書き、「自己紹介」「通学路の安全」「動植物の知識」あたりを(ちょうど「小学校英語」の導入のように)義務教育化する。これがあると、小学校1年生になったときに「読めない、書けない子」を少しでも減らせるはずであるから(いわゆる「小1の壁」)、スタートダッシュがはかれる。
<ブックスタートの拡充>
・読み聞かせは、「学び」の最もベーシックな部分、「言語能力」や「コミュニケーション能力(感情含む)」に直結する、教育の要点である。どんなに手間をかけても、国策として「読み聞かせ」を推進してくことは意義のあることだと思う。具体的には出生時?3歳に達するまで、毎月1冊、各家庭に絵本を届ける。出生数はだいたい90万人なので、1年の予算は90万人×12か月×3年代分×1000円=324億円。新国立競技場建設費の1/5でかなりの教育効果が見込める施策だ。子育てをしている全世帯に届けるので、ここに年齢別の広告封入を募集すれば、有用な広告媒体(=国庫にとっては収入源)ともなる。
【中間】=学び方の多様性を図る=
早期教育によって「基礎学力」の基盤を創ったところで、いよいよ学校である。テーマは「学びの多様性」だ。「学校のあたりまえ」を見直すところからメスを入れていく。
<単位・飛び級・留年制>
・小学4年生以降の「教科担任制」「単位制」の導入を考えたい。「算数」は「数学(代数)」と「数学(幾何)」に、「国語」は「現代文」と「表現」「古文」に、「英語」は「リスニング&スピーキング」と「リーディング&ライティング」に、「理科」は「化学」「物理」「生物」「地学」に、「社会」は「歴史」「地理」「現代社会」にそれぞれ細分化する。必修科目/選択科目も設定する。選択の新設教科として、「プロジェクト実践(例えば特定のテーマの「調べ学習」をグループで行い、1年後に地元の大学で発表させる)」とか、「コンピュータプログラミング基礎(プログラム言語を使い、実際にソフトウェアを作らせる)」、「社会デザイン入門(大学教授などを招聘し、ゲーム理論やナッジ理論など、行動経済学のトピックスを通じて、よりよい社会を”自分たちが”作っていくという自覚を持たせる)」のような目新しい科目を入れるのもよいかもしれない。
・小学4年生以降高校3年生までの「飛び級」「留年」制度の導入も併せて行う。到達度によってはどんどん先に進んでもよいし、留年もあり得る。「単位制」とセットなので、例えば「数学(代数)」は小4のうちに小6のレベルまで単位取得をしてしまって、「リスニング&スピーキング」は小4では学ばず、小5・小6で一気に単位を取る、得意な「現代社会」は、その時だけ中学まで授業を受けに行き(オンラインでも可)、結局小6までで中学3年分の内容を修了してしまった・・ということも可能とする。
・学校行事も「必修」と「選択」を設定する。例えば「運動会」「体育祭」は毎年必修1単位とするが、「合唱コンクール」は、3年間で必修1単位とか、「芸術鑑賞」は音楽・美術・舞台芸能などから毎年1単位選択とか、中には「海外留学」を入れるなど、子どもの趣向に併せてアレンジメントできるようにすることも検討する。学校ごとの個性があってもよい。
・教科担任の先生は、毎年初に「シラバス」を発行し、授業計画や単位認定の基準を明確に示す。「自分のやっていることが何につながっていて、どんな効果を得られるか」は、授業を受ける側の「知る権利」でもあろう。特に公立学校においては、納税者全員が「知る権利」を有するはずだ。
・教員免許も、「幼稚園教諭(年少?年長6か月度まで)」「初等教育教諭(年長7か月度?小学3年生まで」「中等教育教諭(小学4年生?中学3年生まで)」「高等学校教諭(高校)」に組み替えることも考えたい。
・ここまで書くと、発達段階から見ても(要は「つ」のつく年までが初等で、それ以降は中等ということなのだが)、これまでの「6・3・3制」から、より柔軟に、
「初等教育」 3.5
「中等教育」 6
「高校教育」 3
という、「3.5、6、3制」というのを検討してもよいのかもしれない。地域によっては、「こども園・初等教育学校(年少から小3までの6年間)」「中等教育学校(小4から中3までの6年間」「高等学校(高1から高3年までの3年間)」という「6・6・3」のくくりで学校を再編するところがでてくるかもしれない。
<皆勤賞の廃止>
・今や、体調不良者が出勤することは社会の重大なリスクになっている。「体調の悪いときは、休む」という当たり前の社会を創ることは、教育の責任でもある。ときたま、「クラス全員が皆勤賞を狙うために、体調の悪い子をクラスの何人かが迎えに行って、何とか全員で皆勤賞を達成した」という気持ち悪すぎるニュースを目にするが、これは美談でもなんでもなく、ただの「集団圧力」という暴力であることにそろそろ気づかねばならない。休んだ人がいたら、その分を皆でフォローしあう姿勢を育むのが本当の教育だろう。
・この「皆勤絶対主義」で育った大人の行く末は、「緊急事態宣言下で、会社がテレワークの指示を出していても、出社していないと落ち着かない企業戦士」の量産だったことを絶対に忘れてはならない(ウイルスだけではない。もともと地震などの自然災害も多い国だ。人が「不要不急」で集まることそのものが、もはや社会的なリスクであることは、改めて自覚したい)。
<集団授業とe-ラーニングのハイブリッド化>
・「絶対に集団教授式でなければ、学びは成立しない」という拭い難い先入観は打破された。ほんらい、学びは「自分でやるもの」であって、「誰かから教えてもらわないと、できない」ものではない。いや、そもそも「教えてもらう」ことですら、「教えてもらう」→「自分で気づく」→「習得する」というプロセスを踏むはずだ。
・学習習慣が身につくまでは、学校という場で「勉強とはどんなことか」を知る必要がある。また、集団生活に慣れることそのものも大切だろう。しかし、いつまでも集団授業「だけ」で教育を行うというスタイルにも無理がある。
・そこで、「e-ラーニング」と「集団授業」のハイブリッド化を進めたい。小学4年生くらいから、「聞けばわかる」「読めばわかる」「練習すればできる」ことは「e-ラーニング」を積極的に取り入れたい。特に計算や漢字などは、身もふたもないことを言えば、「理解力」というより「適切な練習量」が「学力」に直結する課題だ。ある意味、「入力」×「努力」=「成果」という方程式が成り立つものである。方程式にできるということは、「数値化」、すなわち「機械化」できるということもである(ただし、これが学びの基礎であることは論を俟たない)。すなわち、こういう機械化可能な分野=「わざわざ学校でやらなくても、家でもできてしまうこと」については、「ミスした問題」「定着した問題」の峻別をとっととAIに任せ(つまり人間を解放し)、積極的に個別最適化を図っていくのだ。ある課題ができない子は徹底的にその単元を学んでいくべきだし、できる子はできることをどんどん伸ばしていくほうがよい(ただし小3までに、「世の中にはいろいろな子がいる。できない子がいれば時には待つことも大切。自分がそうなることもあるのだから。ただ、あえて自分が先に進んでそこで待っているということもある。みんな違ってよい」ということを、それこそ集団授業で気づかせることが前提ではある)。一方の集団授業は、科学実験とか、ディベートとか、1つの目的(例えば「調べ学習」など)をチームで達成させるプロジェクト志向型の授業、などに絞って時間を使っていくべきだろう。繰り返すが、「計算力」や「漢字」などは、機械化が可能であるから、ICTによってトレーニングプログラムを入れて、ただちに個別最適化の方向に舵を切るべきであるし、それができない分野については、「人」の介在で、「人」ならではの授業を展開していくべきなのである。
<学力到達度認定テストの創設>
・年に1度、インフルエンザの時期に1回勝負の「大学入学共通テスト」(旧大学入試センター試験、共通一次試験)を行うという慣行は、「学びの多様化」と逆行している。大学以降の高等教育は、「いつでも、だれでも、いつからでも」学べる状態が理想である。
・学力の到達度を公的に認定するテストがほしい。イメージはアメリカのSATとかACTのような大学進学適性試験だ。ちなみにSATは年に7回も受験機会があるようだが、まずは現実的に四半期に1回、すなわち「年4回」の受験機会を提供する(3月・6月・9月・12月)。
・内容は、あくまで「到達度の認定」なので、基本的にはローコストのマークシート方式とする。各教科はスコア化され、例えば国語であれば、「現代文は200点/500点」で到達レベルC、のような感じ。あとは大学ごとに「〇科目で到達度A以上、〇科目で平均A以上、ただしC以下がないこと」のような受験資格を設ければよい。偏差値というより、このスコアが事実上の大学ランクを示すことになる。
・一定の条件で(例えば「大検」の受検、「高校に〇年在籍し、〇単位取得済」など)、この「学力到達度認定テスト」の認定基準に達していれば大学を受験できるという制度は積極的に推進していきたい。すなわち、非常に優秀な学生であれば、高校2年のうちに「日本版SAT」の基準に達し、大学入試の受験資格を得られる、ということも考え得ることだ。上記の「飛び級」ともリンクする話だ。
<時間割の発想からの脱却>
・年間授業コマ数に拘らない、柔軟な授業設定も考えたい。例えば、高校の独自設定科目として「都市景観の課題を発見する」というフィールドワーク型授業を設定した場合は、コマ数ではなく、「1年間、個人またはグループで研究した結果を論文で発表する」ことを以て選択3単位とする、ということも可能にする。また、例えば小学4年生の「数学(代数)」においては、「分数の計算力到達試験」で80点以上、「小数の計算力到達試験」で80点以上、「まとめの試験」で80点以上それぞれ取得した場合に「合格」とする(明確に成果で測れる課題については、授業時間数ではなく、「成果」で判定する)といった運用も考えられる。一方で、中学3年生において選択3単位の「修学旅行」においては、「準備・計画」に50分1コマ、「修学旅行」に3日程、「振り返り」に50分1コマを以て単位認定をする、など「時間で測る」ことがなじむものは、コマ数に換算することも併用する。
【出口】=一括管理方式からの脱却=
どんなにここまでの制度が整っても、結局は「出口」がすべてを規定するのが公教育の限界点である。「出口」が富国強兵ならば「兵隊とそれを支える良妻賢母の養成」が公教育の目的であるし、それが従順なサラリーマン錬成ならば「企業戦士とそれを支える専業主婦の養成」が目的となる。今は何だろうか。国際社会において、持続可能な社会の担い手となる人材の育成、といったところだろう。となると、必然的に「公共感覚を持った自立した個人」の養成が不可欠となる。ここで求められるのは、一括管理によって「製造」された「正解探し」型の「ロボット」的な「マニュアルワーカー」ではなく、多様な社会状況を経験して「創成」された「イノベーション」型の「自律した人間」による「ナレッジワーカー」であろう。
<大学の入学時期の見直し>
・日本版SATを年4回受験できることと併せ、大学の入学時期も例えば「4月入学/9月入学」と分けるなど、柔軟な設定を行いたい。
<官公庁と企業の通年採用>
・いうまでもなく、多くの企業は定期採用で4月に新卒一括採用を行う。管理が圧倒的にラクなのと、ある程度横並びにしておかないと、「取り得るべきときに人材を確保できない」という機会損失が発生するからだ。ただし、「これまでは」という留保がつく。
・だが「学びの多様化」が進めば進むほど、すなわち、人材の多様化が進めば進むほど、「一括採用」は経営上のリスクとなっていく。すると今度は、却って「取り得るべきときに人材を確保できない」ことになるからだ(「多様化」とはもとから、その本義から言って、従来型の「管理」は棄却されるということを意味する)。
・「分散型採用」が「普通」になると、結局どこかで「横並び」になるのだから、これが「横並び」になるまえに、ブルーオーシャンに漕ぎだす・・ほうが得をするかもしれない。問題は、「誰が先陣を切るか」だけだ。
***
これからは、「一括教育システム」から、「分散型教育システム」にいちはやく転換し、ナレッジとして内在・蓄積している組織のほうが、はるかに多くの人材を結果的に呼び込めることになる、かもしれない。そんな予感を覚える。「組織」を「国」と置き換えても同じである。
公開:2020年5月31日