本来、日本の社会参加意識は低い。近代化も「黒船仕様」なら、民主化も「アメリカ仕様」だ。内発的に近代化・民主化が為されてきたわけではないので、当然といえば当然だ。
今回の事態で、この国がどこまでもムラ社会であることを思い知らされた。「国政はお上が決めること、私たちは作物の獲れ高だけに気をつけていりゃええ」というのが本質的な国民性であり、基本的に社会で起こることは「他人事」なのである。
これは、為政者にしてもそうだ。唐突な一斉休校にせよ、オリンピックの延期にせよ、マスク配布にせよ、10万円バラマキのバタバタにせよ、すべてが「他人事」なのである。これはイソップ童話の「ロバを売りに行く親子」の話そのもので、どこか他人事だからこそ、ここまで一貫性がない政策が繰り広げられるのである。「他人事」というのは「責任の所在がはっきりしない」ということと近しい。まさに戦争末期の政府中枢部の「決められなさ」と相似形をなしている。
しかし、戦争当時と違うのは、国家の権力の拠り所はやはり国民であるという点だ。しかし、その国民が基本的に「他人事」(大事なことは、みんな国が決めてくれるさ)であるからこそ、この体たらくが定義上、国民の総意の集合であるはずの国政に反映しているということは、しっかりと肝に銘じておかなければなるまい。
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あれだけ「これ以上外出をすると、緊急事態宣言の期間は伸びるぞ」(意訳)と政府も専門家集団も警告しているのだが、基本的には「他人事」なので、平気で外出をする人々がいる。
■自分が平気なので、スーパーには家族みんなで買い物に行く
■自分が平気なので、車で行くなら大丈夫、と観光スポットに息抜きに行く
■自分が平気なので、(在宅勤務中なのに)ちょっと会社に顔を出す
まるで、「自分はよく見えているので、無灯火で自転車を漕ぐ」が如くの浅はかさである。周りの車から、あなたの自転車は見えていないのだ。ウイルスは、無差別である。
この身勝手な行為が、どれだけ「緊急事態宣言の期間が伸ばされる」ことに寄与しているのか、こういう行動を平気でする人たちは、おそらく誰も気にしていない。
スーパーに集団で行くなど、「三密を実践しています!」を地でいくようなものだ。車で観光スポットに行ったところで、そこにたくさんの人が集まれば、あっという間に「三密」の出来上がり。そして特に「ちょっと会社に顔を出す」クセは深刻で、「FAXを送るから出社しなくては(←Web上でFAXは送れます)」「郵送物があるから出社しなくては(←受け取りは転送できるし、送るのも地元の郵便局を使って清算すればよいです)」「子どもがいて在宅で仕事にならないから出社しなくては(←そういう問題ではない。無理やり工夫して仕事をやりくりしている人のほうが多い)」・・等々、いろいろな理由づけによって、出社がなし崩し的に認められてしまっている様相である。まるで「会社に行くことが正義」とでも言わんばかりに。今は、「会社に行くことが、必ずしも正義にならない」状態になっているというのに。この価値観の転換についていけていない人は、実はとても多い。これが、平日の外出を抑制できていない最大の原因だ。
これも、結局は「他人事」だからなのだ。「私たちは作物の獲れ高だけに気をつけていりゃええ」のである。
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発想を変えよう。
もはや戦時中である。最前線で戦う兵士(医療関係者)を支え、少しでも早く戦争に勝利するよう協力するのは銃後の国民の義務である。敗戦(医療崩壊)は、端的にいえば今の社会の破滅を意味する。
それを防ぐために国民がやるべきことはただ1つ、とにかく「ソーシャルディスタンス」に耐え、1日でも早く事態を収束させることに協力することのはずだ。
長いとはいえ(ものすごく長く感じる)、わずか4週間。「スーパーに行くのは週に1回、1人」とか、「2キロ以上の外出は控え、近所の公園の散歩で済ます」「どんなに不便でも、自宅でできる仕事をする工夫をする」というのが、銃後の国民ができる最低限の社会貢献だろう。
今、目の前の「作物の獲れ高」だけに拘泥すると、もっと先の「将来の作付」にまで影響することに気づかなくなってしまう。今こそ近視眼的思考から脱却し、中長期的視野で「感染拡大収束」への協力をしていきたい。
これでも「関係ない」と言い張るのなら、もっと状況が悪化して「緊急事態宣言」の期間が伸びても政府に文句を言う道理はないし、医療関係者のご厄介になる権利もないし、それこそ経済が崩壊してどうしようもなくなったときに、誰かに助けを求める筋合いすらないとよくよく心得ねばなるまい。
戦時中だ。銃後の国民が前線を支えぬ行動をとって、何になる。「自粛疲れ」などと寝言をぬかしている場合ではない。平和ボケを通り越して、ただの「ボケ」である。
公開:2020年4月19日