◆こんな隣人、いやでしょう?
仮定の話をする。
ある一家があったとする。仮にN家としよう。
N家は経済的に豊かで、家族で平和に暮らしている。
近所に、ちょっと仲の悪い家があったとする。
仮にC家とK家としよう。
N家、C家、K家とも、代々、一族がこの地に住まうている。
C家は、60年くらい前にA家との間で起こったトラブル(すでに家裁で和解済)をいまだにネチネチ言ってくるので、N家の人々を困らせている。すでに当時を知る者たちはほとんど他界しているというのに。
K家は、ことあるごとにN家と張り合おうとする。ちょっとでも気に食わないことがあると、表札を複製して、それを家の前で焼くのだ。怒鳴り込んでくることもしばしば。
N家は経済的に豊かなので、相対的に貧しいC家・K家からはたびたび妬まれてもいる。しかしC家・K家の困窮を救おうと、N家はC家・K家には度々、金銭的な支援をしている。
にもかかわらず、C家・K家はN家のことを「敵」としか思っていないのだ。そもそもC家もK家も、家長以外、金銭援助のことを知らない。だから両家の家族は心底、N家を憎んでいる。
こんなこともあった。
N家はすこし離れたところにに先祖代々の土地を持っているが、そこに江戸時代の小判が発見された途端、C家が「ここはうちの土地だ」と騒ぐ。K家も「いや、うちのだ」と騒ぐ。K家に至っては、不法に小屋まで立てる始末。
N家の家族は、「もう、C家ともK家とも付き合っていられない」と日々頭を悩ませている。
しかし、N家の家長だけは変わっている。彼は新聞記者・・・仮にA新聞の記者としよう・・・である。彼だけは、こう主張するのだ。
「過去の歴史を反省し、C家とK家と仲良くしよう」と。
いったい、どこの味方だ。
***
これをもう少し上の社会階層に敷衍してみよう。あくまでも仮定の話。
ある国家があったとする。仮にN国としよう。
N国は経済的に豊かで、国民は平和に暮らしている。
近所に、ちょっと仲の悪い国家があったとする。
仮にC国とK国としよう。
N国、C国、K国とも、代々、この地に一族が住まうている。
C国は、60年くらい前にA国との間で起こったトラブル(すでに国際法上は解決済)をいまだにネチネチ言ってくるので、N国の人々を困らせている。すでに当時を知る者たちはほとんど他界しているというのに。
K国は、ことあるごとにN国と張り合おうとする。ちょっとでも気に食わないことがあると、国旗を複製して、それを見ている前で焼くのだ。怒鳴り込んでくることもしばしば。
N国は経済的に豊かなので、相対的に貧しいC国・K国からはたびたび妬まれてもいる。しかしC国・K国の困窮を救おうと、N国はC国・K国には度々、金銭的な支援をしている。
にもかかわらず、C国・K国はN国のことを「敵」としか思っていないのだ。そもそもC国もK国も、リーダー層以外、金銭援助のことを知らない。だから両家の家族は心底、N国を憎んでいる。
こんなこともあった。
N国はすこし離れた海上に先祖代々の土地を持っているが、そこに油田が発見された途端、C国が「ここはうちの土地だ」と騒ぐ。K国も「いや、うちのだ」と騒ぐ。K国に至っては、不法に占拠までしてくる始末。
N国の国民(ふつうの感覚をもったまともな国民)は、「もう、C国ともK国とも付き合っていられない」と日々頭を悩ませている。
しかし、N国を牛耳る「国民の代表」面をする自称「社会の木鐸」とやらだけは変わっている。仮にA新聞としてみよう・・・
彼だけは、こう主張するのだ。
「過去の歴史を反省し、C国とK国と仲良くしよう」と。
いったい、どこの味方だ。
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日中韓の関係をご近所づきあいに直してみると、こうなる。
それを擁護するのがいかに異常なことか、分かるというものだ。
もし自分自身にこのようなことがあっても、「隣人に配慮しよう」と書ける記者はいるのか?よくよく考えてみろってんだ。
◆まだまだ不況は根深いのだ
職場が駅チカのビルに移転した。
場所は伏せるが、かなり至便の地。しかも新築。
しかしテナントは半分しか埋まっていない。
かなり深刻な状況だと思う。
前政権までの売国的な円高政策が「正常値」に戻っただけで、はっきり言って内需はまったく回復していない。それを象徴的に表す事例だ。
政府のインフレ施策(高齢者への資産課税)には賛成なのだが、消費増税というデフレ施策(若年層へのフロー課税)を同時に行ってその効果を打ち消すというちぐはぐな経済政策は、どう考えても異常である。
どこかからの圧力と勘繰らざるを得ない。
何が言いたいかというと、老人が金を持っているのに使わない以上、ストック課税はどんどんやるべきなのだが(医療費増額よりはよほどスマートな資産移転の方法なのだ)、今ここでフロー課税を強化すると、完全に経済の息の根が止まる、ということだ。
繰り返すが、景気は微塵も回復していない。ちょっと街を歩けば肌感覚で分かることだ。見かけの数字など、為替次第でいくらでも操作できる。今までの円高が異常だっただけなのだから。
何度でも書くが、デフレ下でのフロー課税など、狂気の沙汰。聞いたことがない。はっきり言って、やったらただのバカである。もし「今」消費増税をしたら、円高を強行した売国政権よりも、もしかするともっともっと売国的なことになるかもしれない。
ここからは蛇足。「年1%ずつ上げれば影響が少ない」などとのたまう大馬鹿野郎がいるが、そのたびにシステムを変えさせられる企業のことを考えているのか?想像力の欠如甚だしい。
そういうなら、お前が全部やってみろってんだ。システムから案内まで全部変えるんだぞ?大混乱するに決まっているじゃないか。
◆「未来」はくるのか
「ドラえもん」の道具で実現しているもの。「ききがきタイプライター」=音声認識ワープロ、「糸なし糸電話」=携帯電話、といったところか。ほかはちょっと想像がつかない。タイムマシンはどこへいった。原作を読むと、2008年発明、とあるのだが・・・
昔の<未来もの>を読むと、少なくとも私の知る限りでは「パーソナルコンピュータ」「携帯電話」「スマートフォン」「タブレット」が登場しないので、さらにかつての「未来観」とずれてしまっているのが実感である。「大型コンピュータ」と「パンチカード」「トランジスタ」から、「スマートフォン」は確かに連想しにくい。そして、決まって「人口爆発」ときたものだが、実際は「老人過剰」「負債過剰」でしかなかったわけだ。
そう。かつてほど「未来」という言葉に甘美な響きはない。
「未来都市」といっても、昔SFで描かれたような「完備都市」ではなく、むしろ「不完全都市」というほうが実感としては想像しやすい。
もはや未来に、かつてのような夢はないのだ。「今よりよくなる」とは思えないが、「今より悪くなる」とも思いたくない。微妙な状態。逃げ道がないから、畢竟、うつ病患者も増える。
少なくとも確実なのは、「若者が老人の奴隷となる」社会。それだけだ。
よく言われる「若者の○○離れ」、はそのまま、「老人が全部搾取しているからだろ」という世代論にしかならない。あまりこういう未来論は読んだことがない。
現実は一番現実的、すなわち、冷酷なのであった。
◆思考の壁
こんななぞなぞがある。
「あるトラック運転手は、愛する息子から一度もパパとか、お父さんとか呼ばれたことがないという。なぜだろう?」
幼少期に「なぞなぞブック」のような本の「いじわる編」に書いてあったなぞなぞだが、いまだに鮮烈な印象を伴って覚えている。私は、己が想像力の未熟さを悔いたものである。
答えは、「母親だから」。
フェミババアあたりは、こういう問題に引っかからないよな。もし引っかかるんだとしたら、一遍生まれ変わるとよい。貴様も知らず知らずのうちに差別しているんだよ。
人間の常識の壁は、本当に厚く堅い。
公開:2013年8月4日