以前、「勉強は環境。勉強しろって言われないと勉強できない環境に置かれている時点で、すでに後れを取っている」というようなことを書いた。
これに加えて、今回はもう一つ。「勉強は、続かなかったら意味がない」ということを言いたい。もう少し正確に記すと、「継続することができない時点で、その分野では後れを取っている」とでも言おうか。
よく、「努力しても報われない」と人は嘆くが、正しくは「成功するまで努力できなかった」というのが正しい。それは努力の方向性が間違っていたのかもしれないし、努力の絶対量が不足していたのかもしれない。あるいはそもそも、そこはその人にとって努力すべき分野ではなかったのかもしれない。いずれにしても、「成功」とは「正しい努力」の蓄積によって得られるものなのである。少なくとも凡人にとっては。
蓄積とは、すなわち継続のこと。継続とは、つまりは努力のこと。「石の上にも三年」「転石苔を生ぜず(日本での意味)」というのは、けだし名言なのである。
ちなみにこう書くと必ず、「生まれつきの境遇や途中の不幸で努力したくてもできない状態の人がいる」と反論されるのだが、私が書いているのは一般論だ。
例外を取り上げて一般論を論うのを、普通、詭弁という。
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「学歴フィルター」というのが話題になることがある。これは「公然の秘密」というやつで、当たり前だが普通に存在する。
そこで出てくるのが、「勉強だけできてもバカがいるじゃないか」という話。
例えば実際に、「勉強のできるバカ」は存在する。以前にも書いたが、ある超難関資格を取っている人間を知っているが、ソイツは、性格的にはどんなにおだやかに表現しても、「ぶっ○したくなる」ほど失礼な野郎である。心底、バカだと思うし、社会人としては使えないだろう。
ただ、これはあくまでも「そういうヤツ」というだけの話。「勉強だけできてもダメなやつはダメ」なのだが、肝心のポイントは、誰も「勉強ができなくてもいい」とは言っていないのである。
ここを勘違いして、「学歴フィルターの存在」=「勉強さえできればいい、というメッセージ」と捉える向きもあるのだが、そうではなくて、「学歴フィルターの存在」=「勉強くらいできていろよ、というメッセージ」にすぎない。
学歴フィルターの本質は何か。それは、「勉強ができること」・・最初に戻ると、「継続して何かをできること」を表している指標である。
勉強とは、「環境」と「継続」の乗法なのである。
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「環境」とは読書(自習)であり、能動的な学びの姿勢が家庭内で担保されていること。
「継続」とは学習習慣であり、結果を出すまで学び続ける姿勢が個人のうちに担保されていること。
「環境」と「継続」は「結果」のための欠かせない条件なのである。
この式において本人の「素質」なぞは、実はあまり問われないのではないか(関係あることはもちろん承知の上で書いている)。
公開:2013年7月27日