●「ぶりっ子が嫌い系女子」
ぶりっ子が嫌い系女子の言い分は、「ぶりっ子を見ていると、絶対(キャラを)作ってるだろ、と思っちゃう。でも、男子はそんな女に騙される。馬鹿みたい」って。
でも、男子は基本的にバカだが、それでも別に十把一絡げにぶりっ子が好きなわけではないぞ。
「ぶりっ子していると知っていて分かっているけどやめられない」系男子がぶりっ子に靡くのであって、別にすべての男子が「ぶりっ子が好き」というわけではない、というか。
このあたりの機微、分かっていただけると世の中はもう少しスムーズに動くんだと思う。
で、結構「ぶりっ子が嫌い系女子のツンデレなところが好き系男子」、というのもいるわけで。だから、「ぶりっ子が嫌い系女子」はそのあたりをもっとアピールするといいですよ。っていうか、その一人が私です。だいたい、これまでに好いた女性はこの属性なのだ。
もっとも、それは私がMっ子だからだろうか。
しかし半面、「ぶりっ子していると知っていて分かっているけどやめられない」系男子でも、私はあるわけですが。やめたいけど、やめられない、っていう中毒的心理はあるんですね。不思議なものですね。
「押すな」ってボタンは、男子にとっては永遠の「押せ」なんですよ。
●「ウォーターサーバー商法」
「2等が当たりました!おめでとうございます!」ってやつ。ホームセンターやスーパー銭湯などでくじ引きをして、「1等 テレビ 2等 ウォーターサーバー 3等 ティッシュ、駄菓子」みたいな感じでやってるやつ。
1等当たらないの。2等しか当たらないの。しかもその2等、当たったっていっても仕込みなの。カモっぽい人に2等の券を開けさせるの。
2等って微妙に嬉しいの。だからその高揚感で、「ウォーターサーバー設置無料」って言葉に惹かれるの。
でも、設置は無料でも、水は有料なの。しかも一定量が毎月届くの。だいたいが1年縛りとかで、途中解約するとお金取られるの。
だったら初めから、「ウォーターサーバーは水の会費商売です」って言えばいいと思うの。「富士山の水を1年間、毎月2000円でお届けします」って新聞広告したほうがむしろ申込が多いような気がするの。
同じことだもん。
もし引っかかったら(←水を飲みたくない人向けの表現。毎月飲みたい人はご自由に)、クーリングオフするといいの。
クーリングオフは自分でできるの。簡易書き留めで送ればいいの。
書き方はググればあるわよ。
・・なんでこんなに詳しいかって?
引っかかりそうになったからじゃないの!
「自分は絶対に引っかからない」ってアナタ、一番危ないわよ!
●「勉強だけできてもねぇ・・症候群」へのかなり口汚い反駁
よく、「勉強だけできてもね・・」って言うじゃないですか。これ、その通りなんですよ。
さらに、「答えの決まっている勉強ができても、それ以外のことができなかったら・・」って言いますよね。これも、その通りなんですよ。
反対に、「勉強はできないけれど・・」とか、「答えの決まっている勉強はできなくても、それ以外のことが素晴らしい」っていう人もいますよね。これも、その通りなんです。
例外はどんな世界にもありますから。
ある難関資格を持っている奴を知っていますが、ソイツの人間性は蛆虫のクソ以下ですしね。初対面の人間に「あんた」呼ばわりを平気でするので、頭が一回りして狂ってるとしか思えない、とか。
まあ、その逆もあるでしょうね。
こういうのは例外ですけれど。
繰り返します。「勉強はできるけれどねぇ・・」という要素は確かにあるんです。
ただ、「答えの決まっている勉強"すら"できない」ことを擁護する必要性も私は感じないんですね。
大人は、むしろ「答えの決まっている勉強"くらい"できろ!」と子どもを叱咤するべきなのではないか、と最近すごく思うのです。
「♪ナンバーワンになるつもりがないなら、オンリーワンの才能もない癖に もともと無個性のお前らがオンリーワンなんて ププ」っていう歌、流行しないかな?
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今の大人、敢えて言わないんです。「勉強しろ」って。
「勉強することが実はとても大切なことなんだ」って教える家庭とその子どもたちが、将来の利益を独占し、圧倒的大多数の愚民から搾取する経済構造を維持するためにも、敢えて今は言わないんです。
もはや「勉強しろ」っていうのは一部の層にとっては死語かもしれません。格差は固定され、格差内での身分維持のために過当競争が完全に「悪」になっています。おまけにパイのおいしい部分は縮む一方ですからね。「勉強しろ」が大人の文句でなくなった今日この頃。
ああ・・でもこれも嘘がありますね。きれいにまとめすぎた感。
本当はね、もうぶっちゃけると、環境の違いなんです。「勉強しろ」って言わないと子どもが勉強しない環境になってしまっている時点でもう、厳しいんです。これ、誰も言いませんがね。
本当に勉強ができる人って、自分からやるんですよ。
試しに、周りの「勉強好きだな」って思う人に聞いてみてください。親から「勉強しろ」って言われ続けて育った人、存外に少ないはずですから。
勉強しろって言われたってしないですよ普通。だって、学びという行為は、本質的に自発的なものなのですから。自発性なくして学びなし。強制の学びに意味はないんです。そんなの洗脳と一緒ですから。
「勉強しろ」って言われずに子どもが勝手に勉強する家庭環境を作れる層が、結局は支配層になっていくんです。これに気づくか気づかないか。
もうはっきり言います。「勉強しろ」っていう前に、自分がやれよ、姿見せろよ、って話なんです。実は。
どんな塾もここまで言いませんよ。本当のことを言ったら嫌われるもの。でも、そういうことなんです。「学びは環境」なんですよ。どんなに子どもの尻叩いても、「テメエが率先垂範しなかったら無駄だよ」って。絶対に誰も本当のことは言ってくれませんけどね。
あー、だから、任せっぱなしは最悪。次に、干渉しすぎるのも逆効果なんです。「学びは自発的行為である」のですから、「どうやったら自分から学ぶようになるか」を追求するのが大人の役目。自発的行為に結びつかない学びは身に付きません。
よしんば最初は強制だったとしても、いつか「学びが好き」になっていなければ、本当に身につかない、これは間違いないんですね。感覚的には、「つ」のとれるくらい、要するに「9つ」→「10さい」くらいで勉強が嫌いになっていると、なかなか厳しいでしょうね。例外はありますが。
さて先ほど、諸々「環境で決まる」と書きました。もっと具体的に言いましょう。読書好きの子は、家にたくさんの本があるんです。親が日常で本を読んでいるんです。これがすべてです。
本を読まない親が、「本を読め」って子どもに言ってもそりゃ読みませんよ。勉強と読書、「自発性」という意味できわめて親和性があります。率先垂範して読書をしましょう。そして、「読書させる」のではなく、「読書をしたくなる」ように仕向けましょう。これが、将来のリーダー育成の第一歩です。
もちろん「鳶が鷹を産む」の例外もありますよ。
何事も例外はあります。
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本筋でいえば、「勝て。勝てば官軍じゃ。建前では『平和』と言っておけばいい。本音ではとにかく勝つのじゃ。」くらい言う教育もあっていいんですけどね。なかなか、ないなぁ・・・。
公開:2013年5月24日