●「問答無用」という価値観
2013年の大河ドラマ『八重の桜』の初回タイトルは、会津藩校の「什(じゅう)の掟」からの引用、「ならぬものはならぬ」でした。そこでハッとしたのは、この「ならぬものはならぬ」という考え方であります。
会津藩校の「什の掟」は、現代社会の「しつけ」においても十分に通用する文句であると思います。
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
(参考:会津藩校日新館ウェブサイトより)
もちろん、最後の「女と口を利くな」など、現代にはそぐわない文言もあるわけですが、それは時代が違うだけの話。おおむね、この価値観は時代が変われども、首肯すべきことのように思われます。
ここで一番大切なことは、「ならぬことはならぬ」と言い切る、確信に満ちたその迫力にあります。問答無用で、「ならぬことはならぬ」―そういって、子どもに強くしつけができる価値観が、現代にありましょうか。
(親世代も含めて)なんでも与えられ、何不自由なく育っている現代っ子に、この「ならぬことはならぬ」という言葉が通じるのでしょうか。非常に空恐ろしい気持ちがしてくるのであります。
●テレビ還暦
テレビは60歳ですか。人間でいうと還暦ですね。企業でいうと、定年ということになります。
視聴率の低迷、コンテンツの魅力低下、若者のテレビ離れ・・と、現象面では明らかに斜陽の様相を呈しているわけですが、その圧倒的影響力はもちろんのこと、そもそも強大な護送船団式規制産業である業界ですから、経営面ではまだまだ持ちこたえることでしょう。
まあ、このままいきますと、人間に例えるならば、「組織に影響力だけ残す老害」あるいは「若者にいちいち文句だけつけてくる加齢臭のするクソジジイ」・・で終わってしまうような雰囲気があるのですが・・
還暦を機に、あらたに生まれ変わってくれるといいなと、純粋に「本来の」テレビが嫌いではない私は思います。まぁ、今日もある番組を見ていたら無理やり某国のアイドルゴリ押しを(いまだに)やっていたので無駄な願いだとは確信しましたが。
●「客を選ぶ」という発想
「客なだけで偉い」と勘違いしている馬鹿野郎が多すぎるのは何故だろう。
日本には「おもてなしの心」というのが、ほぼすべての日本人に浸透しているものだから、「客はもてなされて当然」というふうに、ついつい勘違いしそうになる。しかし、突き詰めて考えれば、ここまで「おもてなしの心」が人々に深く根付いているのは、そもそも「お互い様」という根本精神があるからこそなされてきた所業であるのだと気づく。
自分が相手(客人)に尽くすことで、相手(客人)が喜んでくれる。客人が感じたその喜びは、次の人(その客人にとっての客人)への「おもてなし」につながって、やがてその喜びが連鎖していく・・というのが、「おもてなし」の本分であろう。すべては、お互い様なのだ。よい行いは、回りまわって自分のところに必ず帰ってくる。「情けは人の為ならず」ともどこかしらつながる精神構造である。
ところがバカは、「客人は尽くされるものだ」というところで思考がストップしている。ある行いが、「まわりまわって自分のところに帰ってくる」という思考は、夢にも考えない。「客人は尽くされて当然」・・そこで思考はストップしているのだ。
よい行いは連鎖するが、悪い行いも同様に連鎖する。よい客を集めればよい店になっていくが、「客は偉くて当然」という悪い客を集めれば、悪い店になっていく。
だから、店にとって悪い客は「入れない」のが理想であるし、そもそも商売をする側も、「客を選ぶ」ことは自由なのである。これは、クレームを防ぐための要諦でもある。
「貧すれば鈍する」という言葉があるが、本当にその通りで、お金に困って「どんな客でも来ればいい」という発想で、採算度外視の破格の値段で客を呼び込めば、結局はその程度でしかサービスを受けようとしない底辺の客しか集めることができなくなる。そのサービスを受ける層の民度が低くなれば、これまでは考えられなかったような些末なクレームも増える。畢竟、そういう客に向けての商品開発や顧客対応に経営のリソースが割かれていくから、どんどんとそのサービスの魅力は低下して、却って儲けを少なくしてしまうことになる。遠からず、従業員の質も低下して、やがて大事故・大事件を引き起こすことだって否定できないのである。
このフレームワークは、あらゆるサービスに言えることだ。
商売の構造とは、単純化すると、<ターゲット層に対して、事業者が比較優位(ターゲット層が比較劣位)にあるサービスを提供(仲介)することを通じて、原価以上の対価を得る(利益を得る)ことを目指す仕組み>ということになる。
ここでもっとも重要なのがターゲット層の設定で、そもそもここの前提が狂ってしまえば、事業者の比較優位性(事業戦略)も大きく狂うことになってしまう。
「原価以上の対価を得る」というのは結果である。ここにとらわれ過ぎて、目を曇らせてしまっているケースは意外と多い。ターゲットを見誤れば、利益以前の問題で「客が来ない」のである。
商売の本質は、あくまでも「事業者が(ターゲット層に比べて)比較優位にあるサービスを提供する」というところにあることを忘れてはならない。なぜならば、商売(通貨流通)のルーツは、物々交換にあるからだ。
山人にとっての比較優位である「獣」と、海人にとっての比較優位である「魚」を交換することと、現代の商売の基本構造はまったく変わっていない。
あくまでも、「相対するターゲットにとっての比較劣位を抽出し、サービス提供者が行い得る優位なものをサービスとして提供する」という前提においてのみ、事業戦略は構築されるべきなのである。自ずと、それが利益につながっていくからだ。
この話で行くと、例えば某ファストフードチェーンが苦境にあえいでいるのは、下流工程である「利益を得る」ことを重視し過ぎた結果、「値下げ」「値上げ」を繰り返して、ターゲット層を不明確にしてしまったところにもあるように思える。
デフレの先陣を切った「値下げ」の結果、想定していた以上に客層が悪化したことは想像に難くない。客単価も大幅に下がったのだろう。慌てて高級路線に舵を切り、「値上げ」をしたところで、すでにそのチェーンは一般的には「DQNのたまり場で高級路線だなんて」というイメージを持たれたとしてもおかしくない。
私の経験上も、比較的スモールビジネスの話にはなるが、「成功している事業主」と「うまくいかない事業主」を比較していると、明らかに前者は「客を選ぶから、客からも選ばれる」という好循環を達成しているのに対し、後者は、「客を選ばないから、客からも選ばれない」という負のサイクルに落ちてしまっていることがわかる。
成功する事業主には、明確な「事業のイメージ」がある。それはターゲットの明確化によって、事業主自身の経営戦略(どんなサービスを/誰に/どのように提供するか)がみえているということだ。ひと昔前の言葉でいえば、ビジョナリーな経営を(意識的か無意識的かは別として)行っているのである。
そういう企業にはある種独特なカルチャーがある。そのカルチャーを要約するならば、「弊社の方針になじまなければ、別に我々はあなたに客になってもらわなくても構わない。でも、弊社の考えになじむのであれば、我々は全力であなたの生活を応援する用意がある」という「意思」とでも言えようか。
ここで敢えて社名を出すと、例えば任天堂やアップル、かつてのソニーには「信者」(※)という現象がみられるが、まさにこれは「客を選ぶから、客からも選ばれる」典型であろう。
(※)「信者」を獲得している企業は、アーリーアダプタをはじめから獲得しているのと同じである。こういう人たちの購買行動をみて、自然とフォロワー層、浮動層もついてくるから、その会社のサービスは加速度的に広がりやすいという点も付記しておく。
一方、うまくいかない事業主には、明確な「事業のイメージ」というものがない。そもそも「利益を出したい」というところから出発してしまっているから、ターゲットが明確化していないことも多い。仮にターゲットが見えていたとしても、事業主自身の戦略は不明瞭である。古臭い言い方をすれば、「ビジョンが見えない」のである。
そういう事業主によくあるのが、とにかく客の意見を聞くことが大切、と八方美人になりすぎているケースである。もちろん、客の意見を聞かずに商売をすることは不可能で、独り善がりは商売上の最大の害悪になり得るけれども、それは「客の言いなりになる」ということではない。この塩梅を間違えると、「言いなり」に甘える客が増え、ターゲットの質を低下させ、自滅することになる。
言いなりになるのは事業のイメージに自信がないからである。事業のイメージが明確であれば、それに反することに対してははっきりと「NO」と言える。虚心坦懐に顧客の意見を聞くことと、顧客の意見に従って事業を進めていくことというのは、まったく似て非なるものである。
私はこれまで、顧客からの苦情を直接受けることもあったので、自分なりにその内容と対策を分析してきた。
そもそも、クレームには4種類ある。「こちらが悪いとき」「誤解が生じているとき」「理不尽なもの」「こちらの事業方針と違(たが)う要望を受けたとき」である。
もっとも判断に迷い、かつ、今回の議論の主題である「客を選ぶ」に関わるのは最後の「こちらの事業方針と違う要望を受けたとき」なのだが、まずはそれぞれみてみよう。
・「こちらが悪いとき」
誠心誠意謝り、次に活かす。当然である。
・「誤解が生じているとき」
誠心誠意説明し、次に活かす。「伝わるべきことが伝わらない」のは大いに反省する。
・「理不尽なもの」
そもそも、相手にする必要がない。表向きには謝るなり何なりアクションを起こすことはあっても、基本的には無視するしかない。理不尽な奴は、客ではなく地球外生物として扱えばよい。
・「こちらの事業方針と違う要望を受けたとき」
これは一見、クレームには思えないことがある。しかし日常においてもっとも多くの人々が接し、悩み、何とか対応しているのは、これではないか、と思うようになってきた。
以下は、この議論をしていこうと思う。
ちなみに、この場合の最適解は、「堂々と断る」の一点に尽きるというのが私の結論である。そして、この「断る」というところこそが、今回長らく議論してきた「客を選ぶ」要諦なのだと気づいた。
簡単な例を出そう。たとえばとんこつラーメン店で、「塩ラーメンを出せ」と言われれば、店主は断るだろう。野球場で、「サッカーの試合を見せろ」と言われれば、チケットの売り子は断るだろう。
実はこういう単純な話を私はしようとしているのだが、現実はもっと複雑だ。例えば、こんなケースはどうだろうか。
○観光地のコンビニ。中年の男性観光客が店員に、何も買わないにも関わらず、「△△ホテルへの行き方を教えてくれない?」と聞いてくる。
○5教科を教えている個別指導の補習塾。保護者が慌ててやってきて、「明日、技術・家庭科の中間テストがあるんだけれど、その対策も一緒にやってくれないかしら?」とお願いしてくる。
○閉店時間は22:00のドラッグストア。シャッターをしめようとしたところ、22:01に駆け込んできた中年のおばさん。「買うのはクリーム1個だけだし、ちょっと買わせてくれない?」
・・・「これぐらい、サービスとしてやるのが当たり前だろ」と思っているのだとしたら、相当、「お客様は神様教」に毒されていると思ったほうがいい。あるいは、日本的やさしさに甘え過ぎだろう。
実際は、これくらいのサービス、日本に住む人間であれば普通に享受できるのだと思う。でも、これを「当たり前」と思うほどに甘えてはならない。自戒を込めて書く。
そもそも、コンビニは別に交番ではないので、何も買わない奴に道など教える必要はない。個別指導の補習塾も、5教科を対価をもとに教えているのだから、専任以外の教科を―それもよそのガキの―をプラスアルファでみる義理はない。そして効果があるのかないのかわからん安物のクリームを買いに来たババアのためだけに閉店時間後に店を開ける義務など微塵もないのだ。
実際は、これらサービスを断ると、こういう結果が待っているのだろう。
○コンビニの場合:「なんだよ!道くらい教えろよ」と悪態をつく。
○塾の場合:「それくらいやってくれたっていいじゃないのよ」と捨て台詞を吐く。
○ドラッグストアの場合:「何よケチ!もうこのお店では買わないから!」と怒鳴る。
しかし、本当は、サービスは対価において生じるという原理原則を踏まえて対応することが、長期的スパンではその店の為になることは間違いない。
コンビニであれば、「金も払わずに色々と要求してくる客」を減らせる。塾であれば、「指導項目以外をわざわざコストをかけて指導することを要求してくる客」を減らせる。ドラッグストアであれば、「閉店後にやってくる客」を減らせる。
この逆をやると、
○コンビニの場合:過剰サービス要求に従業員が疲弊してしまい、人材の流出がはじまる。採用難、もしくは採用単価のアップで経営にも影響が出るようになる。
○塾の場合:過剰サービスを受け入れてくれたことが口コミで伝播し、「うちにもやってほしい」と言われるようになる(し、断れなくなる)。塾は一般的に稼働率商売(箱にいかに詰め込めるか)だが、今回の例のような個別指導の場合はここに「回転率」(箱の効率性)も加味されるから、余計なことをすることによって回転率は低減し、その累計で経営効率の悪化が避けられないことになる。
○ドラッグストアの場合:「ちょっと」の時間外営業が常態化すると、店員の疲弊はもとより、ルーズな気持ちが伝播し、規律の乱れが目立つようになる。結果として人材流出はじめ経営への影響はじわじわと増大していく。
日本の客は一般的に、日本のサービス提供者の「厚意」にかなり依拠している。もちろん、それは「お互い様」の部分ではあるのだが、そろそろ、この「当たり前」が本当に「当たり前」なのかは考え直したほうがいいように思えてならない。
それは、この「当たり前」を、「顧客の当然の権利」と思い込み、「客なだけで偉い」と勘違いしている層が、着実に増えてきているからである。
残念なことだが、そろそろ、サービス提供者は「断る」ことで「よい客を選ぶ」時代に入ってきているということだ。
一億総中流の時代は終わった。民度の二極分化も著しい。そんな時代、「よい客を選び、よい客に選んでもらう」ターゲティング戦略が必要なのである。
●九段下駅の壁の撤去よりも、新宿線の全車「10両編成化」が先だろう
東京メトロと都営地下鉄の「経営統合」へ向けた象徴と言われているのが、東京メトロ半蔵門線と都営地下鉄新宿線九段下駅との間を隔てる、通称「バカの壁」撤去工事です。
年度末にはマスコミによって、多大に「これで不便が解消される」と喧伝されることでしょう。都知事もホクホク顔で、「これで経営統合へ向けた第一歩が記された」と高らかに宣言するでしょう。
それはそれで構わないのですが、もし、そこで報道が終えられたのだとしたら、その報道機関の取材力を疑うほかありません。
なぜならば、身も蓋もない話をすると、これは半蔵門線⇔新宿線で乗り換える客「だけ」が得をする話だからです。新宿線や半蔵門線を利用する圧倒的大多数の利用客にとっては、それほど恩恵がない話です。
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九段下駅を通る東西線、半蔵門線は全列車が10両編成ですが、新宿線はいまだに全車10両化が達成されていません。8両編成の車両がラッシュ時にも平気な顔で投入されており、利用客には大変な不便を強いています。
おまけに、8両車にも無理やり「女性専用車両」を組み込んでいるのが大きな仇となっています。新宿線の女性専用車両は先頭車両に配置されていますが、新宿線の主要な乗換駅である上、ホームの端に出入り口があり、さらに8両車がホームの端まで停車することがない「馬喰横山」「市ヶ谷」などでは、男性が8両車を利用する場合、階段から都合「3両編成分」(※)も移動する必要が生じ、危険な駆け込み乗車を行うケースが後を絶ちません。
(※)編成が2両足りない分と、女性専用車1両の合計3両。1両20メートルなので、都合、ホームの端から最低でも60メートルは歩かされる計算になる(徒歩で40秒のロス)。「朝の40秒」を想像していただきたい。
結果的に、列車の遅延も起こりがちです。こちらの方が、よほど早急に解決すべき事案だと私は思います(せめて女性専用車は2両目に配備すべきだと私は提案したいのですが)。
新宿線は、10両車が4編成しか配備されておらず、残り28編成はすべて8両での運行です(※都営直通の京王は原則全車10両車)。
ちょっとの乗客のためにしかならない「壁」を取り除くよりも先に、同じお金を使うなら、56両を新造し(1両1億円とすると56億円もかかりますが)、「全車10両化」することのほうが、よほど乗客のためになるのに・・と思います。
ま、それは「経営統合の宣伝」にはならないですから、すすんでやらないのでしょうが・・。
もっとも、「10両化」の準備を進めているという話は聞きます。ただ、もしこの壁の工事が行われたことによって「全車10両化」が遅れているのだとしたら、こんなにバカな話はないだろう、と思うのです。こういう背景も報道してこそはじめての「マスコミ」でしょう。もし、都の都合しか報道しないニュースがあったら、そこの取材力を疑うほかありません。
公開:2013年2月11日