これまで100人くらいの個人事業主を見てきて、「うまくいく人」と「いかない人」の共通点というのがおぼろげながら見えてきた。<経営センス>とでもいうものか。
偉そうなことは言えないものの、これは個人事業のみならず、大会社の経営ひいては人生の経営、果ては子どもの教育にも応用できることがある、と思いついたのでメモしておく。
(1)うまくいく組織は、リーダーが自責主義。
ダメな組織は、例外なく、その長が構成員のダメなところばかりを取り上げ叱責ばかりしている(他責主義)。「業績が悪いのは、○○が悪いからだ」と、責任を他に転嫁してばかり。
これでは、構成員の誰もがリーダーの顔色をうかがうことになって、風土がどんどん萎縮していく。だから、業績は右肩下がりになる。
そうではないのだ。業績が悪いのは、すべて経営者の経営管理能力のせい。
だから「経営」者と言うのである。
リーダーが責任をとれない組織は、自ずと腐っていく。
しかし「業績がいいのは、従業員のおかげ。業績が悪いのは、自分のせい」とズバッと言い切れる経営者は、いったいどれだけいるのだろうか。
(2)うまくいく組織は、ミスを「あるもの」として動いている(リスクマネジメント)。
ダメな組織は、例外なく、無謬主義に陥っている。「どんなミスも認めない」「そもそもミスを起こさない(つもりだ)から、ミスへの対処も想定しない」という状態である。
もちろんミスは99.9..%の精度で失くすに越したことはないが、人間が行うことである。
いつか絶対にミスは起こる。
「安全」であったはずの高速道路は倒壊したし、原発も言わずもがな。
ミスや危険は常に私たちと隣り合わせであって、それを「ないもの」「起こり得ないもの」とすることが、回りまわって結局は一番危険なのである。
「ミスが起こってはならない」という発想も、実は同じことである。
精神構造的には、「軍隊をなくせば、世界はヘーワになる」「女性専用車両を作れば、女性も男性も安心」「禁煙範囲を拡大すれば、嫌煙者は満足」「冤罪があるから、死刑はダメ」と同じこと。これらはすべて「臭いものに蓋」をしただけで、実質は何の解決にもなっていないのである。「思考停止」というやつだ。
起こってはならないのだが、絶対に起こるのがミス。
本来、ミスは「起こるもの」である。だからこそ、「起こるかもしれない」そのミスが起こった時のことを常に想定して動かねばならないのだ。
先述の「他責主義」と同じなのだが、ダメな組織は、ミスを責める。起こってしまったことを責める。しかし、そんなこと、サルにでもできるのである。
うまくいっている組織は、ミスが起こることを想定して動いている。これは一番難しいが、これこそがリスク管理の要諦だろう。
そもそも「何かが起こり得る」可能性は無限である。その中で、「起こり得る確度が一定程度高いこと」を想定して、それを抑止ないし防止するために動くのである。そういう風土では、ひとたびミスが起こっても、「次にどうすればよいか」という発想につながりやすい。だから、組織は確実に成長していく。
これができているか、できていないかは、「何かが起こった時」に大きな強みを発揮する。そしてその「何か」は、まさに今、1秒後に起こるかもしれないのである。
(3)うまくいく組織は、仕事のための仕事をさせない。
ダメな組織は、例外なく、その業務に「仕事のための仕事」が混じっている。
よくある「報告のための報告」「会議のための会議」などが最たる例だ。
分かりやすい実際のケースを挙げよう。
ある組織は、上層部と一般従業員(特に営業職)との間にコミュニケーション・ミスが目立つことが経営的な課題となっていた。それを打破するために、全社的な報告システムを導入したが、現場は忙しくてそれを活用している時間がない、という状態が続いていた。
そこで経営側は、社員の業績評価に「報告システムの使用頻度」を取り入れた。「報告システム」をたくさん使った社員を優遇し、使わない社員を冷遇する措置に出たのだ。
当然、その効果は覿面で、社員の<報告の回数>は激増した。上層部にとっては非常に情報を吸い上げやすい状態となったのである。
しかし、その弊害が出てきた。
まず、大前提として、「報告」そのものには何の生産性もないことを指摘しておきたい。経営が報告を求めるのは、利益を最大化する経営判断に活用するためであって、必要な情報が報告から取れなかったら、経営陣が現場を見て判断することが大原則である(現認主義)。「報告」とはそういう性質のものだ。事件は現場で起きているのだから。
そして簡単に考えて、報告の「回数」が増えても、その分ノイズ(余計な情報)も増えるので、報告の質が上がるわけではない。当然ながら組織としての効率性は低下する。したがって「頻度」を問うことそのものは、まったく意味のないことであるとすぐに分かる。
報告そのものに価値はない。そこに価値づけするのは経営者だ。しかし、報告の「数」だけを単純に求めれば、「骨折り損のくたびれ儲け」になることは目に見えている。
あえてきつく言えば、馬鹿でも分かることだが、「報告の数を求める」ことなど、「労多くして利少なし」の愚行なのだ。その「馬鹿でも分かる弊害」が現実のものとなってしまったのである。
具体的に書くと、これまでは片手間でしかなかった報告作業そのものが、「仕事」となっていったのである。それも徹底的に現場を疲弊させる仕事に・・・。
数字を稼ぐべき営業に、まったく生産性のないことを仕事として与えるとどうなるか。結局、時間は有限なので、本来の営業の時間が削られていくことになる。
数字を稼いでくれるエース級の営業職も、"報告をしなければ評価されない"とあっては、たまったものではない。本来は営業活動に充てられるべき時間を「報告書の入力」に充てるようになるのは当然の成り行きである。
結局、その組織はわずか1年で業績を著しく下げることとなった(ついでに書いておくが、業績が下がり出すと、その理由を上司がその上の上司に体よく報告する必要が生じるため、さらに報告の量が増える―という負のスパイラルに陥っている、らしい)。
そもそも、下から必要な報告が上がってこない組織というのは、だいたい2つの構造的な問題を抱えているものである。
第一に、現場が忙しすぎること。要するに人材配置・業務分配どちらかまたは両方のミスである。
第二に、経営陣が適切なフィードバックをしていないこと。部下Aの行ったA'という行為に対して、上司BからB'という行為が返ってこない―つまり適切な「見返り」「報酬」がなければ、Aはやる気をなくすのは当然である。Aは機械ではないのだから。
そしてだいたい、硬直化した組織は「吸い上げる」仕組み、「共有する」仕組み、「上意下達」の仕組みのいずれかまたは全部が機能していないのである。
ということで、これも結局は「報告をしないお前らが悪い」と考えている経営の他責主義がもたらす害悪なのであった。本来ならば単純に、「報告をしたくなるような状況をつくってこなかった経営のミス」「知りたいことがあったらまず経営から動け」なのである。
自分たちでつまらないルールを作っておいて、結局業績を悪化させているようでは、何のために報告のシステムがあって、何のために報告をさせているのか意味不明である。
人間、誰しも「楽しいこと」をしたい。
こういう例を見ても明らかな通り、仕事のための仕事は、本当に「つまらない」。
仕事なのだから「大変なこと」は我慢せねばなるまいが、それでも、このケースのように、<豆をA皿からB皿へお箸でつまんで移し続ける>ような、<つまらないこと>や<本質的な意味のないこと>、<生産性の感じられないこと>にやる気を出す人間などいないのである。そもそも、「つまらないこと」は続かない。
しかし、「自分たちで決めたルール」に自分たちで縛られて苦しんでいる、
<自縄自縛組織>の多いこと、多いこと。
そして悲しいかなこういう例は、私たちの"身近"にもたくさんあるのだ。
○似非環境活動家に騙されて、ゴミの分別をしまくった結果、<ゴミを分別すること>そのものが部署のミッションになってしまったり(今の焼却炉は性能がいいので、変に分別して埋立ゴミを増やすより、ある程度は超高温で燃やしてしまったほうがはるかに効率がよい)、
○エココピーだと抜かしてコピー用紙の裏紙を使った挙句にコピー機を詰まらせたり(インクの無駄遣いのほうがよほど環境に悪い)、
○ノー残業と騒いで風呂敷残業を増やしたり(社員の健康や情報漏洩のリスクを考えると風呂敷残業の常態化は危険極まりない)
・・・と挙げればキリがない。
うまくいっている組織は、基本的にルールはシンプル。
「基本的な考えは決めた。あとは自分で考えろ」という風土が徹底している。
ある組織の、
「6月から9月末まではノーネクタイ勤務も可とする」という1文だけの通達を読ませてもらったことがあるが、これで十分なのである。あとはふつう、常識において判断するからだ。
これを、硬直化した組織が「仕事のための仕事」にしてしまうと、
「6月1日から9月末日までは、ノーネクタイにおける勤務を可とする。ただし、以下の場合・・・
1)外部の顧客と接触するとき
・・・
22)・・・
は、ネクタイを着用すること。
なお、上記の場合でも、やむを得ないと上長が判断した場合はこの限りではない。
また、これに該当しない時季においてノーネクタイ勤務を行う必要が生じた場合は、上長の判断の上、書式○○の申請書を総務部に提出し、予め届出をすること」
などというトンデモなことになりかねない。
要は、「えんぴつ1本に稟議書が必要な組織」と
「文房具は各人の判断でざっくり清算してよい組織」とでは
どちらが効率的に業務を遂行できるか、という話である。
***
ここまで書いてきて、根はやはり1つだな、と感じた。
それは、「どこまで相手を信じられるか」ということだ。
「悪いのは相手ではない、自分だ」と思えるかどうか。
ここに気づくか否かで、組織の成否は大きく変わっていくように思う。
従業員を悪く言う経営者は、結局、その従業員も場合によっては「お客様」であり、
組織を取り巻くステークホルダーたり得るという意識を欠落させている。想像力不足なのだ。
個人事業、会社経営かかわらず、この部分の「センス」は、
組織の成長を考えるうえで大きく問われるポイントであると思う。
そして、これは人生の経営(セルフマネジメント)においても同じであろう。
○原因は常に自分にあるという思考をしているか(自責主義)、
○いつも「どうやったらミスを起こさずに立ち回れるか/ミスが起こったらどう対処するか」という準備が整っているか(リスク管理)、
○「自分で決めたルールを状況に合わせて変えられる柔軟な思考ができているか」(自縄自縛からの解放)
―これらを挙げてみると、どこぞやの自己啓発本を合わせたような言質の完成である。
また最初に書いたように、以上は、子どもの教育も同じことが言えよう。子どもの成績の責任者は、やはり保護者だ。「ほめて育てる」「いいところ探し」というのは、甘いようでいて実はとても厳しい言葉なのだ。
要するに、「成績が悪いのは、親が・・・」ということを言っているからだ。「どうして○○ができないの!」という言葉は、そっくりそのまま、「どうして○○ができないように育てたの!」という言葉になって返ってきてしまう。しかし、子どもを責めたところではじまらない。本質的に、子どもは悪くない。自責主義でいかねば、子どもはつぶれてしまう。
そこからの敷衍で、ミスを責めるのではなく、どう「ミスをリカバーするかが重要」というのも経営論と類似しているように感じる。
そして、「自縄自縛からの脱却」が重要、というのも経営論と酷似している(例;無理に塾に入れて義務教育期の受験を何とか通したものの、学校についていくのが精いっぱいで、また塾に通わせる必要が生じ、親子が精魂ともに疲れ切っている。要するに子どもの実力を判断して適切な軌道修正をせず、「○○ありき」で動いたための状況)。
***
ここまでを1行でまとめると、
「悪いのはすべて自分です」ということに行き着いた。
これぐらいの気持ちで事業に向き合っている人がリーダーの組織は、やはり強い。
そして、そういう経営マインドを構成員1人1人が持っている組織は、もっと強い。
公開:2012年12月16日