2012年10月アーカイブ

朝起きたら、どこからともなく『Newスーパーマリオブラザーズ』の軽快なメインテーマが聞こえてきた。
「♪タラタラッ タッタッタラー タラタラ タッタタラー」

最近、『Newマリオ2』のコイン集めにドハマリしていたので、ついに幻聴が聞こえたか、と心配になった。しかし、それはピアノの音だった。下の階の子どもが一生懸命練習しているのだ。

マリオ。古今東西、世代を超えて楽しまれるキャラクタである。

「赤いオーバーオールを着た配管工のおっさん。」
「キノコを食べるとデカくなり、コインを集めまくるラテン系の陽気なヒーロー」。

こんな、聞いただけでわくわくするようなキャラクタが日本発だなんて、誇らしいよなぁ・・・
お布団にくるまりながら、そんなことを考えていた・・・

***

「消費者はハードを目当てに買うのではなく、ソフトをやるために仕方なくハードを買うのだ」というのは任天堂の名言である。

任天堂が常に業界の雄であり続けるのは、マリオを筆頭に、ポケモン、ゼルダ、ドンキーコング、その他革新的なキャラクタを載せたソフトウェアを、間断なく供給し続けてきたからである。

任天堂というのは、一見すると「ハードメーカー」でありながら、その実、ディズニーと並ぶ世界規模の「コンテンツホルダー」でもあるのだ。これはもっと国内で評価されていい。

これと闘っていると言われているのが、ソニーのPS陣営と、スマホの雄、アップルiOS陣営である。だが、ソニーもアップルも、最近の様子をみていると、どうもおかしい。

先ほどの言葉にすると、「消費者はハードを目当てに買う。ハードについてきたソフトウェアはおまけだ」と考えている節があるのだ。

だが、それは明確にまずい。どんなに高性能のハードでも、ソフトがなければただの箱、なのだ。
事実、当時最高性能を誇った「Nintendo64」は、発売当初のソフト不足が祟り(ファーストも含めローンチ後3か月間ソフトが出せなかった)、ハード競争で一時、PS陣営の後塵を拝することとなった。

古今東西、ハードメーカーのハードが売れてくるようになると、「自分たちのハードが素晴らしいから(売れる)」という錯覚に陥ってしまう傾向にあるようだ。しかし、その考え方の陥穽にハマってしまうと、途端に消費者からはそっぽを向かれる。

絶対に忘れてはならないのは、いかに「やりたいソフト」が揃うか、その1点なのである。かつてPS陣営が隆盛を極めたのはDQFFという「消費者がやりたいソフト」が揃ったからだ。

大容量のCD・DVD需要でPS陣営は一時、この世の春を謳歌した。しかし、やがて大容量化に伴う開発費の高騰化・ゲーム内容の複雑化により、従来のようにソフトウェアが売れなくなる(利ザヤが小さくなる)と、生き残りをかけてあらゆるサードパーティがマルチプラットフォーム戦略を取るようになった。Aというソフトを遊ぶのに、BというハードでもCというハードでもよい、というのがマルチプラットフォーム戦略だ。

ソフトメーカーにとっては、「データ」さえ作ってしまえば、ロイヤリティの負担だけで販売機会が拡大できるのだから、当然に選ばれる道だったのである。

すると、「このソフトを遊ぶには、このハード」という呪縛がなくなり、消費者の選択肢は大幅に広がっていった。畢竟、ファーストがどれだけ魅力的なコンテンツを用意できるか、ということにやがて話は収束していくことになる(ファーストが他のプラットフォームにコンテンツを供給することなど殆どあり得ないからだ)。

このタイミングで、「ゲーム人口の拡大」を掲げ、魅力的なファーストコンテンツを大量に集中供給することのできた「コンテンツメーカー」の任天堂は、驚異的な復権を遂げる。それは、苦境の時代にあっても、マリオ、ポケモン、その他良質なソフトウェアをコンスタントに供給するだけの開発力を維持してきたからこそ、の大偉業であった。

一方、サード頼みで自らが魅力的なコンテンツを大量に供給することが難しかった純然「ハードメーカー」たるSCEは、ハードの高性能化・先鋭化路線を取り、逆発展ともいえる状況を自ら生み出し、結果として両者の明暗を大きく分けることとなったのである。

魅力的なソフトウェアをそろえたプラットフォームが勝利する、ということは、マルチプラットフォーム時代においては、<ファースト自身が最大のコンテンツホルダーとならなければかなり厳しい展開を迫られる>、ということだ。それは、もはや歴史が証明した事実となりつつある。

否、現状はもっと厳しい。ファーストだけでなく、サードを実質セカンドパーティに近い形で取り込み、「このソフトウェアを遊ぶには、このハードでしかダメ」という状況を作ってしまわないとならないところまできている。サードをサードとして置いておけば、サードは少しでも利ザヤのある方に「いつでも寝返る」からである。

ファーストのコンテンツを充実させるのみならず、サードを実質セカンド化、ファースト化するという経営資源の徹底的な投入を図ってこそ、ようやく「コンテンツホルダー」として、プラットフォームを経営していくことができるのである。

まとめると、<ファーストとサードの融合的状況>を作ってはじめて、「売れるハード」を市場に出せる、そんな艱難極まりない状況が生まれつつある。

事実、サードパーティの中で現在、もっとも市場(ただし日本国内限定)から魅力的とされるコンテンツの1つである「モンハン」は、一時代前、PS陣営の屋台骨ともいえるソフトウェアであった。が、事実上、任天堂陣営への「完全鞍替え表明」が発生したことで、両者のハード戦争は決しつつある(かつてDQFFを根こそぎ奪われた任天堂の意趣返し、というのは言い過ぎか?)。

任天堂は、DQはじめ、モンハン、ソニック、その他、どんどん優秀なコンテンツを自陣営に引き込みはじめている。ファーストのみならず、サード陣営を強化(実質セカンド化)して、「ゲーム機サバイバル」に打ち勝たんとしている。それは何より、「ソフトの重要性」を熟知しているからこその動きに見える。

優秀なサードは(排除ではなく)取り込むに限る。せっかく、世界一優秀なGoogle地図とYoutubeというゴールデンアプリケーションを連動させていたiOSも(アップル自身がコンテンツホルダーとして動こうとした経緯はわかるにしても)、その超優秀なサードコンテンツを見事に「排除」した途端、今回の「地図騒動」である。

ハードは縁の下の力持ちでなければならない。重要なのは「どんなソフトを利用者に提供したいのか」ただ1点なのだ。

「こんなハードがあるから、こんなソフトを出す」のではなく、「こんなソフトを供給したいから、こんなハードを作る」という「あそび」の発想。これがあるからこそ、エンタテイメント企業である任天堂は「強い」のである。

***

・・・と、いうようなことを、朝の寝床で考えてみた。
朝はもう、9時になっていた。


公開:2012年10月8日

「全員悪人」の『アウトレイジ・ビヨンド』が実に面白かったので、反対に「全員善人」の映画『ピュアストレート』をみてみたいと思った。

『アウトレイジ・ビヨンド』では、本物の悪人が最後に暗喩されて終わるのだけれども、言い換えると、「悪人とはその時の相対的な状況でいい人にもなり得て、結局本当の極悪人はごく一部」というメッセージが隠されているような気がしないでもなかった。ここが、実に面白い。

一方、『ピュアストレート』は、こんな作品である。

純粋まっすぐな人たちだけが出てくる、「全員・善人」の世界。あるきっかけで、そいつらの本性が暴かれるという、バイオレンス映画だ。「全員・善人」なのは最初だけで、人間臭さ、エゴ、そういったものが徐々にむき出しになってくる―つまり、「善人とはその時の相対的な状況で悪人にもなり得て、結局本当の善人はごく一部」というメッセージが隠された映画だ。

突然、東京に発生した巨大クーデーター。たまたま学校で福祉イベントに来ていたNPO法人「ふれあいなかよしクラブ」で働いていたA男とB子は、そのどさくさに、今まで「善人面」していた同僚、パートナー、その他が、実は善人の面を被った悪人であったことを知る。

徐々に狂い出すA男とB子。果たして、彼らの運命は―?

善人たちが、極限の状況下で狂っていくさまが描かれる・・・


公開:2012年10月7日

どんな社会構造にもしがらみがあって、「あっちを立てれば、こっちが立たず」となるのが世の常。青臭い正義感だけでやっていけないのも事実なら、割り切り過ぎてもやっていけない難しさがある。

そこで「落としどころ」を見つけて「ま、何とかやっていきましょうや」とやるのが政治の役目なのだが、役者は20年変わらずで、ずーっと同じような「喧嘩ごっこ」をしているようだ。大局観が失われている証拠だろう。

***

目下20年来最大の課題である「景気の回復」は、ぶっちゃけた話、「貯蓄税導入」「日銀通貨引き受けによるインフレの意図的な発生と円安政策の断行」「現行支給分の年金減額」の3点セットで必ず達成される(経済学的に明らか)はずなのだが、こんなことを本当に実現しようとしたら、長期安定政権など望むべくもない。だから政治家は誰もやらないし、言わない。

某政党は、役所に出向き、公務員に自分たちの機関紙を買わせ、大きな収入源としている。これを買わせることで、地方議会で変な質問を「ほどほど」に済ませてやっている、というWin-Winの構造ができあがっている。このことは公然の秘密だが、これだって、暴露したところで何かがよくなるものでもないから、誰も何も言わない。あ、そもそも地方議員の質問と答弁って公務員が書・・(以下略

件の領土問題も、長らく「なかったこと」にすることで、お互いがメンツを保ってきたようなものだ。不法占拠をしているA国の件については、A国首領の保身が仇となり、国際的には領土問題と意識されるようになってしまった。「紛争が存在している」ことで立場が悪くなるのはA国。「紛争があるならば、国際司法裁判所で解決しましょう」と主張する日本の立場はきわめて紳士的である。一方、侵略を企図しているB国の件については、日本は「紛争がそもそも存在していない」という立場を取るが、これは、もし「紛争化」すれば、即座に安保案件となりかねないからだ。要するにB国が領有権を主張して進軍すると、理論上は即、安保案件となり、日米間の戦争が起こり得るのである。そうなったらまずいのはB国であり、だからこそB国は実は慎重にことを進めている(A国のように不法占拠はなかなかできないのだ)。A国よりはやっぱりB国のほうがしたたかだが、いずれにしても、あまり「ことを荒げたくない」のは、引け目のあるAB両国なのである。だから日本としては、安保案件になりかねないこのことにはできるだけ触れないことが(当時の政治判断としては)回りまわって得策(だと思ってやってきた)なのだ。もちろん本音は自衛隊でもなんでも出して鎮圧したいのだけれど、それができる国内外の情勢にない(なかった)のは「普通の」大人なら誰でもわかる。だからこそ、誰も何も言わなかったのだ。それを日本国民に「気づかせて」しまったのは偏向教育を続けてきたAB両国であるが・・。

***

怖いのは、こういう「なあなあ」で済まされてきた様々な社会構造の欺瞞を、「裸の王様」よろしく、「王様は裸だ!裸なんだ!」と言う(影響力の強い)人が現れてきた「そのとき」である。

今でいうと、西日本で騒ぎになっている政治会派Cなんて、まさにそんな感じである。既得権益者は、そういうものをもっとも警戒するから、やはりマスコミのバッシングも尋常ではない。

こう書いている私も、Cを手放しで応援するつもりはないけれども、かといって、Cを無条件に批判する輩を見ていると、「ああ、しがらみって大変だなぁ」と同情の念を抱く。

***

何者かが公の場で誰かを批判(あるいは評価)するとき、「この人のしがらみってなんだろう?」と考えながら見ていると、実に楽しい。


公開:2012年10月7日

アーカイブ