商売をする以上は、「自分が売りたいもの」と「相手が欲しているもの」との妥協点を見つけていく必要があります。
そんなとき、忘れてはいけないのが、「自分や自分の家族が欲しいと思えるものか」という"生活感覚"なんだと思います。
マーケティングの数字上「だけ」では売れる商品はつくれないし、自慰的な技術開陳「だけ」でも売れる商品はつくれない。必ず、数字と技術の上には「生活感覚」という要素が加わってくるのです。
成熟社会の人々は、「あ、こんな生活体験をしてみたい」「こんなことができたら便利だな」と思うからモノを買うのであって、そういう肌感覚がなくなってしまうと、あっという間に王者であっても座を奪われてしまうことになります。
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具体的な商品名を出すのは敢えて控えますが、かつては消費者を喜ばせていたのに、生活感覚から乖離してしまい、迷走してしまったいくつかの商品を挙げてみましょう。
たとえば、かつて隆盛を極めた某社の、新型ゲーム機。
鳴り物入りで発売されたものの、消費者の欲しいソフトが一向に揃わず、生活体験を想起させる新機能が1つもなく、ソフトも周辺機器も下位互換性がまったくない、誰が見ても「ユーザーアンフレンドリー」な代物でした。
はっきり書きましょう。これ、どこをどうつついても、「経営の都合」しか見えてこない商品なのです。社員とその家族は全員、家でこの商品を楽んでいるのでしょうか?万が一そうでないのなら、そんなものが売れると思っているのか?と小一時間問い詰めたいくらいです。自分の家族に遊ばせられないものを渡すな、です。
果たしてその結果は火を見るよりも明らかで、この製品はライバル社の製品には大きく水をあけられる結果となっています。「ここまで苦しんで事業を続けなくてもいいのでは?」と素人には思えるほどの惨状には、盛者必衰の理すら感じます。
また、スマートフォンに先鞭をつけた某社の新型携帯電話についても一言。
こちらも、カリスマ不在となって、急激に迷走の兆しが見えています。接続端子を刷新するのはいいのですが、旧型端子を所持している圧倒的大多数の消費者は放置されたままです。それに対するメッセージさえありません。
また、独自開発した地図機能も、「だれか開発段階でストップさせなかったのか」と思うほどのひどい出来です。「ライバル社のソフトウェアを排除する」という経営判断は分かるのですが、ユーザーにとってはそんなこと、知ったこっちゃないのです。
ユーザーの快適な生活体験を犠牲にしてまで、こんな地図機能を導入するとは、ちょっと判断を疑うところです。王者の地位に胡坐をかき、ユーザーの方を向かない商品を堂々と売り出すようになったら、もう「潮目」です。潮目はあっという間に訪れ、地図を塗り替えていきます。
もう1つ例を挙げてみましょう。まもなく発売される、某OSです。
世界的シェアのあるビジネスソフトのデザインが、旧ユーザーを使い捨てるかのように改悪されたのに続き、約17年に渡って使われてきたデザインを刷新した某OS。
冒険はいいのですが、これもまた、あまりにもユーザーの都合を無視した感があります。遠からず、「企業からの押し付け商品」の1つになることは疑いないでしょう。インターフェイスがファーストインプレッションの段階で「使いにくい」と評される場合は、まず間違いなく失敗フラグメントです。
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「嫌なら見るな」で本当に視聴率を落としたお笑いテレビ局が日本にはありますが、「嫌なら使うな」という傲慢さを、どうしてもこの3商品から感じてしまうのです。誤解のないように申し添えておきますと、私は3つともいい商品とは思うのです。思うのですが、「買いたい商品」ではないのです。
テレビも生活感覚から離れたのでどんどん視聴率を落としているのでしょうが、商品も、間違いなく「生活感覚」から離れれば離れるほど、売れなくなります。
売れれば売れるほど、「これでいいのだ」という自信を企業内に生み、やがてそれが過信となって、「出せば売れる」と勘違いし、やがてユーザーにそっぽを向かれる・・そのパターンまっしぐらです。とくにこの3商品は!
しかし、「出せば売れる」のは、過去の蓄積で食ってきたからです。そんな貯金は、やがて底をつきます。
結局「出せば永遠に売れる」訳がなく、やはり、「いい商品を出さないと売れない」のです。当たり前の話です。
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生活感覚を持つ上で一番大切なことは、(情報収集という気持ちではなく、ただ純粋に)街を歩くこと。これに尽きると思っています。
生活感覚を感じられない商品をつくってしまう開発者は、果たして街を歩いているのでしょうか。
駅で人の流れを見る。デパートで、高架下で、牛丼屋で、SAで、巨大SCで、地方都市のさびれた商店街で、誰が、どんな思いで生活をしているのか。想像をめぐらしているのでしょうか。そのうちの、どの層の人たちに、あなたの商品を、どのように使ってもらいたいのでしょうか。
売れる商品というのは、開発者だけの自己満足のためにあるのではない。みんなの満足のためにあるのです。売れる商品は、使う人の想像が誰にでもできます。売れない商品は、使う人の想像が誰一人としてできないのです。
イメージ化できないものを無理やり売ろうとすると、某社のように「ステマ」に頼るだけの侘しい商品展開をせざるを得なくなります。ステマに頼るのは、商品開発力低下の成れの果てでしょう。
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「若者の○○離れ」というのも、本当は「若者の生活感覚をつかんだ商品開発力の低下」にすぎないのです。なんでもかんでも消費者に問題を帰属させる昭和の頭からは、新時代の「生活感覚を惹起させる商品」など生まれてくるわけがないのです。
クルマが売れないのは、都会の若者に「生活の中でのクルマ」が描けないから。だったら、「都会でも車を持とう」と思わせるだけの生活感覚を想定できるような商品を作るしかないのです(ちなみにそのための切り口は「エコ」なんかじゃないんです、きっと。エコはジジババの概念です。昔のツケを今に持ってくる免罪符が「エコ」という害悪語なのであって、若者に罪はそもそもありません。若者の本音を代弁しますと、「エコはシニアで勝手にやってろ。俺らのせいじゃねーし」です。企業の皆さん、若者にエコ商品は押し付けないようにしましょう。この部分を分かっていない人が多すぎです)。
お酒が売れない(※)のも、都会の若者が「生活の中でのお酒」を描けないからなのですね。飲みニケーションが「面倒くさい」と思っている若者、今はどれだけいると思っていますか?せめて自分の部署の若手からその本音すら聞き出せないようでは、「若者に売れる商品」など作れるわけがないのです。
※最近になってハイボールや酎ハイが例外的に復権していますが、それは「生活の中でのハイボール」が生活感覚にフィットしたからでしょう。
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任天堂のWiiしかりアップルのiPodしかり、やはり、「この商品を買うと、生活がこうなる」という「生活感覚」をとらえた商品はどんな時代でも強いのです。
「売れない」の前に、「どうやったら売れるか」。「どうやったら売れるか」というのはつまり、「どうやったらターゲット層の需要を喚起できるか」を探る旅でもあります。
その1つのキーワードが、「生活感覚」の獲得、というわけです。商品開発の部署にこの風土がなければ、絶対に消費者には届きません。
公開:2012年9月23日