2009/12/12 公開の記事。
私は「エコ」が大嫌いで、これ以上周りが「エコエコ」言っているとそろそろ本気でブチ切れてしまいそうなほどだ。エコは以下の点で、完全に「悪徳」宗教以外の何ものでもない。私は異端者と言われようと、徹底してエコと「決別」し、「対峙」する。
○教義は「地球のために」
「地球のために」という誰にも反対のしようのない、ある意味で卑怯な教義を持つのが「エコ教」 だ。これは誰にでもわかりやすく、そして、受け入れやすい、あるいは表立って反対しにくい―という、実に巧妙な仕掛けを持った教義である。すでにこの時点で「怪しい」と気づくべきなのだが・・・。
○批判的である
宗教は、一般的には科学(現代社会)の対義語と考えられている。したがって畢竟、科学に対してはどうしても批判的になる傾向にある(この批判性が「和」と「同化」を好む日本人の宗教アレルギーの一因でもあるだろう)。
もっとも実は「科学」すらも突き詰めれば「宗教」なのだが、そんな話はともかく。今の科学社会を、もう一度「人間」の立場から捉えなおすのが宗教の本質的役割だとしたら、今の社会の在りようを根本から見直すことを要求する「エコ」は、その意味で立派な宗教である。
本当は現代社会がなければ成り立ち得ない「エコ」という概念は、別に人間的本質を衝いている訳では実はなく、ある意味で自己欺瞞に満ちた存在であるのだが・・・
○大衆に受け入れられるための似非科学性
難解な教義を大衆に理解させるためには、単純かつ明快な「理論」が必要である。別に何だっていいのだ。分かりやすければ。
エコ教を強力に推進するのが「二酸化炭素が増えると地球が温暖化して、すげえやべえことになるぞ」という例の似非理論である。
科学的には二酸化炭素→温暖化→やべえことが起こるという図式は証明されてすらいないのに、なぜか国家を挙げて「二酸化炭素を減らしましょう」の大合唱。
もう、げっぷもするなよと言いたい。
○「将来」の不安を煽る
悪徳宗教の本領は、「将来の不安を徹底的に煽ること」。
このままいくと「地球で暮らしていけなくなる」上に「子孫に迷惑をかける」と究極の不安を煽るという意味で、エコはやっぱり悪徳な宗教だ。
○妙に権威的
そして妙に権威的なのも悪徳宗教の特徴である。従わない奴を異端者扱いし、そのコミュニティから徹底的に排除する。
「二酸化炭素→温暖化」という単純極まりない図式に疑義を唱えただけで、「無視」される社会というのは、どう考えても狂っている。
ちなみにこれに似た身近な例は「禁煙ファシスト」だ。喫煙者というだけでさも極悪人かのように扱い、お店からも締め出すというのはどう考えても異常である。私は非喫煙者だが、いくらなんでも最近の「禁煙」のさせ方は病的だ。類義語に「女性専用車両」がある。男性というだけでラッシュ時の電車に乗れないというのは差別以外の何者ものでもない。運賃返還要求運動が起こらないのが不思議だ。
・・・エコもまったく同じ匂いがする。このままいくと、「エコファシスト」で国が滅ぶかもしれない。
○金持ちからの布教
エコカーを最初に買ったセレブは誰だっけ?
こういうのは、金持ちを味方にするのがポイント。 庶民からは搾取できる量が限られているので、まずセレブに思想を植えつけ、なんとなく「格好よさそう」という幻想を抱かせるのだ。お金が集まってきたら、大々的に布教活動を行い、間口を広げる。銀行で言えば、普通預金しか預けていないようなわれわれ「ゴミ客」の勧誘からだ。「チリも積もれば山となる」のだから、この効果は無視できない。そうそう、イメージアップのために、「草の根で活動しています」という一言を忘れずにね!
○異端追放
先ほど書いた通り。その「権威」によって異端者を居ずらくさせ、場合によっては社会から抹殺する。おお怖い、怖い。
新聞・テレビといったメディアをフル活用するといいみたい。
○実は不要なものを「必要」にする
ほら、高価なツボがあるでしょう。あれと一緒ですよ。
「エコ」の名の下にどれだけのものを買い替えさせられるのか。本来は、「エコペットボトル」を買う前に、ペットボトルそのものを買わなければいい。「マイ箸」を買う前に、外食をしなければいい。「エコカー」を買う前に、車に乗らなければいい・・・・はずなのに、「エコボトル」も「マイ箸」も「エコカー」も、いつの間にか「必要なもの」になってしまっている。
本当に「エコ」を考えるのだったら、一生洞窟に住んで居ればいいのだ。
○「エコ」という名のお布施
つまり、「エコ」という名でわれわれはお布施をしているわけですよ。冷静な目で見ると「?」なんだけど、お金を出している本人はそれが幸せ。
別に本人が幸せならそれでいいのだが、周囲に迷惑をかけたり、強引に「エコ教」を勧められるのは迷惑だ。
お布施には、「免罪」「みそぎ」的なところがあって、要は後ろめたく思っていることに対する贖罪とこれからの決意が具体化されたものなんだよね。
特に「エコ」なんて、人間である以上、誰もがチクチク胸が痛んでいるでしょう?少しでも環境にいいものを買うことで、罪を償っている「気分」になるんだよね。
私は、そういう気持ちに付け込むことこそ、悪徳宗教の本質なのだと思っているのだが。本当の宗教であれば、いつか心の救済があるだろう。しかし、「エコ」に終わりはない。エンドレスに付け込まれるだけだ。そこが悪徳なのだ。
○ついに世界宗教へ
今、世界中のお偉いさん方が「エコな会議」をしているが、私にはこれが、宗教論争に見えて仕方がない。
先進国の「エコ教」、途上国の「エコ教」、日本の「エコ教」・・・と、同じ「エコ」でもぜんぜん解釈が違う。しかし世界的にこんな論争が行われているなんて、もはや「エコ」は世界を覆いつくす宗教なのだ。
もしかすると、世界は「エコ」で滅びるかもしれない。杞憂に終わればよいが・・・
私は「エコ」が大嫌いで、これ以上周りが「エコエコ」言っているとそろそろ本気でブチ切れてしまいそうなほどだ。エコは以上の点で、完全に「悪徳」宗教以外の何ものでもない。
私は異端者と言われようと、徹底してエコと「決別」し、「対峙」する。
公開開始:2011年6月27日