2010/07/04公開の記事。
高校、大学はとても楽しかったが、小学校・中学校は本当に私にとって最大の「束縛体験」であった。学校が好き、と思ったことは一度もなかった。友だちと遊ぶのは好き、勉強も好きだったが、学校そのものは「敵」であった。行事なんて大嫌いだったし。厳密にいえば先生が「嫌い」だったのかもしれない。
教職の方の名誉のために申し上げると、もちろん、小学校・中学校と尊敬する師は多くおられたし、私の人生に少なからぬ影響をいただいた方もいらっしゃる。そういう先生方には今でも本当に感謝をしている。
しかし、それを取り消して余りある教師というのもいて、彼ら/彼女らの些細な言動・行動が、今の私の人格形成にも少なからず影響しているのである。もちろん、私のこの歪んだ性格は私自身の責任によるものであり、掛るものを転嫁するつもりはさらさらないが、子どもの頃の影響は後を引くものだ。これは「先生」という職にある者に限らず、世の大人がすべて自覚していなければならないことだと思う。その例をいくつか。
○「街角清掃」と「ポイ捨て教師」
私は「反エコ」の闘士といってもいいほど、「エコ」という言葉を憎み、呪詛している人間である。そのルーツをたどると、今から語るエピソードに遡ることができる。
小学校低学年の頃、近所の公園を清掃しよう、というよくあるボランティア活動に、教師引率で参加させられた。
よく使う公園だったので、楽しく掃除をして、意外と多くのごみが拾えたので、達成感もあった。
この日はそのまま現地解散となった。
好奇心旺盛だった私は、「この後、先生たちはどこに帰るんだろう?」と疑問を持ち、教師たちの後をつけていくことにした。
教務主任(男)1名と、女教師2名。仲良く談笑しながら歩いている。途中で男教師がタバコをのみはじめた。
交差点に差し掛かる。信号は赤。
気づかれないようにそっと後ろから覗く。
やがて、信号は青になる。
すると男教師は、おもむろに、右手に持っていたタバコを側溝にポイ・・・
数年生きてきて、これほどがっかりしたことはなかった。
先ほどまで自分たちが拾っていたタバコのごみ・・・それを生み出していたのは、何と我々に散々ごみを拾わせた張本人、教師たる彼自身だったのだ!!
・・・ということで、私がこの時に悟ったのは、「言行不一致でも、偉い人になれる」という事実であった。むしろ、「口でいいことをいっていれば、それで偉くもなれるのだ」ということに気づいた。
―以来、私は教師を一切、信じていない。特に「キレイゴト」を言う奴を。
そういえば小学生のころは、「地球を大切に」とか「平和を守ろう」とか、空虚なスローガンのポスターを何度か描いた。それこそ「入選」をしたこともあるが、これはすべて、「教師を喜ばせるため」の演技であったことをここに告白しておく。
環境ネタでは、「自分のできることから1つずつ。地球を大切に」
戦争ネタでは、「つらい過去の過ちを二度と繰り返しません」
道徳ネタでは、「他人に思いやりの心をもちたいと思います」
こう宣言するだけで教師が喜ぶのだから、学校内での立ち居振る舞いは「ラク」になる。学校という閉鎖空間で、教師に歯向かうことは得策ではない。「笑顔の裏で、睨み顔」が一番なのだ。
ああ・・・すごく厭な子どもだ・・・
しかし、この精神構造は今でも変わっていない。上司の思い付きの提案を笑顔で受け入れながら、心の奥底で「そんなバカなこと、できるわけねーだろ?」と睨んでいる自分がいるのだから・・・
学級崩壊という現象がブームらしいが、これは幼稚の極みだ。「歯向かう」のではなく、「黙って反抗」するべきなのだ。教室の中で暴れてみたって、本当に時間の無駄なんだから。 このままだと、この世代からの「会社崩壊」も近いぞ。
○ヒステリー教師
そういう厭な子どもだったから、教師には相当嫌われていた。基本的に周囲の空気を読んで生きてきたので、「私を嫌っているか、いないか」くらいはすぐにわかる。
・「給食のパンを食べきれないので、家に持って帰ってもいいですか」と聞いたら、いきなり頬を平手打ちしてきたヒステリー教師
・私の小学校は、給食を「班」で食べることになっており、その班に担任が日替わりでまわって一緒に食べる―というつまらないルールがあったのだが、給食を準備しているときに、私が近くにいるとも気づかずに、「今日は○○(私の名前)のところだ。ゲッ」と嫌悪感たっぷりの独り言を漏らしたババァ教師
・声変わりの時期に、自分の機嫌の悪さを憂さ晴らしするためだけに、みんなの前で私の声を「変な声っ」と罵ったクソ教師
・・・とかね。学校では注意深く生きていた私は、とにかく「ミスをしないように」していたので、畢竟、教師は私のミスをあげつらうことはなかなかできなかった。だから、こういう細かいことでしか私をやりこめられなかった、というわけ。明らかに嫌われていたのが判る。
それでいて、自分で言うのも変だが、勉強ができなかったわけではないから、彼ら/彼女らは余計に腹が立ったのだろうね。
本当はもっともっとあるのだが(当時は「親に言いつける」という発想もなかったので表立ってすらいないが)、まあいいや。
○この話の流れで行くと、「免許更新制」の話にいくのかな?
最近、「教員免許更新制」の議論がある。
単純な「賛成」「反対」というのは無意味だ。
「いい先生」というのは免許を更新しようがしなかろうがいい先生なのだし、
「ダメな先生」というのは免許の更新以前にダメなのだから。
だから私は、免許の更新なんて、正直どーでもいいと思っている。
むしろ文部官僚の権限を強めるだけなんじゃねーの、とさえ―穿った見方をしてしまう。
「学校からそのまま先生」という人でもいい人はいい人なのだが、もっと教員の「出自」を豊かにしたらどうか、と思う。
教職課程云々を見直して、社会人経験者(ただし3年未満はキャリアとは言わない)の採用割合を30%位に高めたら、日本の教育現場は劇的に変わると思うけれどな。政策的にそういうことをやってみる、と言う官僚、政治家は出てこないかしら。
もし私が教師だったら、
作文で、
「自分のできることから1つずつ。地球を大切に」
「平和が一番。つらい過去の過ちを二度と繰り返しません」
「他人に思いやりの心をもちたいと思います」
と書いてくる子どもがいたら、
「よくオトナの喜ぶ考えがわかったね。それはえらい。でも、受け売りの意見ではなく、もっと自分の本音を書いてみましょう。」と指導するけれどな。
環境の授業では、「エコエコCM流すのが一番環境に悪いと思う。洞窟に帰れ」
平和の授業では、「平和って言っている人のそばに警官がいるのはおかしい。無防備で演説しろ」
道徳の授業では、「きれいごとを疑う神経を持ちたいと思います」
といえる子どもが出てくる教育をしたいものです。
それこそ学級崩壊か。
公開開始:2011年6月28日