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「人類、マジで何がしたいの?」-朝井リョウ「生殖記」の主題であろう。

無制限な拡大が不可能であることが明らかになった今。
躁型社会が終焉し、鬱型社会に突入している今。
「結局さぁ、マジで何がしたいの?」ということだらけである。

ブルシットなジョブは全部虚構。
もう、粛々と「みんなで」縮んでいくしかないというのに。

今から「拡大」しようとして、マジで何がしたいのさ。
少子化、オリンピック、万博、リニア、北海道新幹線、etc..

このワード見ると、
すべては、「縮む」時代を象徴していませんか。
どう考えても、「広がる」未来は想起しないですよね。

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新聞をやめた話を前回したが、
やめた途端、販売店から「1か月だけでも取りませんか?」という攻勢がすごい。
「1か月無料です」とか。「○○もおつけします」とか。

そういうことではないのだ。

やめてからでは、遅いのだ。
心が離れてから慌てられても、遅いのだ。

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2025年3月15日

テレビをやめてから1年半。
NHK代が浮き、家が広くなり、余計な情報に煩わされることもなくなり、静かになったことで読書に集中できる時間も増えた。悪いことが何もない。

次は新聞もやめた。

やめた理由は次に集約される。
(1)高い
消費税で優遇されているにもかかわらず、「値上げ」とな。月約4000円というのは、この物価高のご時世に厳しすぎるわけで。年間約5万円の節約は大きい。

(2)重い
地味に、溜まる新聞や広告を束ねて捨てる・・・という行為に耐えられなくなる。広告の束を見るたびに、「どうして労力かけて見もしない広告棄てなあかんねん」となってしまった。

(3)古い
もはや、情報が古い。どうしてもネットニュースの速報性には勝てない。・・・というのと、記事や広告が「高齢者向け」過ぎて、得るものが少なくなっているというのも大きい。今日日、「インターネットの使い方」みたいな記事載せられても見ないわけで・・・。

(4)偉そう
実はこれが一番やめるきっかけになったもの。ある時、何気なく「社説」に目を通して、一気に醒めてしまった。

よく考えれば、戦争も、バブルも、「失われた30年」も、少子化も、なーーーーーんにも食い止められていないくせに、大上段で天下国家を語る言説に、申し訳ないが、何かが切れてしまった。「蛙化現象」とでもいうか・・・。

「なんで月数千円も払って、偉そうな大人の説教読まなあかんねん」となってしまった。

===
テレビも新聞もやめたからといって、「ネットがあるから」という方向に舵を切るわけではない。
そもそも、情報過多の時代である。
よく考えると、「知らなくてよい情報」というのはごまんと存在する。

ニュースは、基本的には送り手が垂れ流している情報だ。
テレビも新聞もやめた。これを機に、「ニュースそのもの」への接し方も見直していきたいと思う。


2025年3月1日記す

「つもり違い十箇条」というものがある。
元善光寺(長野県飯田市)の住職によるものとされる有名な「訓示」だ。

高いつもりで低いのが 教養
低いつもりで高いのが 気位

深いつもりで浅いのが 知識
浅いつもりで深いのが 欲望

厚いつもりで薄いのが 人情
薄いつもりで厚いのが 面皮

強いつもりで弱いのが 根性
弱いつもりで強いのが 自我

多いつもりで少ないのが 分別
少ないつもりで多いのが 無駄

・・・いくつも当てはまり、思わず自分の言動を顧みてしまうこと必至のことばの力にうならされる。

さらにここから連想するならば、
「買っていないつもりで、いつの間にか買っているものは 恨み」
「かけていないつもりで、いつの間にかかけているものは 迷惑」
といったところだろうか。

「覚えているつもりで 忘れているものは 感謝」
「聞こえているつもりで 聞いていないものは 忠告」
「とっているつもりで とれていないものは 加減」
といったところもよくよく心したい。謙虚さ、緊張感、熟慮。

さてさて。「つもり違い」といえば、今回の衆院選の結果だろうか。
顔を挿げかえれば政治とカネ、政治と宗教の問題はきれいさっぱり水に流す甘い国民・・・・
・・・なんてことはなく。与党にはしっかりと鉄槌が下り、
対する野党は野党で「なんでも反対」にはほとほと呆れられ、
古い体質の組織政党もことごとく避けられ、
結果的に、「誰も過半数を取らない」という、きわめて「中庸」な状態がかたちづくられる政治状況となった。
(ちなみに大きな法則として、「政治とカネ」ということ以前に、「経済状況が悪いと与党は不利」というのがあるとされる。為政者の想定以上に庶民の足元の経済状況が悪いこと、特に「政府は増収、国民は減収」という倒錯状況において政府が無為無策だったことが、今回の選挙結果の大きなファクターだったことはもっともっと注目されてよい事実だろう)

さて、ここでもたらされたものは何か。「緊張」と「熟議」の政治状況である。
「大勝」すると、勝者から必ず失われるものがある。それが「緊張感」と「熟議」の姿勢だ。数に頼み、組織によりかかると「数」と「組織」がすべてとなる。緊張感は滅失し、熟議の機会は訪れない。

緊張感と熟議なき政治が、今の社会の閉塞状況を生み出した元凶であることは論を俟たない。金融至上型経済による格差拡大、増税至上主義財政による国民窮乏化、その結果としての少子化(24年、ついに年間出生数70万人割れがほぼ確実な情勢という)―が事実上、放置されてきたのだ。

今回のように為政者が「いつ追い落とされてもおかしくない」状況になれば(与党であれ、野党であれ「過半数」の力を持っていないのだ)、緊張感をもって、そしてほかの意見にも耳を傾ける「熟議」が生まれる。

社会の閉塞状況を「逆回転」させるチャンス到来、である。
与党がどうの、野党がどうの、ではない。「誰も過半数を取れない」という多義性を担保することが民主主義のあるべき姿ではないか(第1党・第2党が政権を争い、複数の中道政党がキャスティングボートを握って政策で競い、極左・極右政党も多様な意見の反映として複数存在する。民意の反映という意味では、大変"理想的"できわめて"民主的"な政治状況なのだ)。

これは「決められない政治」ではない。「決めるために、緊張感をもって、熟議する政治」だ。
この政治状況を、わくわくしながら見守りたい。



2024年11月7日記す

「学校の先生が大変で、なり手が少ない」と言われて、ようやく給与面にメスが入れられるようになったわけですけれども、実際に「保護者」として学校を見てみると、「やらなくてよいこと」まで先生が忙殺されているような気がしてなりません。

少し前に、工藤勇一さんの『学校の「当たり前」をやめた。』が話題になりましたが、本当に「必要」なことは何なのか、改めて考えてみるときにきているのかもしれません。

学校の意義は、将来自立自活するための最低限のスキルを心身ともに身につけることにあります(国からすると、「納税者となって国を支えてくれ」ということにほかならないわけですが)。
もっとも、実際は能力や才能は個人別ですから、ほんらい教育は個人別であるべきです。しかし、個人でバラバラにスキル・アップをはかると社会的にはきわめて非効率ですから、ある程度スケールメリットを生かせるように、最低保障分野については集団教授する方式を採用することを、政治的・社会的に合意して「学校」という制度を選択している、ということですね。

集団教授が社会的に見て効率的なもの?すなわち学校というシステムがなじむものは(個人的に合理的であるかはわからない)、
*基礎学力の最低保証―国語・数学・英語の、いわゆる「読み・書き・計算」の基礎学力分野の学習機会担保。
*生活知識や教養の最低保証―生活・理科・社会・芸術分野(音楽・美術)・道徳を涵養する時間の担保。
*基礎体力の最低保証―体育(陸上・水泳・球技)の基礎スキルの習練の機会提供。
*集団生活経験の最低保証―式や運動会、発表会、部活動、修学旅行など「集団行動」の機会提供。
*といったものが挙げられるでしょうか。この観点から考えてみると、もしかすると今、学校で「当たり前」に行われているものも、どこかで「見直し」をしてもよいものが見つかるかもしれません。

ここからは思考実験です。本当にこれらの行為が必要か(あるいは今のままでの運用が妥当なのか)、ぜひ考えてみましょう。「できない理由」ではなく、「やめたとしたら何が問題で、本当にやめるとしたらどうするか?」という発想をしない限り、何も変わりませんからね・・・。

■朝礼:いきなり1時間目の授業をスタートすることで、実は何の不都合もありません。どうしても出席確認が必要ならば、1時間目を受け持つ先生が毎回名簿と付け合わせればよいでしょう。
■給食:担任が常に一緒にいる必要はありません。アレルギーや「喉に詰まった」などの万が一の緊急対応要員は必要ですので、生徒は昼にどこか大きな広間に集めて、何日かを持ち回りで見るようにすれば、先生がお昼休みに文字通り「休む」ことができます。お昼ご飯くらい、1日でもいいから先生にゆっくり食べさせてあげたくないですか?
■掃除:なんでも子どもにやらせればよいという話でもないんですね。この時代、ワックスがけまでさせて「無償でやるもの」という奴隷根性を骨の髄までたたき込むのか、ちゃんと「1つ1つの行為にはほんらいカネがかかるものなんだよ」と分からせていくのか。ここは議論の余地がありそうです。
■帰りの会:完全に不要です。必要な連絡はその日の最後の授業の時で十分でしょう。
■連絡帳:少なくとも、「毎回担任の確認印」「家庭の確認印」を求める習慣はいらないですね。本当に必要な連絡はWeb化すればよいだけです。
■宿題:親のチェックを入れさせる管理目的のもの(音読シート、歯磨きシートなど)は絶対不要。忙しいし親子ともに確実に適当になりますから(そんなものにチェックする先生も労力の無駄)。そんな暇があるなら習熟目的のもの(計算、漢字、九九など)をさせたほうがよほど身につきます。自己採点でもさせればよろしい(こう書くと、「嘘つくやつが出る」って反論されるのですが、嘘ついて困るのは自分ですから)。
■PTA:意義そのものを問うとハレーションが起こるので、まずは「外注できるものはないか」を常に問うことでしょう。また、慣習でやっているが効果がほとんどないものは存在意義から見直していくべきものです。「共働き」が主流の時代、「親の力で何とか」というのが不可能になってきているのは自明です。
■担任制:一人で30人も見るのがどだい無理という話なんです(会社組織で、部下が30人もいれば絶対に役職を分散させますよね)。主担当のクラスは持つにしても、教科担任制にして、責任を分散させるほうがよほど子どものためになるのではないでしょうか。
■学級通信・学校通信:家庭で必要なのは校長や担任の長い挨拶ではなく、「いつ、何があって、何が必要か」という家庭での準備に必要な情報です。行事の事後報告も不要(我が子以外の情報は基本的にいらないのです)。「年間カレンダー」1枚で、あとは必要な時にWebで連絡でいい?と思っている人、多いでしょうね。
■面談:総当たり式をやめ、「アンケートを取り、必要な人に実施する」?という方式で教師・保護者双方の負担は減らせそうです。
■掲示物:ごちゃごちゃした壁は、集中学習の妨げになると私は感じます(授業参観の時は暇をつぶせますが)。学校の壁って、「空白恐怖症」になっていますよね。好きならいいんですが、苦手なのにわざわざ壁に何かを貼る時間を捻出するくらいなら、「日本一シンプルな壁の教室」とかのほうがインパクトありますけれどね。
■運動会:コロナ禍を経て、「午前中のみ」「学年分割」になったのはとてもよい傾向です。正直、我が子以外の出番なんて「どうでもいい」というのが圧倒的大多数の保護者の本音ですからね(好きな人もいる=だから続ける、というのは論理的におかしい)。もっと細分化して、リアルタイムの「陸上競技大会」と、後日動画配信の「遊技披露会」に分けてもいいくらいです。
■校則:法的根拠の薄い「拘束」はいらないですよね。

繰り返しになりますが、これらは「思考実験」です。「それは違うよ」と思われる項目もあるかもしれませんが、1つ1つの常識に「疑問符」をつけてみることから「改革」ははじまります。「できない理由」を探すだけでは何も変わらないのです。

おそろしくスモールな視点で論点を挙げてしまったのですが、ここからはもう少し大きな観点からも「疑問」を投げかけてみましょう。

■入試:本当に、「答えのあるテストを解かせる」こと"だけ"で選抜をしてよいのか?
■テスト:生徒の学力を評価するだけで、出題者の評価はないのか?例えば「平均点30点のテスト」だとしたら、「30点しか取れない習熟のさせ方しかできない」という評価もあり得るのではないか?
■クラス:本当にこの単位は必要か?
■一律進級:学力や能力の多様性を鑑みた時に、「落第」や「飛び級」を採り入れないのは悪平等ではないのか?
■部活:内製化は人員的にも予算的にももはや限界。設備や指導者などの外注をどこまで許容するか?
■4月が新学期:本当にこれでよいのか。グローバルな視点で「1月」や「9月」も考慮することはできるのか?

・・・等々、様々な論点があるでしょうね。


2024年9月4日

テレビを見なくなってもうすぐ1年。実生活で困ったことは、ある会議で上長からCMの話題について振られて「いやぁ・・・そのCM見たことなくてまったくわからないですねぇ」となったことくらい(その事実自体が、CMの広告効果を考え直すのに十分な材料となったわけだが)。

最近TVerに「リアルタイム視聴」というのがあるのを知って、試してみた。そして気づいた。録画放送は、リアルタイムに放送する意味がほとんどない、ということに。見たくないシーンを見ることがこれほど苦痛だとは。「飛ばせない」「早送りできない」というのは、拷問に近い。

今後、「テレビのこれから」を真剣に考えていくとしたら、以下のようにしていくしかないのではないか。
■リアル放送=ニュースや天気予報、スポーツ中継など「リアルタイム」のもの。「テレビ」の優位性を活かせる分野ではないか。

■録画放送=はっきり言って、YoutubeやTVerの見逃し配信で充分になってきてしまっている。「早送りできる」「飛ばせる」「見たいシーンだけ見られる」ことの魅力に一度気づいてしまうと、もう後戻りはできない。CM前の「引っ張る」現象など、Youtubeでやったら一気に再生数が落ちるでしょう。
・わざわざリアルタイムで放送する意味はもはや、ない。
・どうしても放送開始時間を決めたければ、Youtubeのプレミア公開のように、「放送開始する時間」だけ決めておき、視聴する時間は視聴者に委ねればよい。
・契約の関係でずっと置いておけないなど権利上の必要があれば公開期間を決めればよいだけ。
・倍速再生/スロー再生/スキップなどの機能は必須。
・概要欄があればなおよし。
・視聴の参考と、何より広告主へのディスクローズとして、「総再生数」「視聴箇所」などは公開する。

リアルも録画も同じように、「決まった時間しか見られず、スキップも早送りもできない」なんて不便すぎるしまどろっこしすぎる。リアルと録画を「わけて」放送することで、まだ活路を見いだせるのではないか、と感じながら、30分もじっと見ていられないのでした。

2024.06.22

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