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「つもり違い十箇条」というものがある。
元善光寺(長野県飯田市)の住職によるものとされる有名な「訓示」だ。

高いつもりで低いのが 教養
低いつもりで高いのが 気位

深いつもりで浅いのが 知識
浅いつもりで深いのが 欲望

厚いつもりで薄いのが 人情
薄いつもりで厚いのが 面皮

強いつもりで弱いのが 根性
弱いつもりで強いのが 自我

多いつもりで少ないのが 分別
少ないつもりで多いのが 無駄

・・・いくつも当てはまり、思わず自分の言動を顧みてしまうこと必至のことばの力にうならされる。

さらにここから連想するならば、
「買っていないつもりで、いつの間にか買っているものは 恨み」
「かけていないつもりで、いつの間にかかけているものは 迷惑」
といったところだろうか。

「覚えているつもりで 忘れているものは 感謝」
「聞こえているつもりで 聞いていないものは 忠告」
「とっているつもりで とれていないものは 加減」
といったところもよくよく心したい。謙虚さ、緊張感、熟慮。

さてさて。「つもり違い」といえば、今回の衆院選の結果だろうか。
顔を挿げかえれば政治とカネ、政治と宗教の問題はきれいさっぱり水に流す甘い国民・・・・
・・・なんてことはなく。与党にはしっかりと鉄槌が下り、
対する野党は野党で「なんでも反対」にはほとほと呆れられ、
古い体質の組織政党もことごとく避けられ、
結果的に、「誰も過半数を取らない」という、きわめて「中庸」な状態がかたちづくられる政治状況となった。
(ちなみに大きな法則として、「政治とカネ」ということ以前に、「経済状況が悪いと与党は不利」というのがあるとされる。為政者の想定以上に庶民の足元の経済状況が悪いこと、特に「政府は増収、国民は減収」という倒錯状況において政府が無為無策だったことが、今回の選挙結果の大きなファクターだったことはもっともっと注目されてよい事実だろう)

さて、ここでもたらされたものは何か。「緊張」と「熟議」の政治状況である。
「大勝」すると、勝者から必ず失われるものがある。それが「緊張感」と「熟議」の姿勢だ。数に頼み、組織によりかかると「数」と「組織」がすべてとなる。緊張感は滅失し、熟議の機会は訪れない。

緊張感と熟議なき政治が、今の社会の閉塞状況を生み出した元凶であることは論を俟たない。金融至上型経済による格差拡大、増税至上主義財政による国民窮乏化、その結果としての少子化(24年、ついに年間出生数70万人割れがほぼ確実な情勢という)―が事実上、放置されてきたのだ。

今回のように為政者が「いつ追い落とされてもおかしくない」状況になれば(与党であれ、野党であれ「過半数」の力を持っていないのだ)、緊張感をもって、そしてほかの意見にも耳を傾ける「熟議」が生まれる。

社会の閉塞状況を「逆回転」させるチャンス到来、である。
与党がどうの、野党がどうの、ではない。「誰も過半数を取れない」という多義性を担保することが民主主義のあるべき姿ではないか(第1党・第2党が政権を争い、複数の中道政党がキャスティングボートを握って政策で競い、極左・極右政党も多様な意見の反映として複数存在する。民意の反映という意味では、大変"理想的"できわめて"民主的"な政治状況なのだ)。

これは「決められない政治」ではない。「決めるために、緊張感をもって、熟議する政治」だ。
この政治状況を、わくわくしながら見守りたい。



2024年11月7日記す

「学校の先生が大変で、なり手が少ない」と言われて、ようやく給与面にメスが入れられるようになったわけですけれども、実際に「保護者」として学校を見てみると、「やらなくてよいこと」まで先生が忙殺されているような気がしてなりません。

少し前に、工藤勇一さんの『学校の「当たり前」をやめた。』が話題になりましたが、本当に「必要」なことは何なのか、改めて考えてみるときにきているのかもしれません。

学校の意義は、将来自立自活するための最低限のスキルを心身ともに身につけることにあります(国からすると、「納税者となって国を支えてくれ」ということにほかならないわけですが)。
もっとも、実際は能力や才能は個人別ですから、ほんらい教育は個人別であるべきです。しかし、個人でバラバラにスキル・アップをはかると社会的にはきわめて非効率ですから、ある程度スケールメリットを生かせるように、最低保障分野については集団教授する方式を採用することを、政治的・社会的に合意して「学校」という制度を選択している、ということですね。

集団教授が社会的に見て効率的なもの?すなわち学校というシステムがなじむものは(個人的に合理的であるかはわからない)、
*基礎学力の最低保証―国語・数学・英語の、いわゆる「読み・書き・計算」の基礎学力分野の学習機会担保。
*生活知識や教養の最低保証―生活・理科・社会・芸術分野(音楽・美術)・道徳を涵養する時間の担保。
*基礎体力の最低保証―体育(陸上・水泳・球技)の基礎スキルの習練の機会提供。
*集団生活経験の最低保証―式や運動会、発表会、部活動、修学旅行など「集団行動」の機会提供。
*といったものが挙げられるでしょうか。この観点から考えてみると、もしかすると今、学校で「当たり前」に行われているものも、どこかで「見直し」をしてもよいものが見つかるかもしれません。

ここからは思考実験です。本当にこれらの行為が必要か(あるいは今のままでの運用が妥当なのか)、ぜひ考えてみましょう。「できない理由」ではなく、「やめたとしたら何が問題で、本当にやめるとしたらどうするか?」という発想をしない限り、何も変わりませんからね・・・。

■朝礼:いきなり1時間目の授業をスタートすることで、実は何の不都合もありません。どうしても出席確認が必要ならば、1時間目を受け持つ先生が毎回名簿と付け合わせればよいでしょう。
■給食:担任が常に一緒にいる必要はありません。アレルギーや「喉に詰まった」などの万が一の緊急対応要員は必要ですので、生徒は昼にどこか大きな広間に集めて、何日かを持ち回りで見るようにすれば、先生がお昼休みに文字通り「休む」ことができます。お昼ご飯くらい、1日でもいいから先生にゆっくり食べさせてあげたくないですか?
■掃除:なんでも子どもにやらせればよいという話でもないんですね。この時代、ワックスがけまでさせて「無償でやるもの」という奴隷根性を骨の髄までたたき込むのか、ちゃんと「1つ1つの行為にはほんらいカネがかかるものなんだよ」と分からせていくのか。ここは議論の余地がありそうです。
■帰りの会:完全に不要です。必要な連絡はその日の最後の授業の時で十分でしょう。
■連絡帳:少なくとも、「毎回担任の確認印」「家庭の確認印」を求める習慣はいらないですね。本当に必要な連絡はWeb化すればよいだけです。
■宿題:親のチェックを入れさせる管理目的のもの(音読シート、歯磨きシートなど)は絶対不要。忙しいし親子ともに確実に適当になりますから(そんなものにチェックする先生も労力の無駄)。そんな暇があるなら習熟目的のもの(計算、漢字、九九など)をさせたほうがよほど身につきます。自己採点でもさせればよろしい(こう書くと、「嘘つくやつが出る」って反論されるのですが、嘘ついて困るのは自分ですから)。
■PTA:意義そのものを問うとハレーションが起こるので、まずは「外注できるものはないか」を常に問うことでしょう。また、慣習でやっているが効果がほとんどないものは存在意義から見直していくべきものです。「共働き」が主流の時代、「親の力で何とか」というのが不可能になってきているのは自明です。
■担任制:一人で30人も見るのがどだい無理という話なんです(会社組織で、部下が30人もいれば絶対に役職を分散させますよね)。主担当のクラスは持つにしても、教科担任制にして、責任を分散させるほうがよほど子どものためになるのではないでしょうか。
■学級通信・学校通信:家庭で必要なのは校長や担任の長い挨拶ではなく、「いつ、何があって、何が必要か」という家庭での準備に必要な情報です。行事の事後報告も不要(我が子以外の情報は基本的にいらないのです)。「年間カレンダー」1枚で、あとは必要な時にWebで連絡でいい?と思っている人、多いでしょうね。
■面談:総当たり式をやめ、「アンケートを取り、必要な人に実施する」?という方式で教師・保護者双方の負担は減らせそうです。
■掲示物:ごちゃごちゃした壁は、集中学習の妨げになると私は感じます(授業参観の時は暇をつぶせますが)。学校の壁って、「空白恐怖症」になっていますよね。好きならいいんですが、苦手なのにわざわざ壁に何かを貼る時間を捻出するくらいなら、「日本一シンプルな壁の教室」とかのほうがインパクトありますけれどね。
■運動会:コロナ禍を経て、「午前中のみ」「学年分割」になったのはとてもよい傾向です。正直、我が子以外の出番なんて「どうでもいい」というのが圧倒的大多数の保護者の本音ですからね(好きな人もいる=だから続ける、というのは論理的におかしい)。もっと細分化して、リアルタイムの「陸上競技大会」と、後日動画配信の「遊技披露会」に分けてもいいくらいです。
■校則:法的根拠の薄い「拘束」はいらないですよね。

繰り返しになりますが、これらは「思考実験」です。「それは違うよ」と思われる項目もあるかもしれませんが、1つ1つの常識に「疑問符」をつけてみることから「改革」ははじまります。「できない理由」を探すだけでは何も変わらないのです。

おそろしくスモールな視点で論点を挙げてしまったのですが、ここからはもう少し大きな観点からも「疑問」を投げかけてみましょう。

■入試:本当に、「答えのあるテストを解かせる」こと"だけ"で選抜をしてよいのか?
■テスト:生徒の学力を評価するだけで、出題者の評価はないのか?例えば「平均点30点のテスト」だとしたら、「30点しか取れない習熟のさせ方しかできない」という評価もあり得るのではないか?
■クラス:本当にこの単位は必要か?
■一律進級:学力や能力の多様性を鑑みた時に、「落第」や「飛び級」を採り入れないのは悪平等ではないのか?
■部活:内製化は人員的にも予算的にももはや限界。設備や指導者などの外注をどこまで許容するか?
■4月が新学期:本当にこれでよいのか。グローバルな視点で「1月」や「9月」も考慮することはできるのか?

・・・等々、様々な論点があるでしょうね。


2024年9月4日

テレビを見なくなってもうすぐ1年。実生活で困ったことは、ある会議で上長からCMの話題について振られて「いやぁ・・・そのCM見たことなくてまったくわからないですねぇ」となったことくらい(その事実自体が、CMの広告効果を考え直すのに十分な材料となったわけだが)。

最近TVerに「リアルタイム視聴」というのがあるのを知って、試してみた。そして気づいた。録画放送は、リアルタイムに放送する意味がほとんどない、ということに。見たくないシーンを見ることがこれほど苦痛だとは。「飛ばせない」「早送りできない」というのは、拷問に近い。

今後、「テレビのこれから」を真剣に考えていくとしたら、以下のようにしていくしかないのではないか。
■リアル放送=ニュースや天気予報、スポーツ中継など「リアルタイム」のもの。「テレビ」の優位性を活かせる分野ではないか。

■録画放送=はっきり言って、YoutubeやTVerの見逃し配信で充分になってきてしまっている。「早送りできる」「飛ばせる」「見たいシーンだけ見られる」ことの魅力に一度気づいてしまうと、もう後戻りはできない。CM前の「引っ張る」現象など、Youtubeでやったら一気に再生数が落ちるでしょう。
・わざわざリアルタイムで放送する意味はもはや、ない。
・どうしても放送開始時間を決めたければ、Youtubeのプレミア公開のように、「放送開始する時間」だけ決めておき、視聴する時間は視聴者に委ねればよい。
・契約の関係でずっと置いておけないなど権利上の必要があれば公開期間を決めればよいだけ。
・倍速再生/スロー再生/スキップなどの機能は必須。
・概要欄があればなおよし。
・視聴の参考と、何より広告主へのディスクローズとして、「総再生数」「視聴箇所」などは公開する。

リアルも録画も同じように、「決まった時間しか見られず、スキップも早送りもできない」なんて不便すぎるしまどろっこしすぎる。リアルと録画を「わけて」放送することで、まだ活路を見いだせるのではないか、と感じながら、30分もじっと見ていられないのでした。

2024.06.22

テレビを売り払ってからというもの、気になっていた「ニュースが耳に入ってこなくなるのでは」という心配はまったくなく、特に支障なく社会生活を送れることが判明した。スマホでもニュースはキャッチできるし、見たいコンテンツはTVerなり、Youtubeなりで充分消化できる(消化しきれないくらいだ)。「テレビはなくても大丈夫」ということがしっかりわかってしまった。

そしてとにかく、何よりもNHKのBS(見ない)に払っていたお金が浮いたのが精神的にも大きい。可処分所得が増えない社会に突入した以上、余計な出費をする義理などないのだ。

触れるニュースが減ることを懸念して、習慣(惰性)で続けていたのが「新聞」である。こちらも、我が家の方針として「次期更新のタイミングで解約」が閣議決定された。

なにせ毎月約4000円の出費である。NHKの出費の比ではない。これは、可処分所得が増えない社会においてはあまりにも高い。解約することで、数千円のベースアップと同じ効果があるのだ。次に見直しのターゲットとならないわけがない。

私は新聞は好きだが、それでも、この可処分所得が増えない社会において「4000円出して」いて、しかも解約を閣議決定すると、途端にいろいろと疑問点が多くなってきた。

・どうして、あらゆるメディアの中で新聞だけ消費税で当たり前のように優遇されているのか。
・お金を出しているのに、広告が平然とある(しかも多い)のが納得いかない。
・古紙回収の袋に入れて出すのが重い。手間である。
・チラシを含め、紙が多すぎる。
・ネットで前日にみたニュースが翌日の朝刊にそのまま載っていると損をした気持ちになる。
・自社の宣伝に紙面を割き過ぎている。もっと伝えることがあるのではないか。
・テレビがないのでラテ欄にお金を払っているのがバカらしくなった。株もスポーツも特に見ないのにその記事分にお金を払っていることに気づいて我に返った。
・どこかのように「なんでも反対」されても困るが、それでも「オリンピック」や「万博」など上級国民が得をするイベントへの礼賛や忖度が目に余る。たまには第四の権力としての矜持を見せてほしい。「ジャニーズ」の件もそうだが、そもそもなぜ週刊誌よりも突っ込んだ記事が出せないのか。こちらは週刊誌よりも高い購読料を払っているはずだが。

繰り返すが、私は新聞は好きだ。でもたぶん、上記の疑問点が解決しない限り、今次の「閣議決定」は覆らないだろう。



2024年4月25日

今年の葉書の大幅値上げ(63円→85円)を以て、実質的に年賀状は全国的かつ本格的な「仕舞い」の方向に向かったといってよいだろう。

年賀状の需要のうち、「出していなかった人に出す」「出さなくてもよい人に出す」・・・義理の需要(返報性の原理を利用)はいかほどのものだろうか。まずはここの需要がほとんどなくなっていくことだろう。

さすがに85円ともなると、「出していなかった人には出さなくてもよいや」となるだろうし、その前提として、「あの人に、『出していないけれど出さなければ』と90円近く出費させるのは忍びない」という思考もはたらくだろう。とにかく、85円というのはこれまでの義理が揺らぐ金額であることは間違いない。

私も10数年前までは150通くらいやり取りしていた年賀状だが、虚礼廃止・デジタル化の進展で、ここ数年は20通程度(最盛期比ー86%)に落ち着いてきた。来年は「出さなくてもよい人には出さない」ことをしっかり折り込み、「元旦に相互のやり取りがあった人」だけに出すようにしようと決めた。これで、さらに通数は減るだろう。

そもそも、「出していない人に90円近く出費させる(インク代や写真代を含めるともっと多い。コンビニに買いに行かせてしまう可能性も考慮したい)」「新年早々、見たくもない写真を無理やり見せつけてしまう(土足で踏み込む)」等々の不義理をしているのではないかと考えると、もはや「年賀状を出すほうが失礼なんじゃないか」という気さえしてくるのである。

もう少し様子を見たら、次は本当の「年賀状仕舞い」だ。

2024年1月9日記す

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