千葉ニュータウン中央駅
開業 | 昭和59(1984)年3月19日 |
路線 | 北総鉄道北総線 |
乗降客数 | 約2万7000人/日 |
駅構造 | 橋上/島式ホーム1面2線 |
※計画が頓挫した成田新幹線「千葉ニュータウン」駅の併設予定駅であった。
■ 何年経っても「ニュー」
千葉ニュータウンというのは、千葉の内陸部にある新興住宅街だ。
ニュータウンというのは何年たっても「ニュー」だからすごい。
100年後もおニューなのかと思うと、ぞっとする。
他の「千葉」のつく駅は全て千葉市にあったから巡るのは比較的ラクだったが、ここだけ千葉県の印西市(印旛沼の西方)というところにある。遠い。
しかし「千葉ニュータウン中央」だ。
思い切った駅名だと思う。「四国中央市」「山梨県中央市」もそうだが、どこにあるのかさっぱり見当がつかない。というか、「中央」というくせにえらく遠い。
もっとも、
遠いといっても、ここから京成線→都営浅草線→京急線と直通しているから、都心からは1時間ちょっとである。羽田空港にも直通で行ける。何と都心35キロ圏内なのだ。
ただし、そこまでの運賃がべらぼうに高い。
都心からだと片道で1000円以上もする。「ちょっと寄ってみるか」という気分には誰もならないと思う。
しかも昼間は20分に1本しか電車が来ない。なかなかこれが待たされるのだ。
行くのに少し「構え」みたいなものが必要なのが難点。
*
と、文句ばっかり書いてみたが、 私はニュータウンが好きだ。好きといっても、本当に「好き」なのかというと好きなわけではない。人間味を感じないところが「スキ」なのだ。何ともいえない無機的な感じ、何とも言えない場末の雰囲気、これがたまらなく好きなのだ。
同じ無機的な街でも、押し付けがましくて、見せ掛けの刺激が支配していて、欲望のためかどこか厚ぼったくギラギラしていて、しかしそれでいて街の持っている芯のようなものがとても薄っぺらい、何とも言えない虚しさを感じる、 にわか恋人のメッカ、見せ掛けだけのショー・ウィンドウが並ぶ最近の箱庭ビル群よりはよっぽど好きだ。
*
さて。ニュータウンといえば、だだっ広い駅前と無機質なマンションと何もない空き地と駐車場のバカでかいスーパーマーケットと相場が決まっている。 果たしてここもそうだった。そうでないニュータウンなど、あるのか。恐らくあるのだろうが、それはもはやニュータウンではなく、ごく普通の「街」になっているといえるだろう。
■ 空き地のエロティシズム
上の写真は、駅前で見つけた(というか嫌でも目に入る)空き地である。キレイに舗装された歩道とのミスマッチがたまらない。ちなみに、左奥に見えるビルはビジネス・ホテルである。窓からはどんな景色が見えるのだろうか。
開発団地の空き地というのは、独特の風情がある。ただ放置されただけの土地、と言ってしまえばそれまでであるが、何と言うか・・・ビルの真横が空き地という光景は、シュールというか、無謀というか、意味不明というか、そんな不思議な感覚である。現代科学では解明できそうもない魅力を持っている 。
超現実、とでも言えばいいのか。
私はこの「超現実」の感覚からもっと飛躍して、ここにエロティシズムを感じるようにさえなった。
この、土地が押し黙っている感じが「エロ」そのものなのである。
それは、どういうことか—
そういえば私は、三角コーンが好きなのだった。街で見かけると、必ず被写体にしているほどだ。
これも何で被写体にしているのかというと、突き詰めて考えればエロいからだった。何も形がエロいわけではない。存在がエロいのである。言い方を変えるならば、「妖艶な存在」なのだ。もっとも、撮るときにいちいち「これはエロい」などと考えているわけではない。それではただの痴漢だ。
撮るときは体のどこからか「撮らねばならない」という衝動がこみ上げてくるのである。この衝動の原因を冷静に分析すると、やはりこれは性的衝動に他ならないと結論づけるしかなかった。
話は変わるが、存在というものは、それ自身だけでなく、その周囲、そしてそれを認知する者の3者関係で成り立つ。三角ポール自身が、周囲と奇妙な調和を保とうとしようと努力しようとしているさまが(少なくとも私には)見えることで、三角ポールはエロティシズムの一種として私の前に現れるのだ。肉感的、とでも言うか。とにかく三角ポールはエロい。
こんなことを書くと、あるいは主張すると、きっとどこかおかしいと思われるだろうが、もともと人間は誰しもどこかおかしいし、おかしいといわれても私は一向に構わないが、きっと、この主張をお分かりいただける人がいると私は信じる。
結論としては、
「三角ポールはエロい。」
・・・何の話をしているんだ私は。
とにかく、そのような「肉体的感覚」が、空き地にもある、ということである。
周囲と無理に調和しようとしているところがエロい。出来るわけがないのに、無理に風景に溶け込もうとしているように見えるところが、とんでもなくエロい。エロすぎる。魅力的に過ぎるのである。倒錯的に言えば、空き地は私にとってたまらなくエロティックな存在なのである。
いや、 もう少し正確に記すと、「周囲と無理に調和しようとしているけれどそれを悟られないように押し黙っているさま」がたまらなく魅力的なのだ。ちょうど、「思いを伝えたいけど伝えられずに悶々としている 初心な女の子(男でもいいが)」のようである。
重要なのは、この「押し黙っているさま」というところにある。「周囲と無理に調和しようとしている」というのはエロティシズムへの必要条件に過ぎない。
周囲と無理に調和しようとしている建物は日本に無数にある。
汐留のビル群などその典型だが、僕はそれらには一向にエロティシズムを感じない。それは、「押し黙っていない」からである。
押し黙っていない、というのは、強引というか、「俺はここに建ってるんだ文句あっか?」というようなある種の開き直り、そういったものをこれらのビル群から感じるということである。
一方、空き地や三角ポールからは、そういった強引さは感じ取れない。あくまでも控え目に、静かに、その場で「押し黙って」いるのである。
これはとんでもない魅力だ。
そこには、「僕はここにいるけどいいのかな?周りと調和しなくていいのかな?出来そうもないな。ああどうしよう。でもどうしようもないな。」というような、何とも言えない悲哀が漂っている。・・悲哀?いや違う、そんなものではなく、何と言うか、一種の「あきらめ」が漂っているのだ。
この「あきらめ」こそ、空き地のエロティシズムの正体ではないか。このあきらめは、決して「まぁいいや」という怠惰が生み出したものではない。それとは逆のベクトルから生み出された、生のエネルギーをたっぷりと含んだ「あきらめ」である。
これは現状を把握し、それを自分の力ではどうすることもできないと悟ったときの「あきらめ」、「思い切り」の世界である。 「足るを知る」の境地。これすなわち、万物流転、諸行無常の「悟り」の世界に通じるものである。精神作用が一歩先の世界へと進んだ状態と言えよう。
空き地には、確かにそういう世界が存在する。「あきらめ」を持った空き地と対峙すれば 、きっとそれを感ずることが出来る。
それは現実世界から「超」現実世界へのトリップである。そのとき、そこに対峙した人間はどこの世界とも知れぬ感覚に酔いしれるのである。 その感覚への「陶酔」は、やはりエロティシズムそのものなのであった。
■ 金が物言う駐輪場
傍から見ると若干倒錯したかのような論を展開してしまったが、空き地というのはやはりエロい。きっと、共感をしてくださる人がいるものと信ずる。
さて、話をソフトな方向へ戻そう。次の写真をご覧頂きたい。
駅前の駐輪場だ。面白くも何ともない施設で、わざわざ近寄って撮影する人はあまりいないと思うが、私は「同じものがいくつも並ぶ光景」というのが好きなので、近づいて撮影することにした。
そこにこんな看板があったのには驚いた。
「有料」は屋根あり、「無料」だと屋根なし。
非常に分かりやすい理屈だ。「無料」が真横にあるのに屋根があるだけの「有料」に停める人などいるのか。「有料」に停めるのはよほどの金持ちに違いない。
■ もぬけの殻
これは、駅前の商業ビルである。21世紀に入ってからスーパーなどが相次いで撤退し、取材時は1店舗だけが営業を続けていた。
この写真は駅前のロータリーから撮影したもの。ビルは駅から徒歩30秒のところにある。そして時間は真っ昼間である。だが、人気(ひとけ)というものを全く感じない。 殆どゴーストタウンのようだ。
上の写真は、もぬけの殻となってそのまま放置されたファストフード店の様子。ドアが開放されているのは恐らくホコリや何かがたまらないようにしているのだろう。
これが空き店舗の内部。写真では分かりにくいが、ワタボコリがかなり落ちていた。 これだけのスペースが空いていると無性に嬉しくなってしまう。
■ バンビを見ながら
ニュータウンというのは基本的に計画都市なので、道が非常によく整備されている。整備され過ぎていて高速で快適に走りやすく、夜は暴走族の格好の溜まり場となってしまうことは公然の秘密である。
話はまたそれるが、私はこの「整備され過ぎ」というのは危険だと思う。今流行の「オープンスペース」もそうだ。ある街の中心部に駅が出来て、駅前が広場(憩いのスペース)として整備されたが、そこはスケボーを楽しむ兄ちゃんの溜まり場となってしまい、とても「市民の憩いの場」にはならなかっ た、 という事例を目の当たりにした(オチは注意書きと管理柵の嵐である)。下手に「オープン」なスペースを作っても、それはただの溜まり場となるケースが多い。無制限の自由は危険(かもしれないの)である。
さて。この「快適道路と暴走族の蜜月」に対する警察の対応はかなり機微で、多くのニュータウンでは道路をガードレールでわざと直角カーブにしたり、道路に凸凹の障害物を設置したりしている。何のために走りやすい道路を作ったのか分からないが、毎日毎晩家の前の道路でゼロヨンをされたら、 確かに眠れないだろうからしかたない。
そんなことを考えている刹那にも、駅前の走りやすそうな広い国道を、車がビュンビュンと駆けていった。
閑話休題。
そんな計画都市であるが、やはり道路が広くて気持ちいい。
こちらは先ほどの商業ビルの逆側。奥には郊外スーパーの雄、ジャスコの姿があった。ジャスコは普通に営業していて安心した。中にはマクドナルドもあって、えらく混んでいた。 もっとも混んでいたのは、レジが1つしか稼動していなかったからだ。
駅周辺はかなり開発が進んでいて、大学や公園のほか、大手企業の集まる「企業通り」みたいな場所もあったみたいだが、飽きたので早々に引き上げることにした。
バンビに後ろ髪を引かれながら。
上は駅前の風景。何と言うか、巨大なビル群と巨大な空き地というミスマッチには、本当に圧倒される。空き地もなく、ただ建物だけが並ぶという光景もかなり異常だと思うが、このようにとてつもなく高い空間と、とてつもなく何もない空間が共存する光景というのも、かなり異常だと思う。もっとも、人間は誰しもどこかに異常性を秘めているものだから、これはこれでこの都市に人間性があることの証左になっているのだろう。全てが寸分狂いなく端正に、また「正常」に整った都市こそ、本当の意味で「狂っている」と言えるのかもしれない。