読書感想文の書き方NEO
タイトルにNEOがついている理由は、
「読書感想文」講座・・読書感想文の目的と書き方
という記事が元になっているからです。これをより過激にリライトしたものです。だからNEO。
★読書感想文の目的とは?
<国家的目的>
そもそも「国民教育」たる学校教育の主目的は、戦前は「兵隊養成」でした。戦後は「社畜養成」です。本質的な意味は何も変わっていません。要するに、「従順な羊」をつくるのが国家教育の目的なのです。これは良いも悪いもありません。そもそもが、そういうものなのです。物言わぬ民を生かさず、殺さず。「飼い殺し」にして、うまーく生かしていくのが、上流国民の為政術なのであります。
繰り返します。「社畜養成」が国家教育の本懐。そして社畜とは、上記に書いた通り<文句を言わずに働き、黙って税金を納める>圧倒的大多数の国民のことです。いわば社会の歯車ですね。これがなければ、「健全な」経済社会など成り立ちえないのです。
そんな彼らに求められるのは、規格化された「素直さ」です。
国民教育の一貫として行われる「読書感想文」では、その「素直さ」養成のプログラムとして「相手の求めていることを回答する訓練」を行います。すなわち、「この本はいい本でした。これこれこういうことが書いてあり、それはたいそう自分の学びになりました」と、素直な感想を述べることが求められているのです。出題者は、決して「意見されること」や「ひねくれた新説」を求めてはいません。別解は、反逆と同じなのです。
ですから、とくに素直な感想を書いた者は教育委員会によって顕彰されます。とくに顕彰されないまでも、「よくできました」とほめられ、先生の覚えめでたく、学校の成績もよくなります。いいですか、ポイントは「素直さ」です。これがないと、そもそもお話になりません(変なオリジナリティは、別のところで出せばいいのです。こういう系統のものは、いかに覚えをめでたく書くかだけが求められています)。
学校生活を通じて、よほど空気が読めないか、天才すぎるか、バカでない限りは、「素直で反抗しなければ世渡りがうまくいく」ということを自然と学びます。その摂理を「気づかせる」ツールの1つが「読書感想文」なのだと心得ましょう。
<教育的目的>
上述の通り、「読書感想文」は社畜養成のための国家教育における通過儀礼ですが、国語科としての教育的意味も勿論あります。それは、「文章に書かれた事実を正確に読み解く訓練」という部分です。
読書感想文を書かせる最大の目的は、最初に申しあげた通り「相手が求めることにひたすら応えるロボットを造る」ことですが、このことはすなわち、「自分の感じたこと」とは無関係に、「作者が言わんとすること」を正確に抽出する訓練でもあります。要は「読解力」です。
読解力というとどことなく「自分の意見がなければいけない」と勘違いしている方はいませんか。違いますよ。読解力とは、「作者が何を言いたいか」を正確に読み取ることであって、「あなたが何を感じたか」は実は無関係なんですね。例えば天下のA新聞を読んで「日本を貶めようとしている」と読み取るのが読解力であって、記述内容に「賛成」と思うか、「反対」と思うかは実は「読解力」という点においては何の意味ももたないのです。
読解力のある人は「書かれている事実」と「自分の意見」を分けて文章を読むことができるのですが、読解力のない人は、「事実」と「意見」がごっちゃになってしまっている。だからこんがらがるんです。「国語科」の世界では、あなたの意見なんて、誰も聞いちゃいないんですよ。「どう書いてあるか」ただそれだけ なんです。ここに気づくと、「国語科」は楽になります。「素直に俺の話を受け取れ」というのが「国語科」の世界です。ストイックですね。まさに軍隊教育です。
そうそう、意外とこの「事実」と「意見」の分離は大切です。社会人になった暁には、必ず「報告」という仕事が発生しますが、「報告」は「事実」と「意見」で成り立っています。「事実」と「意見」が混在していると、被報告者は間違いなくミスリードをします。物事の事象、起きている現象を正確に読解し、相手にわかりやすく伝えていくこと。これは、シューカツとやらでやたらもてはやされている「コミュニケーション能力」と いうあいまいな能力の醸成にも通じてくるのだと思います。
話が大きくそれました。こういう「読解力」というのは、普段の読書量の差が如実に現れます。もう、見事なくらい。経験上、誤解を恐れずにいえば、読書量の差は家庭の教育力の差です。つまり、家に本があるかないか。知的環境が用意されているか、その差で明暗がはっきり別れます。「うちの子、本を読まなくて・・」という家庭は、親も本を読んでいない、という傾向は、統計など知りませんが、確実にあるはずです。 もう、まったくソースなどないですが。
とにかく、勉強というのは、そもそも読解力がなければお話にならないわけです(それは、読書感想文だけに限らないのは言うまでもありません)。勉強の出来不出来は、かなりの程度、将来の進路に影響してきます。身も蓋もないことを言ってしまえば、「エリート」と「ノンエリート」を振り分ける仕組みが「読書感想文」ひとつにも暗に備わっているのです。怖いですね。
というわけでみなさん、読書をしましょう。何でもいいですから。
<社会的目的>
もう一つ、読書感想文の目的に、社会的なものがあります。それは、「本音と建前を弁える訓練」です。
「読書感想文」とは、ここまで通読された賢明な読者諸氏はお気づきの通り、「感想文」なんかではなく、真意は「読書レポート」なのです。どんなにつまらないものでも、「私は本を読んで、感銘を受けました」という「プラスの報告」を先生にする、という意味でのレポートです。
この発想は、社会人になったときに大いに役立つスキルなのです。
会社でサラリーマンが上司に「この本を読んでおけ」と言われたとします。後日「感想は?」と聞かれた時に、正直に「つまらなかった」「宗教じみていて気持ち悪い本だった」「面倒くさいので読んでいません」「○○という部分がおかしいと思います」って本当の感想は絶対に言わないでしょう?わざわざ解説するまでもなく、「私はこの本を読んでこれこれこういう部分に、たいそう感銘を受けました」と答えるべきなのです。空気を読める大人になる練習です。
読書感想文は、その「空気を読む」訓練を、ダメージのない学校時代においてしているわけです。だから、大まじめにやったほうがいいですよ。適当にやると、絶対に社会人になった時に苦労しますから。
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社会人になると、たくさんの「勉強会」やら「研修」に参加することになります(企画側に回ることも当然あります)。そしてたいていの場合、「感想アンケート」や「レポート」のようなものを書かされるわけです。そこで配られる「アンケート」や「レポート」は、体裁こそ「アンケート」「レポート」と言っていますけれども、そこには「意見を書く」のではなく、当然に「私は反逆者ではありません」という意思表示をしろ、という意味が込められています。企画側に立つと、驚くほど「変な意見」を書いてくるアホの子が沸いてきてびっくりさせられるのですが、そんなの悪目立ちするだけで、何もいいことはありません。
反論があるなら、辞めろというのが普通です。お金をもらっているんですから。ボランティアじゃないんです。いいですか。世にある「アンケート」「レポート」「報告書」の類の大部分は「相手が喜ぶことを書く」ことだけが目的です。「お前が喜ぶことを書いてどうする」ってなもんですよ。いいですね。絶対に自分の「意見」など書いてはいけないのですよ。
「ごめん寝てた」は、「本当に寝ていた」のではなく、「気づいてたけど、返す言葉が思いつかなくて放置してた。つまり『寝かせてた』」、という意味です。まさか気になる異性からの「また是非飲みましょう」「機会があれば是非!」というお誘いの返事を、「OK」のサインと思う人はいますまい。
読書感想文の「感想」という言葉。これは、言葉には二面性がある、ということを知る訓練だったのですね。うーん、役に立つなぁ。
さて、「読書感想文」とは、規格化された素直な社畜を養成するためのツールであることが分かりましたので、その「書き方」を具体的に見てみましょう。
★読書感想文の書き方
一言で言って、「満点」を目指さない(及第点でよい)ならば、ほとんどテンプレート的に組み立てることが可能です。以下の通り、やってみましょう。
(1)まずは下準備です。あらすじを知りましょう。Amazonの「概要欄」やレビュー、該当の図書の書評を書いているサイトを見て、これから読む本の「あらすじ」や「ポイント」を仕入れておきます。大数の法則が働き、だいたい8割くらいの人が言っていることは、大きくは外さないだろう、という推定ができます。
(2)本を読みます。「どこがポイントだろうか」と考えながら(メモしながら)読むのです。出題者が喜びそうなポイント(日教組の教師だったら、「戦争ハンタイ」とかね)を推測しながら読むとよいでしょう。
(3)メモをまとめます。本のポイント(盛り上がり、主題)を抜き出して、そこに関連するシーンをいくつか補足させて、最後に自分の決意につなげる・・そんな「図」を書くとよいでしょう。
(4)まとめをもとに、書き出します。まずは本の一番のポイント(盛り上がり)の部分を最初に抜き出して、「感動した」「すごいと思った」「新鮮に感じた」「学びになった」「気づきを得た」と書きます。既知のことなら、 その言葉にさらに、「改めて」という接頭辞をつけるとよいですね。
(5)次に、作者が言いたかったことを想像し、文の中心主題を2—3程度抜き出して、最後に「感動した」「すごいと思った」「新鮮に感じた」「学びになった」「気づきを得た」と書きます。既知のことなら、「改めて」という接頭辞をつけるとよい。段落ごとに1シーン の内容について書く、という展開が理想です。
(6)最後に、自分がこうしたいと思った、という決意を書きます。だいたい、内容は決まっているんです。「戦争反対」「平和」でしょ。「環境を大切に」「エコ」でしょ。「自己犠牲」なんかもあるかな。最近は「絆」「仲良く」「ふれあい」とかね。ああ気持ち悪い。そうそう、その上で「自身のこれまでを反省」「早速—したい」「明日から—したい」などの便利なキーワードがありますから、それで収めるとよいでしょう。偏向教師の好きなワードを子供らしい素直な筆致で散りばめたらよいのです。
これでまず悪い評価はされないはずです。10のいい評価より、1の悪い評価が響きます。将来の「社畜」としては、「いい評価」よりも「マイナス評価を取らない」ことにまず腐心しましょう。これ、本当に大切なことです。「悪く思われないように立ち居振る舞えば、何とかなる」ということですね。
これを敷衍して考えると、社会人になった時の「報告書の書き方」と相通ずるものがあるということにやがて気づくことになります。読書感想文のポイントは「相手(評価者=教師)が喜ぶこと、書いてほしいこと、上の人(教務主任、校長)にこんなに優秀な生徒が指導出来ていると 一次評価者がアピールする材料になること」を書くことなのです。これはそのまま、報告書のポイント「相手(評価者=上司)が喜ぶこと、書いてほしいこと、上の人(部長、役員)にこんなに優秀な部下が指導出来ていると 一次評価者がアピールする材料になること」を書くことにつながります。
・・・ということで、将来の社畜を目指す諸君! 自己アピール(評価を下げない努力)を小学生のうちからがんばってください!