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勉強のしかた

■教わってできるなんて嘘で、「学び方を知っている」かどうか

世の中には「教わってできる」なんてことは1つもありません。

「え?私は学校で算数を教わって、計算ができるようになったよ」という方もいるでしょう。でも、違います。学校で教わったことはきっかけに過ぎず、そこから何かを感じ取り、消化・吸収し、できる(自分の中に取り込む)ようにしたのは、あなた自身だからです。

すべての「学び」は、あなた自身のうちにあります。あなたが気づかなければ、あるいはあなたが努力をしなければ、そこに「学び」はありません。

学校の授業を思い出してみてください。同じ先生の話を聞いても、テストをしてみると点数はバラバラ。同じ教わり方をしても、その身につき方は人によって千差万別です。
その理由は、何でしょうか。

「できない」のは、「その人が悪い」のではなく、「教えた人が悪い」のでもありません。
そもそも「学びかた」が分かっていないのです。

「学びかた」を知っている人は、どんなものからも「学び」を得ます。

池に飛び込むカエルを見て、後世に残るような俳句をかけた人。(松尾芭蕉)
木から落ちたリンゴを見て、地球の物理法則を想像できた人。(ニュートン)
風呂からあふれた水を見て、「エウレカ!」と知的興奮を覚えられた人。(アルキメデス)

何らかの事象から「何か」を感じ取り、消化・吸収し、できるようにしたのは、その人自身の「学び」の姿勢、すなわち「学びかた」にあります。
では、「学びかた」とは何か。学びには何が必要なのでしょうか。

(1)知識をため込む器をつくること

「学び」の第一歩は、脳のキャパシティを広げることから始まります。
どんなに素晴らしい知のインプットがあっても、受け入れる者の脳の容量が狭ければ、ほとばしる知のエネルギーは、無駄にこぼれるだけだからです。

それならば、脳のキャパシティを広げる最適の方法は何か。
それは「読書」だと言えます。

本は知識の泉であるとともに、想像力の源であり、他者との架け橋でもあります。

幼少期にたくさんの本の洪水に触れておくことで、「ことば」をため込む器ができます。「ことば」でコミュニケーションを図る人間にとって、「ことば」の器ができることは、そのまま、「学び」の器を広げることにも広がります。「学びの器」、これが生きていくうえでとても大切になってくる。

この器があるかないかで、その後の「学び」には天地の差が出るのです。たいてい、「優秀だな」と思う人とお話をすると、幼少期にたくさんの本に触れています。そして今でも読書家であるケースが非常に多い。知的水準の高さと読書量には、経験上、明らかに相関が認められるのです。

世代を超えて経験的に継がれてきた「読み聞かせ」には、もしかするとそういう「学びを紡ぐ」ための知恵が盛り込まれていたのではないかとさえ、私は思うのです。

(2)自分の頭で考える力

世の中の人種は、「資本家」と「労働者」に分ける以外に、「ナレッジ・ワーカー」と「マニュアル・ワーカー」に分けて考えることができます。
ナレッジ・ワーカーは「考える人(能動人間)」。マニュアル・ワーカーは「動く人(受動人間)」とでも言い換えてみましょう。

一般に社会で「使えない」と評価されるのは後者です。

これは例ですが、 ある職場で、間もなく入社丸1年を迎えるある社員が、「このままではマズいぞ、アイツ」と酷評されているのを—偶然ですが—聞きました。まぁ、よくあることですね。興味をもったのでその理由を聞いてみると、「新人だからできないのはあたりまえだが、それを自分の力で何とかしようとする意気込みが感じられない」「言われた仕事はそれなりにこなすが、受身の姿勢が許しがたい」と異句同音の答えが返ってきました。

こういったことに限らず、現代の仕事というのは「作業ができる、できない」で評価されることは実はあまりありません。多少作業がトロくても、今はコンピュータ化の進展で、 少しくらいのことはいくらでも代替可能だからです。

評価基準はただ1点、まずは「自分で考えて行動できるか」なのです。 むしろ、それが求められる職業と、却って「自分で考えて行動されると迷惑」な職業とに分かれている時代に突入したような気がして仕方ありませんが、いずれにしても、「自分で考えて行動する」ことの意義は大変大きいのが現実です。

周りから酷評される「受身人間」にならないためには、自分で考える癖を、身につけておかなければなりません。
そのためには、小さいうちから、友だちとの外遊びや、ごっこ遊び、お絵かきなど、「想像性」が求められることをどんどんやることでしょう。

逆に言うと、受動的なこと、例えば—「テレビ」や「ゲーム」漬け—の幼少期を過ごさないことが、きわめて肝要になります。
テレビなどは特に「受動メディア」なので、テレビ依存の幼少期を過ごすと、受動性は高まりこそすれ、低くなることはないでしょう。

・・・こう書くと、テレビやゲームは「駄目」とハナから決めて掛る人がいます。
しかし私は、そんなことは1行たりとも書いていません。

テレビやゲーム「漬け」の生活が駄目なだけで、テレビを見たり、ゲームで遊んだりする時間も円滑な交遊のためには大切でしょう。
しかし、それだけに偏らないこと、ここがポイントだと思います。

念のために書いておくと、私は「テレビ脳」「ゲーム脳」の科学的根拠はまったくないと思っています。
しかしだからといって、「テレビ」「ゲーム」を無制限に称賛するものでもありません。要はバランスである、ということです。

(3)とにかく基礎学力をつけること

学力というのは、要するに「情報処理能力」のことです。そして情報とは、「読み」「書き」と「計算」の複雑な組み合わせによって成り立ちます。

世の中のあらゆる社会的コミュニケーションは、その「情報」で成立していると言っても過言ではありません。
そこで媒介となるのが、「ことば」「かず」という記号です。

これらが満足に扱えずして、何ができようかというもの。

ひところ「分数のできない大学生」が話題になりましたが、四則演算、基本的な構文読解、これらのことも満足にできずに、「個性」だの、「ゆとり」だの、「創造力」だの、クソも何もあったものではないのです。

「有無を言わずに、読み書き計算くらいやっておけ!」と言いたい。

子どもは本来は暇なのだから、時間のあるうちに、何はなくとも徹底的に「ことば」「かず」といった基礎学力を身につけることが絶対に必要なのです。
とにかく子どもには、有無を言わさず徹底的に勉強させる。これ、大人の責務だと思うのですが。

ここで「有無を言わさず」というのが、私はポイントだと思っています。

全ての学びは、学んだあとに「あっ、これはこういうことだったのか」と気づく、という特異な性質を持ちます。
「学んだあとに、学んでいるときには分かり得なかった知識・利益が、事後的に会得されていることに気づく」というのは、学び特有の難しさかもしれません。

しかし、「学んでいるときには分からないけれど、あとで必ず分かる」というのが学びにとって死活的に重要なことになってくる。
それが学ぶことの意味であり、目的だから。

勉強をしてすぐに「何の役に立つの?」などという功利的思想にたどり着いてしまう人は、そもそも勉強に向いていません。
ほんらい、学びは生理的なものです。「もっと知りたい」「もっとこうしたい」という欲求から、学問は生まれてきたわけですから。

今の時代は学ぶときに、屁理屈をこねすぎなんです。まずは理屈抜きでやってみる、そういうハングリーな姿勢が根本から抜け落ちてしまっている。
これでは国力も落ちるに決まっています。

しかし、何はなくとも、とにかく「知力」しかないんです。
社会が健全に前に進んでいくためには。

有無を言わずにまず基礎学力を身につける—そんな基盤が今の社会には備わっているでしょうか?

■どんな環境でも勉強はできる

中学受験に受かった子どもと、 公立中学に進んだ子ども。
子どものころから塾通いをしていた子どもと、 ほとんど塾に通っていない子ども。

どちらがその後、順調な人生を歩めるのでしょうか。
実はそんなこと、当たり前ですが誰にも分からないのです。

「公立中学が心配で、私立中学が安心」というのは明らかに受験産業が仕組んだガセだし、
「塾に行けば安心で、塾にいかないとどうしようもない」というのは経験的に見ても大ウソです。

公立であろうが私立であろうが、 塾に行こうが行くまいが、
勉強をする人間ははじめからするし、しない人間はしない。

ただそれだけなのです。

先ほども書いたように、「教わってできるようになること」などありません。

教わって、「分かる」ためには、それを受け入れるだけの「器」が必要ですし、
分かったことが「できる」ようになるためには、それを消化できるだけの「練習」が必要です。

基本的に「学ぶ器」と「意欲」、それに「基礎学力」さえあれば、どんな環境であれ勉強することは可能です。

「勉強できないことを、環境のせいにしない」—これは学ぶ者の、最低限の心得でもあります。

■学習の3原則と5法則

以上を踏まえて、「では、具体的にどのように勉強していくべきか」を列挙していきたいと思います。
具体的には国語・数学・理科・社会・英語の5教科について、大学入試にまで応用できる「学び方」を書いていきます。

その前に、「学習の3原則/5法則」を挙げてみようと思います。

<学習の3原則>

(1)シンプルに

時間も体力も有限ですから、「あれこれやる」のは不可能です。「これ」と決めたものを徹底的にやり切ることから道が開けてきます。シンプル・イズ・ベスト。

予備校の授業を勧められるままにあれこれ取る。不安に駆られあらゆる習い事をやってみる。参考書をあれこれ試す。手当たり次第に問題集を解く—これも1つの方法ですが、ただの安心材料になっているだけ、という可能性があります。一般的には「これ」と決めたことをやり通す方が成功の確率は高くなります。そして「これ」となるものは、あれこれ理屈で見つけるのではなく、自分の直感に頼るしかありません。本当に勉強のできる人は、どんな授業からでも、どんな参考書からでも 、どんな問題集を使っても、高い確度の「学び」を得ることができます。

自分が何をやるべきか、いつまでもあれこれ迷っている人は、本心では、実は学ぼうとしていない(学びたいと思っていない)可能性があります。本当に学びたければ、必要なものは己ずと定まってくるはず だからです。

(2)自分の力で

「言われてやる」人は決して一定以上に伸びることはありません。

「言われてやる」人も、「言われずにやる」人も、1つの「作業」として勉強を見たときには、等しい訓練を積めば同等の成果を上げることが可能です。しかし、いざ高校生、大学生、社会人・・となったときに、「言われてやる」タイプの伸びる芽は摘まれていきます。

なぜならば、言ってくれる人が相対的に減っていくからです。お手本がなければ、途端に何もできなくなる。

「言われてやる」人は、言う人(先導者)にキャッチアップすれば常に最適なソリューションができるようになっています。あらかじめ正解の定められた問題を、素直にこなしていけばいい。ルーチンワークを機械的にこなすだけ、机上空論をこねくり回す、そういったことに一生を捧げるのであればそれはそれでいいのですが、先ほども申しあげたように、それは社会に生きる人間の姿としてはひどく不格好なものです。少なくとも、尊敬はされにくい。

この時代の大転換期は、「言われずにやる」人でなければ社会を生き抜いていけない。よく言われる話ですが、正解のない事象の中から自ら問題設定をし、ソリューションを試みる、その繰り返し が必要です。これは、本来の「学び」そのものでもあります。有り体にいえば、「自ら仮説を立て、自ら実践し、それを検証できる力」ということになります。

学びとは本来、こういう能動的なものであるはずです。「自分の力で」進んでいくという姿勢、もっと言えば「自分から」やるという自発性が何よりも求められます。

「自分でやる」という癖をつけておくと、決断力がつくばかりでなく、自分の行動に責任を感じ、常に行動に緊張感が漲るようになります。
こういう人が、結局、最後に「伸びる人」なのです。

(3)集中する

「できることはできるのだが、ケアレスミスが多くて・・・」という話をよく聞きます。
が、ケアレスミスが多いということは、その実、「できていない」のです。これは断言できます。

ケアレスミスで試験に落ちる、ケアレスミスで取引を失敗する、ケアレスミスで事故を引き起こす・・・
ミスはミス。大切なところで、ミスは絶対に起こしてはなりません。

ケアレスミスが起こる原因は、結局のところ「集中力」の問題です。

1つ1つの物事にどれだけ集中できるか。ここが勝負のカギになってきます。
これは、きわめて大切な能力として、一生、付きまとうものです。                                                            

<学習の5法則>

(1)「□×10=1」

10インプットして、アウトプットは1。どれだけ器に素材を詰め込むか、ということです。

(2)「わかる」と「できる」は大違い

「わかったつもり」で済ませる器用貧乏が多いのが現代社会。「わかる」ことを「できる」ようなレベルにまで高めるには相当な練習が必要ということです。机上の理論家と現場の実践家との違いはここにあります。

(3)忘れる前に覚えよ

エビングハウスの忘却曲線を持ち出すまでもなく、人間は忘れる動物です。だからこそ、大事なことは「忘れる前に覚える」気構えがどうしても必要になります。短期記憶を長期記憶に変えるには、繰り返しの練習が必要になります。

(4)「ゴール思考」で考える

到達点主義とも言われる考え方です。目の前のものを処理するだけの刹那主義では到底、発展的な思考は生まれません。ゴールは何かを見極めて、そこに至るまでのプロセスを考えながら進んでいくことが肝要です。

(5)セルフイメージを常に持つ

学習している自分自身に、何が起こっているのかを考えます。セルフイメージが弱いと、悪い結果しか返ってきません。「念ずれば通ず」とはある面で真実で、「よい状態」をイメージして学びをすると、その結果は必ず自分自身に還元されます。

無理をしてプラス思考をする必要はありませんが、物事を肯定的にとらえるほうが、福を招く—これは、事実です。

■教科別学習法

それでは、「教科別学習法」をみてみましょう。

(1)国語は「読書量」

とにかく読書をすることです。1に読書、2に読書、といっても過言ではありません。

読むのは何でもよいのです。ノンフィクション、伝記、小説、マンガ、事典、写真集、新聞、雑誌、広告、看板、パンフレット、取扱説明書、ネットメディア・・・とにかく「活字」「文字」、ありとあらゆる情報に徹底的に触れることです。手当たり次第に。

重要なのは、「手当たり次第」というところでしょう。

情報には良い情報もあれば悪い情報もある。有益なものもあれば無益なものもある。ありとあらゆる情報には、何かしらの意図、意見、バイアスがたっぷりとこめられています。これらを何でもかんでもぶち込むことで、脳味噌をシャッフルします。

しかし、これらを無批評で読むことは百害あって一利なしです。そうではなくて、これらのあらゆる情報を、必ず「自分だったらどう思うか」という観点を交えて読むことです。 「ツッコミ読書法」とでも名付けておきましょう。

(2)数学は「計算力」

「数学ができない」のは実は、「計算ができない」だけ、というケースが圧倒的に多いようです。

対策は、言葉で書くのだけは驚くほど簡単で、「分数を含めた四則計算を徹底的に練習しておくこと」です。「徹底的に」というのは、「絶対にミスをしないくらい素早く、完璧に」という意味合いです。繰り上がりや繰り下がりの数字を書いているようでは間に合いません。もう、数字の羅列をみたら手が勝手に動くほど、血へどが出るくらいに練習をすれば、計算ができるようになるはずです。

まあ、それくらい練習すればいやでも自信がついて、ちょっとやそっとでは動じない精神力がついていることでしょう。
数学には、そういうストイックな部分があるように思います。

あとは概念として、除法=分数=比=割合・・の変換がいつでも頭の中でできるようにしておくことでしょう。 結局これは、分数計算の練習で数的感覚を身につけるしかないようです。

(3)英語は「音読量」

和訳練習は不要です。英語を英語として読む練習だけをしましょう。

コツは、「覚えてしまうまで音読をしまくる」ことです。こちらは1に音読、2に音読と言えます。
音読をすれば、たとえへたくそな発音であっても、英語特有の「リズム」がつかめるようになります。

そうすると、文法問題すら「あれ?簡単じゃん」と思えるようになる。とにかくだまされたと思って音読だけを毎日し続けましょう。
1日に5000字は読み続ければ、やがて難関大学レベルの文章も苦なく読めるようになるはずです。

(4)理科は「人に教える」

国語力6割、数学力3割、興味関心1割の教科です。したがってまずは国語力と数学力を鍛えましょう。国語は読書により、数学は主に除法=分数=割合=比、の練習をすることです。

その後は、物事をエピソードで記憶できるようにすることがミソ。単語の丸暗記ではなく、自分で「授業を再現する」「参考書を再現する」つもりで勉強してみましょう。理科の場合は人に教えるつもりで勉強すると、面白いように知識が入ってくるはずです。

なぜならば、科学的な教科なので、1つ1つの事象がとても体系的にできているからです。 体系的ということは、非常に論理的であるということ。したがって物事のつながりが実に分かりやすくできているのです。そんな中、「人に話す」ということは「分かりやすく話す」ということ。分かりやすい事象をさらに噛み砕いて説明するように勉強すれば、身につきやすい、というわけです。

(5)社会は「興味を持つこと」

国語力4割、数学力2割、興味関心4割の教科です。歴史、地図、ニュースに興味をもった人にだけ、合格のパスポートが手渡される教科とも言えます。ある意味で最も「人を選ぶ」教科なのではないかと思います。

社会科的なことに興味がない人は、興味を持つように努力するか(難しいと思いますが)、割り切って徹底的に記憶力を鍛えるか—のどちらかにしましょう。 逆に興味のある人は、得意な分野で満点を取るべき教科です。 いずれにしても、読書量が興味関心を引き出すこともあるので、読書をどれだけしてきたか、によって運命が左右されることも十分ある、恐ろしく「人生のバックグラウンド」と密着した教科です。

こちらも理科で申し上げた「人に教えるつもり勉強法」が有効です。


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