2010.11(ドラえもん映画30周年を記念して/後日加筆修正適宜あり)
・恐竜
「自分で考え、行動する」がテーマの本作品。「"ドラえもん"はのび太に対し、道具をすぐに与えるから駄目だ!」という愚にもつかない批判を述べる輩には、本作品をまず反証として挙げるとよい。
世の人はやたらと、「のび太とピー助の別れ」のシーンから、本作の印象に「感動」「お涙頂戴」を挙げる傾向にある。しかし私はむしろ、自分たちの力だけで、「限られた手段を駆使し、できる限りのことをやった」5人の姿にこそ、胸を打たれてほしいと思うのだ。
ピー助を誕生させたのは、ドラえもんではない。「自学自習」を促された主人公、のび太の力によってである。 ドルマンスタインらの魔の手からピー助を救ったのも、ドラえもんの道具によってではない。最後こそタイムパトロールという<オトナ>が救ったものの、タイムマシンの機能を破壊され、それでも困難に立ち向かったのは、 5人の子どもたち(とロボット)なのである。
「自分の力で」—これが本作の重要なテーゼなのだ。ドラえもんの本質は、便利な道具を使ってのび太を助けることではなく、便利な道具を使ってのび太の自立を助けることなのである。ここを見誤ってはなるまい。
本作は、未来からやって来た「薄弱児童の自立支援員」としての『ドラえもん』の本質を、図らずも浮かび上がらせてくれたのである。
・宇宙開拓史
牧歌的世界観が郷愁を誘う作品だ。テーマは、
「のび太(のようなヤツで)も、ヒーローになれる」。
本作を一言で言うと、「あののび太にも特技(射的)があって、その特技のお陰で宇宙の片隅の星、コーヤコーヤの住人が救われた」ということ。
別世界の出来事であるから、別に命の危険を冒してまでコーヤコーヤ星人を助ける必要もないのだが、「困っている人を助けずにはいられない」のは、のび太の持つ最高の長所なのであった。 のび太の2つの取り柄が救った別世界の物語である。
作中では、冒頭での「野球チームでいじめられるのび太」と、結末における「ギラーミンと対決するのび太」の対比が、「同一人物の立場の変化」を克明に描き出している。
人は、その立場によって、ヒーローにも、弱虫にもなるのだ。なかなか示唆的である。
・大魔境
テーマは、 「地球はもっと、奥深い」。架空(、と思われる)の「ヘビースモーカーズ・フォレスト」直下の世界を舞台に繰り広げられる冒険活劇だ。
なぜか注目度の低い本作であるが、バウワンコ王国に到達するまでは、ちょうどこの時代に流行し出した正統RPG調のノリで、まったく飽きさせない。「NASA」「軍拡」「衛星写真」など現実世界の科学を説得的に用いながらも、その科学の埒外にある異世界、異人類、タイムパラドックスなどの要素がふんだんに散りばめられ、SF作品としても大いに楽しめる出来になっている。
もう少し時代が下っていたら、「雲の王国」ばりに「環境を破壊する悪徳人類を滅ぼす」という内容になっていた可能性もある。本作はその方向に走らなくてよかったと思う。
そのほうが、素直に物語を楽しめるからだ。
・海底鬼岩城
「機械に通じた、人間の心」がテーマだ。
ロボットSFではしばしば、「機械と人間の対峙」がテーマとして描かれるが、<少し不思議な生活ギャグマンガ>たるドラえもんの世界では、たまに「機械にばかり頼っていては人間がダメになる」という風刺的なテーマでのストーリーが描かれはするものの、「機械と人間」、それ自身が物語のテーマになることはなり得なかった。そういう意味で、「大長編ならでは」のストーリー展開はなかなかに新鮮である。
地球人(静香)の心を汲み、バギーは海の藻屑となった。バギーが身を投げ出したのは、「地球のために」ではない。愛する「静香のために」である。機械と人間の心が真に通い合った瞬間である。愛の力。
一方、かつての海底人が残したもう1つの機械、それがポセイドンであった。ポセイドンは、その海底人のエゴを、誰とも心を通い合わせることもなく、ひとり静かに爆発させ、バギーとともに海に散っていった・・・。
相対峙した2つの「悲しき機械」の見事なまでの対比が、本作を冷たく彩っている。もっとも、「冷たさ」が興行的に響いたのは否定できないが、作品としての質は非常に高い。
前半に描かれた「海中キャンプ」のくだりも、ドラえもん的「こんなこといいな、できたらいいな」の世界で、見ていて非常に微笑ましい。もっとも、前半の調子から行くと、後半が暗すぎる、との感は否めないのだが。 しかし、これは意図的に対比されているように思えてならない。
さて、本作もう1つのテーマが、「核世界へのアンチテーゼ 」である。核を結果的に業として背負うことになった「海底人」の哀れな末路は「共倒れ」であった。それはただ、無言の世界として、私たちに「虚しさ」を—ただ静かに、悲しく訴えている。
今、こういう作品を作ろうとすると、絶対に「僕たち、核を持たないようにしよう!」という直截的なメッセージになってしまう。これでは軽いし、何よりむしろ「乱暴」なのだ。本作のような描き方をできる「新ドラ」は、果たして登場できるであろうか? 難しいだろうな。時代が許しそうもないから。
・魔界大冒険
前作が重すぎたためだろうか、舞台は現実世界から離れ、「少し不思議なパラレルワールド」 に移行した。もっとも当時、小泉今日子を起用して「グリーンドラえもんプロジェクト」なるおそろしく現実的なキャンペーンを実施していたくらいだから、少なくとも製作サイドにはドラえもんという「商材」をそういう「環境教育」的使用という、現実社会のメッセージ大使
(プロパガンダ)としてどんどん狩り出していこう、という意図があったであろうことは想像に難くないのだが・・・。
閑話休題。
さて、本作はそもそもがパラレルワールドの物語なので、救世主ドラミの登場を以て「終了」とすることもできたはずだ。しかし、 一度作ってしまったモノは「ハッピーエンドにする責任がある」、これが—「作った者」の責務のようである。それを訴えるドラミの口調は、本作のどの登場人物のものより強い。
そこから導かれる本作のメッセージは、「現実はリセットできない」だ。例え、それが作った世界であるにしても。こういうメッセージが発せられるようになってきたことは、テレビゲームの普及とあながち関係がないでもないように思える。「リセットできない世界を一所懸命生き抜く ことが、生きることの証」ということだ。そんなメッセージ性を感じる。だからこそ、妙なリアリティがある。そこが本作人気の秘訣かもしれない。
・宇宙小戦争
本作の特徴は何と言っても「パロディの妙味」。
宇宙の極小惑星における戦争に「コビト」として巻き込まれたのび太たちであるが、そもそもが極小惑星での出来事ゆえ、「どんなものにも有効期限がある」というドラえもんの台詞が重要な伏線となって—そもそもの発端となった秘密道具 「スモールライト」の期限切れで—再び「巨大化」することができたのび太たちにとっては、敵であるPCIAの独裁将軍ギルモアなど「へ」でもないのであった・・・。
最終的には本作、「ガリバー旅行記」が大きな下敷きにもなっていたのだと、気づかされるのである。
空前絶後の「奇作」だと私は思う。
・鉄人兵団
本作は
「シリーズ最大の<地球滅亡の危機>」
。「ドラえもん」史上、ここまで地球がピンチになったことはないだろう。鏡面世界とはいえ、世界中の都市が焼き尽くされる描写には戦慄させられる。
そして壮絶なのは、兵団の最期であった—。タイムマシンによって、現メカトピアの誕生史が、メカトピアの住人によって「消滅」させられるという—そう、そもそも「なかったこと」にしてしまうという—非常にアクロバティックなストーリー展開。のび太と静香の「やさしさ」が、1人のロボットに「過ち」を悟らせ、分からせ、 最後に、背負わせた。この事実は、なかなかに重い。
なんだかほろ苦いわだかまりが残る作品。
・竜の騎士
バンホーはじめ地底人は、見た目がどれも怖い。これは綿密にストーリーが練られた結果であり、現在のように「キャラありき」の制作に堕してしまっては、とうてい出てこないリアルさだと思う(→ほめています)。
実は「地底国」というモチーフ自体は「大魔境」にも出てきているのだが、今作はそもそも「のび太の0点の答案を隠す場所」がきっかけで見つかった世界が舞台。しかもそこは、「東京の川の底が入り口」、と恐ろしく身近な秘境であった。これに時空が絡んでくるのでSF(すこし・ふしぎ)感を増している。「日常の中の非日常」という世界観が余すところなく描かれているという点で、この作品はF先生的世界観 という点で、紛れもなく抜群のシーン設定なのである。
地底世界の「ヒカリゴケ」。ここを見て、ドラえもんが不思議がるシーンが本作最大のキモなのだが、映画ではそこが丸々カットされていて惜しい。
・日本誕生
舞台は7万年前の日本。「土地は昔、誰のものでもなかったはず」というスネ夫らの素朴な疑問から出発している。
描かれたのは89年の日本—すなわち、バブル期の土地問題が下敷きになっている。のび太、ジャイアン、スネ夫が、はるか昔に「自分の土地」を争って争奪しようとするミニ・シーンは、
皮肉たっぷりで、世相をよく反映している。そう思って観賞するとなかなか奥深いものがある。
本作ではドラえもんがヒカリ族を大陸から日本に移住させたことで、「日本人」を作ったことになった。「日本誕生」というタイトルは、実はかなり意味深いのであった・・・。 毒のない良作。
・アニマル惑星
本作のテーマは、
「人類もニムゲみたいになっちゃうぞ!」。
かなり環境問題に対するメッセージの強い本作。作者自身が、「メッセージ性が強すぎた」と語っている通り、確かに、20年以上経った今見てみると、ちょっと強烈だ。
原作では「動物=善」、「ニムゲ=悪」という善悪二元論だったが、映画では若干、オブラートに包まれ、「動物=善」、「ニムゲ=善悪取り混ぜた存在」という風に描かれていたように思う。ニムゲにも心を入れ替えた人がいる、と。そうでないと逃げ場がないものね。
作品のプロットは面白いし、世界観もメルヘンで好感が持てるのだが、一方で「ドラえもん」を使って「環境教育」の押し売りをする「オトナ」の存在が作品の背後に見え隠れして、何となく違和感を持ったのも事実。
・ドラビアンナイト
前作のメッセージ性が強すぎたためか、今作は、ある意味で「いつものドラえもん」らしい調子で物語が進んでいく。絵本の世界とアラビアンナイトの世界がどこでどうつながっているのかは、
解読してみても、なかなか「謎」なのだが・・・
静香(姫)を助ける4人の男たち—という、ある意味でスーパーマリオ調の分かりやすいストーリー展開なので、子どもにとっても理解しやすい話だろう。かなり毒が抜けていると言えば抜けている。
強いて描かれたテーマを挙げるとすれば、「いつまでも情熱をもとう」ということだろう。年老いた船乗りシンドバットを反撃に駆り立てたのは、「あの頃の夢」だったはずだ。
・雲の王国
前半は、非常にドラえもんらしい夢あふれるお話。「雲の上に乗れたらいいな」という誰もが一度は思う夢を見せてくれた。個々でみると、すごくよくできたストーリーなのだ。特にクライマックスである、「雲もどしガス」のタンクに単身、突っ込むドラえもんの献身的な姿に感動しない者はいない。
「どこでもドア」「迷子探し機ごはんだよ」といった道具が、物語を支える重要な伏線となっている。1つ1つの道具と、それを使ったストーリーが重層的に練り上げられて1つの作品になる姿は、見事としか言いようがない。
しかし、あまりにもメッセージが強すぎる。後半からのテーマは 「ネオ環境論」 としか言いようがない。「天上人=善」、「地上人=悪」という完全な善悪二元論で物語が進んでいく。あまりにも乱暴だ。裁判に一方的に掛けられる地上人代表としての静香の姿は、「哀れ」としか言いようがない。
原作ではそこまで描かれなかったが、映画では最後に、のび太やドラえもんが手を取り合って(環境を)「守ろう、守ろうよ!」と絶叫している。これなど、左翼教師の学級会だと断ぜざるを得ない。
本作の後半部分は現実問題として作者の体調不良があり、ストーリー構成に充分な関与ができていなかったのだろう。それゆえ、「ドラえもん」を使って「環境教育」の押し売りをする「オトナ」の存在が露骨になったと私は推測している。それは、いったいどういう「オトナ」だったのか。別に知りたくはないが、しかし、一時期のドラえもんビジネスの取り巻きに、そういう存在があったことは、何となく嗅ぎとれるのである。
・・ということで、個々でみるとよくできたお話で好きなのだが、後半が実に惜しい。
なおクライマックスの「雲もどしガス」のくだりは核兵器へのアンチテーゼだろう。「おどし、おどされ」では、結局、どちらも滅びてしまうしかないのだ—ということを暗に仄めかしている。 これは映画館で結構感動して観た記憶がある。
・ブリキの迷宮
本作のテーマは、「道具に頼り過ぎて、道具に使われる羽目に陥った人間の悲哀」。ドラえもんの道具に頼りすぎるのび太と、道具に頼りすぎてナポギストラー(ロボット)の奴隷になったチャモチャ星人。イソップ寓話のような教訓話として、大人も、子どもも楽しみながらも身につまされるストーリーだ。
ある意味で原点回帰のストーリー構成で、要するに「何かに頼らず自分でできるようにならないと、駄目人間になってしまうぞ」ということを言っている。わかりやすさという点では近年類を見ない作品であった。
「自分の力で」—先述したが、これがそもそもの、「ドラえもん」の重要なテーゼなのだ。便利な道具を使ってのび太を助けるのがドラえもんの仕事なのではなく、便利な道具を使ってのび太の自立を助けること こそが、ドラえもんの使命なのである。
本作は、改めて、未来からやって来た「薄弱児の自立支援員」としての『ドラえもん』の本質を、くっきりと浮かび上がらせてくれたのである。
・夢幻三剣士
本作は「魔界大冒険」以来のパラレルワールド。しかし「夢と現実を逆転させる」道具の使用と、「実際に主人公が"死ぬ"」危険性があることで、一挙に緊張感がもたらされた。
しかし所詮は想像世界の話。「気ままに夢見る機」が回収されてしまえば、「終了」になるはずだった。しかし、これも「魔界大冒険」と同じパターンで、 一度作ってしまったモノは「ハッピーエンドにする責任がある」、これが—「作った者」の責務のようである。それを訴える妖精シルクの口調は、本作のどの登場人物のものより強い。
ということで、本作のメッセージは、「現実はリセットできない」ことを強く訴える。例え、それが作った世界であるにしても。
こういうメッセージが再び発せられた背景には、このころから盛んになってきたバーチャルリアリティ(仮想現実)の普及とあながち関係がないでもないように思える。
・創世日記
テーマは面白い。個々のお話もよくできている。が、しかし、個々の短編をくっつけただけではなかなか大作にはなりにくい。良くも悪くもオムニバス映画、という批評をせねばならないだろう。
日常の短編の延長から最後まで抜け出せなかったのが苦しかった。
明確な「敵」を作りにくかったのが難だった。地底人ハチビリスがジャイアンとスネ夫を執拗に追った挙句、とうとう拉致したのも理由も分かりにくかった。・・・残念ながら。
嫌いではないのだが。
・銀河超特急
これまでの大長編の集大成的作品。前作同様、ある意味でオムニバス調ではあったものの、それらはすべて伏線。静香の風呂も、ジャイアンとスネ夫の忍者の星冒険も、すべて最後は「のび太が寄生生物ヤドリを撃退し、銀河系を救う」大団円のための序章であった。
明確なテーマ性は帯びていないが、ドラえもんの持つ「夢」「楽しさ」「ワクワク感」「ドキドキ」が詰まった良作だろう。