このページの作者の、ファンとして「ドラえもん」を応援していく立ち位置
■私(ううせいじん)が、どういう立ち位置のドラえもんファンなのか、その立場を表明します。
■三土たつおさんが、その編著書『街角図鑑 街と境界編』で、「なぜそれが好きなのか」は「なぜ」と問うこと自体が誤りだ、という痛快な説を展開されていました。まさにそうで、私なぞ、「ドラえもんが大好き。なぜなら、そこにドラえもんがあるから」としか言いようがないわけです。「(その人の)好きなもの」に対する結論も痛快で、「見すぎてわけが分からなくなること」とありました。これもただただ、首肯するほかないのです。「ドラえもんとは何か」を一言で表せる術など、ありません。好きすぎて、一言で言えるわけがない。見すぎて、何が何だか答えようもない。これが私の、「ドラえもん」に対する基本スタンスです。それだけ「好き」ということです。
何よりも、「持続可能」なこと。「100年ドラえもん」が発売されましたが、まさに、100年先にも残ってほしい漫画である、というのが一番です。
したがって、大山ドラからわさびドラへ転換したことも、「ドラえもん」の大衆作品としての寿命を、結果的に20年単位の時間軸で延命し得たという意味で、「関係者の大英断であった」と考えています。もちろん、幼少期の郷愁という意味では原作と大山ドラ時代が一番好きですが、一方で、今の子どもたちは「大山ドラ」も「わさびドラ」も等しく楽しんでいます。これはまさに「持続可能」な未来への継続が成功した事例そのものと言えるでしょう。
「変化」に適応しなければ事物は滅んでいきます。不断の努力でドラえもんの未来への継承に尽力している関係各位に敬意を表します。「変化」をしていかなければ、「ドラえもん」の大衆作品としての寿命は、もしかすると2000年代前半で潰えていた可能性もあると、今にして思います。そういう意味では、児童マンガの王道として、「過去の読者も、未来の読者も大切にする」というスタンスはとても大切だと考えます。
藤子・F・不二雄先生の自薦集でもある『てんとう虫コミックス ドラえもん』1~45巻をもっとも愛し、この作品群を「原典」とおきます。『藤子・F・不二雄大全集』の発売により、すべての「ドラえもん」作品を楽しむことができるようになりましたが、何よりも、この<原典>をすべての基本と置く立場です。
しかし、「原作原理主義」ではありません。私は、原典から派生する「大長編」や「ドラえもん プラス」等の単行本はもちろん、アニメ、映画、ゲーム、その他あらゆる「ドラえもん」に関する事物も「ドラえもん世界」の一部として受け入れ、その世界の広がりを愉しんでいます。
とはいえ、好きな作品(≒育った世代)の傾向はありますので、そのスタンスは明確にしておきます(繰り返しになりますが、これは、それ以外のものは認めない、という「原理主義」ではありません)。
【もっとも好きなもの】
(1)原典作品
(2)映画 初代「のび太の恐竜」から「銀河超特急」まで
(3)アニメ テレビ朝日版初代(いわゆる大山ドラ)
ドラえもんは児童漫画であるがゆえに、特に「言葉狩り」の対象(自主規制を含む)になりやすい作品でありました。しかし、「よいもの」「悪いもの」は、大人が決めるものではなく、子どもが「自分で判断」します。子どもの判断力を見くびるべきではありません。「悪いもの」は自ずと廃れ、「よいもの」は世代を超えて残ります。
「規制」において、最も攻撃を受けやすい、代表的な例が「静香の入浴シーン」です。これを、後世の人間が、「今の時代の倫理観・価値観に合わない(と批判者が思う)から」という理由で一律的に規制することは、何の意味もありません。見せたくなければ、その家庭の判断で見せなければよいし、何か留意すべきことがあれば、その都度、保護責任者が子に諭せばよい。ただそれだけの話です。
作品の一解釈として、のび太=藤子先生、静香=クラスにいそうな、藤子先生のあこがれの少女像です。「静香の入浴シーン」というのは、「10歳の少年(藤子先生)の、クラスのあこがれの女の子へ向けたいたずら心」の描写にほかなりません。言ってしまえばただの「少年のいたずら(ある意味、もっともどうしようもないもの)」であって、誰も、「おっさんの劣情」を掻き立てようなんて考えてもいないわけです。
どうも「感動映画」のために勘違いしている人が多いのですが、「のび太」はそもそも、「日本一ダメな少年」です。別に「感動売り屋さん」ではないし、「頑張り屋さん」でもないんです。ダメだから、すぐに道具に頼っては失敗ばかりするし、助平心で静香の入浴シーンを(多くは道具を使って偶発的に)のぞき見してしまうのです。のび太は「ダメな少年」なんです。すごくリアルな、「人間の弱さ」を体現している少年なんです。そういう境遇だからこそ、「ドラえもん」と「秘密道具」というチートが成立するわけですね。「いい人」だったら、物語がそもそも存在し得ないのです。まずはこの基本を押さえておかなければならないわけです。
で、「静香の入浴シーン」だけを取り上げて、これを「倫理観に合わない」と言って切り捨て、「亡き者」にするのは、作品への冒涜であり、「子ども心」への虐待であり、「反論できない一方的な正義で相手を困惑させる」という意味では、「暴力」ですらあると考えます。
もし、このシーンの描写が問題になるような社会的なコンセンサスが高まり、表現の是非が問われるようになったとしても、「これが描かれた時代背景」と「では、これから私たちが描くべきものは何か」という「問い」とセットで、少なくとも、発表された作品そのものに手を加えることには強く反対します(私は、上記で「持続可能性」についても触れました。これから発表される作品については、「倫理観は世に連れ」ということまでは否定していないことに留意していただければと思います)。
なお、「静香の入浴シーン」をポリコレ的な狭隘な思想で攻撃し、これが「成功」したとすると、やがて登場するのは、間違いなく「ルッキズム(美醜ポリコレ)攻撃」です。そもそも、「ジャイ子と結婚する未来を変えて、静香と結婚できる未来にする」というのがドラえもんの存在意義ですが、これを「ルッキズム」で攻撃すれば、「のび太は美醜で結婚相手を決めているのか、けしからん!」となり、「ドラえもん」そのものの存立が危うくなります。作品にとって、「入浴シーン」規制の是非は、関係者が全力で食い止めるべき防波堤であるとすら、私は考えています。
さて。ここで、唐突ですが内田英治監督の映画『ミッドナイト・スワン』の話をします。私はこの作品が大好きです。この作品は、所謂トランスジェンダーを取り扱った物語ですが、この作品には、一切の「説教臭さ」がなかったことが特筆に値します。ただただ、そこには「あるトランスジェンダーと、その周囲の人間が抱える<事実>」だけが描いてあったのです。私は、この「事実」が大切だと考えます。
あくまで私の解釈ですが、
もっとも、これらの描写が、
「反論できない絶対正義」という名の「石」を投げることができる人は、果たして、どのような人物なのでしょうか。
2020年12月29日公開