『ピーターラビット』の新訳版と旧訳版とを見比べてみると、いろいろと言葉の違いがあってとても面白い。そして、どちらの訳出も変わらず魅力的だと気づく。
ピーターラビットの話の魅力は、何と言っても「それぞれが、自然に生きている」世界観であろう。すなわち、誰もピーターのために生きていないし、誰もが自由に自分の「生」を謳歌しているというところにある、のだと思う。誰もが主人公である世界観が、独特のピーターラビットワールドを形作ってきたといえるだろう。
これはちょうど、『Dr.スランプ』に感じる気持ちに近い。ペンギン村の住民は、だれもセンベエ博士のために生きていないし、アラレちゃんのためにも生きていない。あかねもタローも、山吹先生も、ただただ、自分のために生きている。だから、生き生きとキャラクターが動いているのである。そもそも『Dr.スランプ』といっておきながら、動いているのはアラレちゃんである。「ピーターラビット」も同様で、別に「ピーター」が全部の話に出ているわけではまったくないのだ。『サザエさん』も類似の構造といえるだろう。
これと対極を成すのが、NHKの朝ドラ『なつぞら』である。これは、主人公の奥原なつの成功のために、(本人の努力ももちろん描かれているが、朝ドラという性質上どうしても)周囲の人が彼女の成功のためのお膳立てをする、というトーンで描かれていた。
主題歌を歌ったスピッツの草野マサムネが、何かのインタビューで、「この歌詞は、主人公ではなく、(居候される側の)夕見子のことを書きました」という趣旨のことを言っていて、私は「やっぱりマサムネって、すげぇ」と思ったことを今でも思い出す。主人公の成功の陰に、それを支えている人たちがいることを忘れるな、というメッセージだ。やはりスピッツはしっかりロックバンドなのである。
有名な「タロとジロの物語」を「南極のペンギンの視点」に逆転させた星新一の怪作『探検隊』を思い出す。ほんらい、何事も「主人公だけ」という視点はあり得ない。様々な視点で描かれてこそ、その物語は厚みを増すのだ。
それはフィクションの世界だけではない。現実世界でも同じである。答えは1つなんかでは、ないのだ。いろんな訳ができるように。