優先席の実否を考える

「優先席」という概念は本当に必要なのか。真のノーマライゼーションとは。

優先席という結界

都会の中に、不思議な結界がある。
電車の中やバスの中、誰もが見る光景。

それが「優先席」だ。

優先席とは、説明するまでもなく、高齢者や身体障害者、乳幼児連れや妊婦などに「席を譲る」ための席だ。
「弱者」へのいたわり、困っている人への手助けは、ごく一般の人間であれば誰もが否定し得ない概念である。

しかし、「誰もが否定し得ない概念」を盾にとって誤った施策が行われるということは、実は往々にしてある。そしてそれは、結果として、「誰もが否定し得ない概念」と矛盾 してしまうことさえあるのだ。

しかも困ったことに、「誰もが否定し得ない概念に基づいて行われた誤った施策」を避難することは容易ではない。「誰もが否定し得ない概念」を否定している訳ではないのに、「誰もが否定し得ない概念に基づいて行われる誤った施策」を批判すると、「誰もが否定し得ない概念」を否定しているように受け取られがちである。

その端的な例が「平和と軍隊」の問題である。

「誰もが否定し得ない概念」に基いて行われる誤った施策を批判することの難しさ −「憲法9条批判」を例に

「平和を守ること」が大切であることは、確かに「誰もが否定し得ない概念」である。しかし、ケンポーを文面を変えずに守り続けることは 、「誰もが否定し得ない概念に基づいて行われた誤った施策」に他ならない。

何故「誤った施策」なのかを即時的に論ずることは出来ないし、現行憲法の「おかしさ」については各所で論じられているところであるから、ここで深く立ち入る必要はないだろう。だがそれであっても、 敢えてここでいくつかの例を挙げておく。

なお、日本はGDPが世界で2番目に多い経済大国である。人口も世界で7番目に多い。国内大規模災害やテロリズムへの対処、国際貢献(≒米国への貢献)の必要性の高まりといった現代事情もある。また、近隣諸国においては懸案事項が山積している。「 日本に軍隊が必要か不要か」という議論は不毛であるということを前提として(必要に決まっていることは論を俟たない)、話を進めたい。

まず、「自衛隊と憲法9条」について考えてみる。自衛隊は誰がどう見ても明らかに軍隊であり、これを解釈(まやかし)で「軍隊ではない」というのは非常に大きな無理がある。このまま解釈、解釈で「軍隊ではない」と嘘をつき続けるのはむしろ危険すぎる。 国家が「自衛隊」を「軍隊」として、その位置づけを明確化しなければ、自衛隊は解釈でいかようにも拡大できる無制限の「実力部隊」になってしまう。それこそ「9条愛護団体」の言う「 平和への脅威」とならないか。

憲法9条を「平和の拠所」として、唯一絶対のものとして守ることが、実は 自衛隊という「実力部隊」の位置づけを曖昧化する、もっと言えば「平和に対する脅威」となっているのである。

つまり、こういうことだ。憲法9条があるために、「自衛隊」を「軍隊」と呼べない。だから(現実に必要な)自衛隊の活動は憲法上に根拠を置く事ができず、事実上、解釈 の積み重ねによって実質無制限的な活動のできる「実力部隊」とならざるを得ない。これこそ「平和への脅威」ではないか。解釈によって「実力部隊」と呼ぶようなまやかしはせず、堂々と「 自衛隊は軍隊」と宣言するべきなのだ。そのためには、憲法9条を改正するほか道はない。日本は紛うことのない「大国」となっている。そんな国が「軍隊」を持てないなんて、不可思議極まりないではないか。

法律は万能ではない。文書にコンパクトに収まった文言より、現実の方がはるかに複雑なのは当然だからだ。軍隊が必要である以上、ケンポー9条を守ることは「誰もが否定し得ない概念」を盾にした「誤った施策」であると断言できる。しかも前述したとおり、この施策は、「誰もが否定し得ない概念と矛盾」・・つまり、「平和 を守ること」と矛盾してしまっている。

もう一つ例を考えてみよう。「国連軍」について。国連については色々と言うべきことがあるのだが、それはまたの機会として、ここでは国連憲章第43章を紐解いてみよう。

特別協定
「国際の平和及び安全の維持に貢献するため、すべての国際連合加盟国は、安全保障理事会の要請に基き(ママ)且つ一又は二以上の特別協定に従って、国際の平和及び安全の維持に必要な兵力、援助及び便益を安全保障理事会に利用させることを約束する。この便益には、通過の権利が含まれる。」

これは国際平和の維持のために、安全保障理事会と国連加盟国との間に結ばれる特別協定によって、安保理が利用できる「国連軍」を予定した条文である。

日本国憲法9条は、明らかにこの協定と矛盾している。国際平和の維持のために、いざというときは兵力の提供をも「約束」しなければならないのに、日本国憲法上、兵力(軍隊力、国際法上は「戦闘に従事できる人々の集団」)を持つことは出来ないのである。

ではいざ、国連軍に兵力を供出するとなったときに、日本はどうするのか。憲法9条があるから国連憲章の「約束」を反故にせざるを得ないというのか。それは果たして国際平和のためになるのか。答えは そうはならないに決まっている。ということは、前述した通り、ケンポー9条を守ることは「誰もが否定し得ない概念」を盾にした「誤った施策」であると言えないか。そしてこの誤った施策は、「誰もが否定し得ない概念と矛盾」・・つまり、「平和 を維持すること」と矛盾しているのである。

この「国連軍」と憲法との兼ね合いは、日本が国連に加盟するときに大いに議論されて然るべきだった。しかし、当時は冷戦の真っ只中である。相次ぐ拒否権の発動で、安保理の要請が必要な国連軍がまともに機能するはずがなかったのである。したがって、当然に予想された「憲法と国連憲章との重大な矛盾 について」の議論はスルーされたものと予想される。ポスト冷戦の今こそ、この観点が議論されてもよいのではないか。

私はここで、「憲法9条を守ること」を批判した。今はそんなことはないと思うが、一昔前であれば「平和の敵っ」と怒鳴られかねないホットな議題である。しかし、私は憲法9条を批判しても、「平和を守ること」を批判したわけではない。「平和を守ること」を批判したのであれば「平和の敵」と怒鳴っていただいても構わないが(ここでは敢えて議論を単純化しているだけで、本当はそんなに簡単なことではないが)、憲法9条を批判したことで平和の敵として非難されることは納得しかねる。

でも多分、この主張は簡単には受け容れてもらえそうにない。なぜなら、「憲法9条=平和」というイメージが戦後の日本社会の中で既成事実化してしまったからだ。憲法9条と平和護持は表裏一体のものとして人々に認識され、憲法9条を批判することは、即「平和を守ることを批判する」ことになってしった(憲法制定当時はともかく、朝鮮戦争以降の東アジア情勢と日米安保体制の推移を見る限り、憲法9条は形骸化しており、「9条護持」と「平和護持」とは全く別個の問題であるとしか考えられない)。

優先席は本当に「弱者保護」に供しているのか

「誰もが否定し得ない概念に基づいて行われた誤った施策」のひとつに、「優先席」が挙げられるのではないだろうか。

誤解のないように、というかここまでしつこく「誰もが否定し得ない概念に基づいて行われた誤った施策」というフレーズを使っておけば大丈夫ではあると思うが、念のために書いておくと、私は高齢者や身体に不自由のある人、乳幼児連れ の人に席を譲るのは至極当然のことであると考えているし、それは極めて一般的な、「誰もが否定し得ない概念」と考えている(もっとも、こういった概念をもっともらしく話すというのは実に気恥ずかしいというか、偽善的で非常に虫が好かないのであるが)。

問題は、この概念そのものではない。この概念に基づいて行われる誤った施策の方にあるのである。

優先席の実際

優先席、それは別名「気まずいゾーン」だ。「弱者保護」を錦の御旗に、都会の公共空間に「結界」を張っている。

ラッシュ時はともかく、やや空いている昼間の電車。立っている乗客が居るのに優先席はガラガラ、ということが往々にしてある。私はこの光景を見るたびに、優先席の虚構性について考えを巡らせてしまう。

こんなことがあった。ある中年女性が走って車両に乗ってきた。やっとの思いで椅子を見つけ、腰掛けて、嬉しそうにお茶を飲んでいた。その椅子は優先席ではあったが、極めて空いている時間帯であったし、他にも席は空いていたので何の問題もない。しばらくすると、その女性の近くに2人組の中年男性が通りかかった。椅子に座ろうとしたが、一人がこう言った。「ここ障害者の席だ、別のところ行こう。」 こう言われて気分のいいはずがない。その女性は非常に気まずそうな顔をして、別の車両に消えていった・・ 今でもこの女性の悲しそうな顔が浮かぶ。優先席は「障害者の席」ではない。「優先」席なのである。電車の中はガラガラ。なのに・・ これではノーマライゼーションという考え方の真逆、単なる「弱者囲い込み」ではないか。これは 差別に他ならない。

「優先席」を「障害者の席」と発言した中年男性の発言は、実際は間違っているのであるが、非常に当を得た見解であると思う。社会的な優先席の認識というものは、恐らくこの男性の述べるものに近かろう。

しかし、実際は、「優先席」というのは「優先」する「席」であって、通常は「弱者以外」でも利用してもよいはずなのである。しかし、現実にその「優先席」を利用したとして、目の前に該当の「弱者」が現れたとき、そこにあるのは「席を譲る」というルールであり、負担であり、一種の気まずさなのである。運賃を払ってまでそんな精神的な負担を蒙るのはごめんである。

ということで、一般的には「優先席」を「弱者の席」と断定し、自分がこの席に対して一切関与しないことで心理的な負担感を軽減する。しかしこれは、一種の思考停止である。弱者に対する思考停止 である。

もし、優先席に「弱者保護啓蒙」の意味合いがあると思う設置者がいたら、それは明確に間違っている。逆に、「弱者」と「そうでない人」との亀裂が生じるだけである。優先席は「誰もが否定し得ない概念」を盾とした 失策、思考停止の極みである。

席を積極的に譲るというのは勇気が居る。というか、そういった行為は「恥ずかしい」と思うのが普通で、中々進んで行うことが出来ない。そこで「席を必要としている人に席が積極的に提供され得る (譲られ得る)のが優先席」、というのが私の優先席に対する解釈であるが、私の経験から言って、優先席はそのような役割をほぼ持っていない。

例を挙げよう。
言いたくはないが、ついこの間、電車に乗っていたら、私の席が子供づれに囲まれ、私がどけば家族全員が座れる、という極めて気まずい状況に陥った。席を譲るのがセオリーだろうが、恥ずかしすぎるので駅で降りる振りをして泣く泣く席を譲った(始発駅でわざわざ走ってまで取得した席であったのだ)。このとき、周りを見て愕然とした。ドアを1つ隔てた優先席には・・ヘッドホンの騒音を響かせる若人の姿があったのである(もちろん彼が内部的に何らかの疾患者であるという可能性も否定は出来ないが、そうでない可能性の方が恐らく強い。そこまで突っ込むのはご勘弁願いたい)。というか、他の全ての優先座席(8席)が見たところ「普通の人たち」によって埋められていたのである。このとき確信した。優先席など要らぬ、と。というより、優先され得るべき席を限定することの無意味さを強くかみ締めた。このことについては後述しよう。

さて、もうひとつ優先席には問題がある。どうも「こういうことをしているのですよ」的な、なんだかアピール臭い要素を感じる点だ。 この点には、偽善性があるように感じて非常に気持ちが悪くなる。

優先席は不要だ−「全席優先」の思想

「弱者に席を譲りましょう」という正義のお題目があってなかなか文句を付けづらいのだが、現実には優先席は、弱者をエンクローズ(囲い込み)するだけの代物になっている。こうした虚構性を覆い隠すように「弱者に席を譲りましょう」という言葉が垂れ流しされる。実に悲しいことである。 そこからは、「こういう(いい)ことをやっているんですよ」というアピール(誰に?)しか見えてこない。費用をかけて実施するだけの効果が不透明なのだ。

優先席に見るさらなる問題点

これまで述べてきた以外にも、まだ問題がある。

まず、優先席で想定されている「弱者」の限定性である。優先席では、大抵優先されるべき人の定義を「高齢者や身体障害者、乳幼児連れや妊婦」だけとしている。では、体の内部に疾患を持った人はどう対処すればよいのか。高熱なのに出勤せざるを得ない人は対象にならないのか。徹夜続きで倒れる寸前の人は。試合帰りで疲れている高校生は。急性アルコール中毒で吐く寸前の人は。海外出張の帰りにすぐ会議という超ハードスケジュールのビジネスマンは・・・等々、同じ運賃を払って、今挙げたような人が席から追い出されるという状況は「あり」なのか。もちろんこれは半分冗談だが、この「対象の限定性」は到底看過できない。もしかして、まさかとは思うが、「特定弱者の囲い込み」を始めから狙っていたのでは・・とも思えてくる。

そして、先ほど少し述べたが、最大の問題であるのが、「優先され得るべき席を限定することの無意味さ」である。はっきり言って、自ら「私は優先されるべき人です」といって優先席へ向かう人はまずいない。基本的には、誰でも、自分の乗った車両の空いている席に座るというのが常識的である。 「優先席に狙って乗る人」というのは中々お目にかかれない特異な部類に入ると思う。とくに、急いでいるときはそんなことには構っていられないではないか。

真の「ノーマライゼーション」の観点から

そもそも、ノーマライゼーション社会を実現すべく(だと思うのだが)設置されている「優先席」であるが、本当にノーマライゼーション社会を実現したいのであれば、本来的にこうした「囲い込み施設」は不要のはずだ。すなわち、こうした施設に財を投入するのは基本的に大間違いである。囲い込み施設は単なる「弱者」と「そうでない人」との区別装置であり、この区別が明確に成されたからといって弱者にとっての「ノーマライゼーション」は子供の描く「のーまらいぜーしょん」でしかない。

だから、本当にノーマライゼーションという言葉を用いるのであれば、実際は、「どの席も譲られて然るべき」なのである。どう考えてもそのようにしかならない。全席優先、という言い方には語弊があるが、とにかく、「どの席も譲られて然るべき」ということにしかならないはずだ。ここで、「どの席も譲られて然るべき」ということと、「優先席など要らない」というのはトートロジー(同語反復)に他ならない。つまり、「優先席など要らない」のだ。

本当に必要とされているものは、エレベータの全駅設置だとか、弱者が「走らなくても電車に乗れる」ようなダイヤ設定、駅施設(特にホーム)の拡幅や見通しの改善、「誰もがいつでも座れる」ような列車の頻繁輸送、そういったものではないだろうか。優先席に使われる全てのコストを、このようなもっと実際に役立つ分野へ投入したほうが、どれだけよいことか。空気のこわばりをつくるだけの「優先席」より、どれだけよいことか。

ホームの構造上、列車の乗換えが複雑で、また乗り換え時間が極めてシビアなC駅の例を挙げる。以前、乗換えを急ぐおじいさんが、私の目の前で、階段から落下するという痛ましい事故があった。幸いにして彼は意識もはっきりとしており、立って救急車に向かうことができたが、頭部が血まみれとなっていた。

こういった事故を減らすために出来ることは、エレベータの設置、複雑な乗換えをしなければならないような劣悪な駅施設の改善、そして乗り換え時間を気にしなくていいような頻繁輸送など、ハード・ソフト両面でのケアである。これを実現することこそがノーマライゼーション社会の使命ではないのか。

「優先席に掛かるコストを、もっと効果のある分野へ投入すべき」

これが、私の主張である。

補足

本当の意味での「優先席」が必要な場合について。

すでに一部の列車には「車椅子スペース」が設けられている。それに準じた形での「優先席」というものは設けられて然るべきと思うが、それはまた別の議論である。

優先席を事実上「廃止」した事例