教育と反駁
●均等
「赤信号 皆で渡れば・・・」 なんてお笑い標語があるが、
今や、
「運動会 皆で走れば 怖くない」 である。
本当かどうか知らんが、
最近の運動会は
純粋な徒競走をしないところが多いらしい。
徒競走をするにしても、
「足の速さが同じような人」を集めて走らせたり、
「障害物競走」のように バラエティレースにしたりして、
何が原因で勝ったか分からないようにして、勝敗を決めるらしい。
言いたかないが、
「戦後民主主義」ここに極まれり、である。
そんなに「皆一緒」がいいのかねぇ?
だったら、「個性」とか言うなって。
●ゆとり
ゆとり教育 と聞くと、
「円周率が3」
とかいう話に目が行きそうだ。
が、
ことの本質は、それではない。
「ゆとり」って、誰にとってのゆとりなのか。
これは、命題である。
「ゆとり」とは?
今まで月2回だった土曜日の休みが、月4回になる。
その意味での「ゆとり」である。
つまり、
生徒はもちろん、
学校教師が
土曜日に休める という意味での
「ゆとり」
なんじゃないか?
つまり、これは教育問題だけで括ることではない。
一種の労働問題でもあるのでは?
・・・
少し疑ってみる必要がある。
話がおかしくなる原因は、
「学校の先生だって土曜日は休みたい」という労働問題を、
「子供にゆとりを」という教育問題に
すり替えたこと
なのではないか?
なぜなら、
教育内容がどんどん減らされているのに
さらに減らす
この神経が
分からない。
からだ。
減ったら減った分、
子供は
ますます
ますます
勉強をやらなくなる危険性がある。
というか、
俺だって絶対量が減ったら
勉強総量を減らすだろうよ。
そんな中。
塾産業は
少子化だというのに
生徒数を増やしている。
つまり、
塾通いの子供が益々増えている。
土曜日という休みが増えた子供は、
逆に 学校外での「勉強」を増やすことになった。
それで、
どこがゆとりなのか。
つまり、この「ゆとり」、
教師に対する「ゆとり」といえないか。
これでつじつまが合う。
それならば、導入時に、そのように国民に説明すればよかった。
「学校教師にも土曜日の休暇をとってもらうことにした。
それゆえ、公立学校は完全週休5日制となります」と。
これについての是非はここでは書かぬが、
議論そのものは 至極単純化される はずである。
とにかく、
「ゆとり」とは、
土曜日が完全に休みになることをもっての
「ゆとり」なのである。
それなのに。
いたずらに
「こどもにゆとりを」
と訳のわからないことを言っているから、
話がおかしくなるのである。
話のすり替えが、巧妙に行われている。
何て国だ。
教育は百年の計、のはずなのに。