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外部から乗り込んできた金の亡者、腐れコンサル会社の作った「さあ、みんなで働き方改革をしよう」といううんこビデオを強制的に視聴させられた時、こんな金払うならボーナスに回せ、人増やせと思った。ただのクソコンサルの「肥し」であると悟ったからである(個人情報保護やコンプライアンス、環境経営と同じで、経営コンサルの新しい稼ぎ口でしかない)。

以降、絶対に「働き方改革」なる言葉を信じるものかと固く心に誓った。机上のバカコンサルによって、「働き方改革」なんぞに協力する意思はゼロになったのだ。そんなクソコンサルに多額のフィーを払う会社も間抜けである。

どこもかしこも「働き方改革」の号令で、やろうとしていることは単に「成果を変えないまま業務時間だけ削減してみせる、一方的に労働者が損をするゲーム」である。それを考えるための「なんちゃって会議」が、定時後や休日に行われるという悪夢のような出来事が現在進行形で進んでいる。

で、その「なんちゃって会議」で出てくる結論は「ノー残業デーを設けよう」「強制有給の取得」「テレワークの推進」・・・と、サルでも思いつくうんこのようなゴミクズプランばかりだ。

業務量そのまま、評価基準そのまま、給料そのままで時間だけ削り、成果だけは「それ以上」を求められるのである。そりゃ、「個々人の工夫」の域を超えて「持ち帰り仕事を増やせ」と言っているだけではないか。

有害な「だらだら会議」「とりあえず会議」「とりあえず報告書」「安心のための勉強会」「フィードバックのない報告書」、そして「プロセスが不明確な評価と給与体系」はそのままであるし、そもそも同じ職場に管理職、裁量労働者、時間労働者、年俸制のシニア、アルバイト、有期雇用契約労働者、時短勤務者・・・と、働く動機も目的も違う人々が集っているのだ。「時間だけ削って」うまくいくわけがない。

働く動機など、「自己実現」「稼得」「他者貢献」「周囲が働くから何となく・・・」とそもそも様々であり、本来はそのあたりの動機を高めていく(会社のビジョンに馴化させる)施策をまずするべきなのだが、それもないまま「とりあえず働く時間を減らせ」では、何の成果にもつながらない。無意味である。脳みそついてんのかな、と思う。

だいたい、「あなたのためですよ」といって近づいてくる輩は100%詐欺師である。「働き方改革」は、出だしからして「みんながハッピーになれる施策」という胡散臭い新興宗教やねずみ講の勧誘のような腐臭がしていた。ぜったいに胡散臭い代物なのだ。

今、改めて思う。「働き方改革」は、為政者や指導層を生き永らえさせるためだけのものである、ということを。「働き方改革」の本質は、今よりも短時間で成果を上げる奴隷をつくることだ。そしてそれが急がれる理由が3つある。

1つめは、「これまでの働き方に不満を漏らす奴隷が増えてきた」ことである。奴隷たる社畜に知恵がついて、権利意識が高くなってきたためである。さぞやエスタブリッシュメント層は苦々しく思っていることだろう。

2つめは、「労働条件が、生かさず・殺さずが難しいレベルにまで苛酷になってきた」ことである。
まずIT化。IT化は、間違いなく仕事の時間当たりの情報処理量を増やしてきた。「電話・FAX・郵送」でやり取りしていればよかった時代と比べて、一時に処理しなければならない情報量は爆発的に増えている。これは人間の脳にとって計り知れない負担を与えているはずだ。
次に育休を代表とする職場の慢性的な人手不足による「圧力鍋化」である(育休者は員数にカウントされるため、複数の育休者が出ると一般的には満足な人員補充はなされず、職場の1人当たりの業務負担は増えるのが普通だ)。これも「24時間戦えますか」の時代とは比べ物にならないほど、従業員個々にとっては大きな負担となっている。

3つめは、人口オーナス期による慢性的かつ構造的な人材不足で、今まで通りの待遇ではまともな人材採用が行えなくなりつつあるということだ。しかも、今や日本は特段「稼げる国」ではなくなってきているので、<移民>をアテにしていた財界層の目論見も外れてしまった(それが証拠に、最近は「移民」はトピックスにすらならないでしょう?)。

繰り返すが、「あなたのため」を言って近づいてくる奴は、「自分のため」。政府やエスタブリッシュメントが「あなたのため」という場合は、要するに為政者の生活維持のためなのである。

ということで、大多数の国民は「働き方改革」に協力する必要は全くない。面従腹背でもいいから、つべこべ言わずに労働力を提供し、黙って税と社保だけ納めていれば命だけは助けてくれるのが国と上流階層である。そのあたりを踏まえて、以下のことを思って生きていくのが精神衛生のためだ。

〇会社は平気で裏切るので、心まで尽くす必要は全くない(御恩と奉公の関係性は、今では幻想である)。
〇会社の理念は株主・オーナーと経営者のためのものであって、従業員のものではない(ビジョンを従業員のためと思わせるのは単に経営手法の一でしかない。それに共感する振りをできるのがビジネスパーソンの立ち居振る舞いであるが、それも手法の問題でしかない)。
〇すなわち、生活のために従業員はただただ、国と会社に「従ったふり」をすればよい。
〇政府や会社の号令の逆張りが、生活防衛につながる。豊かな生活を欲する「国民」と、黙って働く奴隷がほしい「エスタブリッシュメント層」は常に二律背反の関係にあるからだ。すなわち「消費しろ」というなら「貯蓄」をすべきだし、「投資しろ」というならその逆をすべきだ。「働き方改革をしろ」というなら、しなくていいのだ。どのみち、消費増税と東京オリンピック後の需要減、株バブル崩壊と不動産市況の悪化、団塊の世代が一気に後期高齢者になる時代が重なり、再び深刻な不況が来るのだ。今から生活防衛を図っておく(給与水準が微増している今こそ、消費は手控えて、投資もせずに貯蓄をしておく)ことのほうが、よほど「生活の改善」につながるはずだ。

従った振りをしよう、働き方改革。失せろ、クソコンサル。


公開:2018年2月3日

【常識(じょうしき)】
一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。common senseの訳語。(大辞泉)

「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉があるように、その時代、時代で常識は変わる。だから、「今」の常識で「過去」のことを断じてはならない、というのは、あらゆる物事に接するときのごくごく基本的な態度となる。

平成30年。節目の年である。多くのメディアで「30年を振り返る」という特集をしている。あれこれ見ているうちに、「あまり変わっていない」と思っていた「常識」が、この30年で大きく変わっていることに気づかされた。思いつくまま、「30年の変わりよう」を綴ってみたいと思う。

〇駅の改札口
首都圏では自動改札機が普及しておらず、まだまだ駅員による入鋏(にゅうきょう)が一般的だった。途中から「日付スタンプ式」に変わったが、技術進歩と合理化で自動化が一気に進んだ。その後、「Suica」「PASMO」などの非接触式ICデバイスが主流になった。

〇エキナカ
かつては「キオスク」「駅そば」、あとはせいぜいミルクスタンドや軽食喫茶くらいのものだった駅の売店・店舗だが、今や「本屋さん」から「病院・薬局」「眼鏡屋さん」まで駅の中で必要なものが何でも揃うようになった。

〇駅のトイレ
当時、駅にはトイレットペーパーが常備されておらず、自販機で事前購入するのが普通だった。空調もなく、どこか薄暗い空間であった。今やトイレットペーパーは当たり前、空調にBGMも当たり前、そしてベビーベッドから赤ちゃん用の調乳器までそろった「ベビー休憩室」が備え付けられているのもまた、ごく一般的になってきた。

〇駅の時刻案内
改札やホームは、「パタパタ式」がまだまだ主流であった。「今度の電車は〇〇をでました」という行灯式の単純な表示器も現役の時代。今やLEDを超えてLCD(ディスプレイ式表示)も普通になっている。

〇電車の中の案内
はじめて乗る電車では、車掌さんの鼻がかかったアナウンスを聞き漏らすまいと必死に耳をそばだてる必要があった。今は自動音声で標準化が図られている。またドア上部のディスプレイ標示が一般的になっていて、「次はどこなのか」をいつでも把握できる環境になった。ディスプレイ表示も、最近ではLCD化がどんどん進んでいる。
(当時は山手線にだけ小さな液晶ディスプレイが付き始めたばかり。東京に行って最もびっくりしたことの1つが「山手線にテレビがついている」光景だったことを今でも思い出す)。

〇クルマ
法的にはシートベルト着用義務化、飲酒運転厳罰化。安全装置的にはABS、エアバッグ自動追突防止装置、パーキングアシスト、車線維持装置、車間距離維持装置、ドライブレコーダー。機能的にはパワーウィンドウカーナビゲーション。技術的にはハイブリッド、電気自動車、自動運転。技術の進歩は凄まじい。この30年で急速に「クルマの安全化・進化」が図られてきたことが分かる。
車と言えば、横断歩道のデザインが「梯子型」から「棒線型」になったのも印象深い(雨天時の水溜まりによるスリップ防止のためと聞く)。

〇個人情報
「製造物責任」「個人情報保護」「コンプライアンス」あたりの言葉は、平成中期からの流行である。最も大きいのが「宅配便は、留守時に隣宅に預ける」というやつ。隣の家が「キョロちゃんのおもちゃの缶詰」を当てて、それがうらやましくて仕方なかったことを今でも思い出す。今思えば大胆な時代だが、当時はそれが普通だったのである。卒業アルバムに全員の住所が乗っていたり、雑誌にも普通に誰かの住所が掲載されていたり(文通コーナーや作者の住所など)、なんというか、牧歌的な時代であった。

〇バーコード
当時はまだ、バーコードの移行期。コンビニですら、手打ちのレジがまだまだ現役であった。今や2次元バーコード(QRコード)、そしてICタグ・・と、商品管理の分野でもICT化が劇的な進化を遂げている。

〇パソコン
まだまだワープロの時代。PCと言えばNECのPC9800シリーズで、「PC/AT互換機」が主流になるとはまだ誰も想像も付かなかった。Windowsが一般に認知されていない時代である。

〇インターネット
パソコン通信の時代。Windows95が開拓した「インターネットの大衆化」により、ナローバンド時代が幕開け。当時はテレホーダイなしのインターネットは考えられなかった。インターネットと言えば「真夜中につなぐもの」だったのである。その後あっという間にブロードバンド時代が幕開け。ISDN、ADSL、光ファイバ、無線LAN、Wifi・・・と、大衆が享受できる技術は格段に進化していくのであった。

〇通販
通販と言えば、昔はテレビショッピング、カタログショッピング。今やAmazon、ヨドバシドットコム、「eコマース」まで話を広げれば「ヤフオク」「メルカリ」と個人売買も盛んに。ネットスーパーも盛況である。これを支えているのが宅配業。もはや立派なインフラだ。新築住宅には宅配ボックスの設置義務化・・みたいなことが必要な時代が来るのではないか。ドローン宅配なども現実味を帯びてきた。

〇パスワード
キャッシュカードの暗証番号は数字4桁・・・それに比べると、今の様々な認証の複雑さといったら!パスワードはもはや古く、指紋認証や虹彩認証、顔認証、声紋認証・・・「生体認証」の時代がいつの間にか訪れている。

〇テレビ
そもそも、今よりも「家族みんなで」見るものだった印象が強い。正方形(SD画質)のブラウン管は「お茶の間の主役」であった。今やアナログ放送は停波し、デジタル時代。テレビはどんどん薄くなり、形もいつの間にか長方形(HD)に。昔の選択肢は地上波一択だったが、BS、CS、ケーブルテレビと多チャンネル化も劇的に進んだ。

〇電話
平成初期、自宅ではまだ黒電話を使用していた。それがプッシュホンになり、FAXつきになり、便利な「子機」が使えるようになり・・・気づけば、「1人1台」電話を持つ時代に変わっていった。
当然、「1人1台」になったことで至る所にあった「公衆電話」が激減。「10円を気にしなくて済む」という点で画期的だった「テレホンカード」も、もはや全く見ることがなくなった。

〇携帯電話
ポケベル、PHSを経て、携帯電話時代へ。「10ケタ」から「11ケタ」に番号が増えたことは、記憶に新しい。白黒画面でも「メールが打てる」ことに興奮。「着信メロディ」も「ジリリリリン」「プルルルル」という呼び出し音しか知らなかった身には衝撃であった。そして「写メール」。「写真を身近な人にいつでも送れる」のは衝撃であった。
極めつけはiPhoneが起こした「スマホ革命」。「携帯でなんでもできる」というコンセプト自体はdocomoの「iモード」に一日の長があったわけだが、しかしこの黒船は「タッチ式の板」という電話の常識を根底から覆すほどのインパクトある外観で大衆に「新しい何か」という希望を与え、市場のガリバーになったのである。

〇ビデオ
録画やレンタルビデオはVHS、撮影は8mm、そんな時代である。ダビングを繰り返すと画質が大荒れしたのもいい思い出である。そうそう、「巻き戻し」という言葉は今は公式には使わないそうで、AV機器メーカーは「早戻し」と称するそうな。DVDやBDといったデジタルの光ディスク時代から、今やオンデマンド配信、それもストリーミング再生が中心で、ネットワーク上で完結するようになってきた。すなわち「コンテンツ」を<所有する>時代から<閲覧権を取得する>時代になったということだ。仮にコンテンツを保存したとしても、その保存先はHDDやSD、SSDが主流で、すっかり「ディスクレス」時代が到来している。

〇音楽
CDの普及が進んでいたが、家にはレコードプレーヤーが普通にあった。雑誌の付録にソノシート(ペラッペラのレコード)がついていて、それを聞いていたような時代(レコードはメディアとしては相当にコモディティ化が進んでいたのだな、と今にして思う)。
録音はテープ(カセットテープ)と相場が決まっていた。絡まった磁気テープをボールペンでグリグリ・・なんて、今の子どもにはわからないだろうな。その後MDなどの新規格が過渡期として登場するが、iPod/iTunesの登場を契機にこちらもデジタル配信が主流に。上記に記載の通り、コンテンツを所有する時代から視聴権を取得する時代に大きく変わってきている。

〇映画
当時、映画館は自由席制で、上映中の途中入場・退場も普通にできたし、その気になれば1日中居たってかまわない、そんな自由な空間であった。人気作品ともなると立ち見が普通だったので、「最初から座って見たい」と思ったら、1つ前の上映時間の後半から劇場に入り、エンドロールの入れ替え(だいたいの人は、席を立つ)のときに席を取る・・なんてこともそれこそ普通にやっていた。
それが今は「シネコン型」全盛に。「指定席制」かつ「入れ替え制」がすっかり当たり前になっている。

〇照明
白熱電球から蛍光灯へ、そしてLEDへ。ここまで「イルミネーション」がブームになったのも、LEDが急速に普及したからにほかならない。
家庭はもちろん、コンビニをはじめとする商店でも、そして駅から信号機に至るまで、ありとあらゆる場所で「長寿命・省エネ」のLEDは大活躍である。
LED化により、コンビニなどでは夜に虫が来なくなる(LEDの波長は虫が捉えにくい)ことで殺虫灯(青いバチバチするランプ)が不要になるという副次効果まで生まれている。一方で豪雪地帯では信号機がLED化されたことで雪が溶けず、信号が判別不能になるという外部不経済が発生しているという。なかなかすべてはうまくいかないものね。
蛍光灯は蛍光灯で、昔はもっと点くまでに時間がかかっていた(→ラピッドスタート型が普及)し、もっとチカチカして頭痛がした(→インバーター型が普及)ような気がする。本当に技術の進歩はすごい。

〇「嫌煙」
タバコは、昔は駅のホームでも、特急や飛行機の中でも、自由に吸えた。街中などは言わずもがなである。その後、急激に「分煙化」が進み、今や(特に健康増進法の施行を契機として)「嫌煙」に近いレベルでの喫煙者排撃が進んでいる(自治体レベルで見れば、歩きタバコも条例でどんどん禁止されている)。私は非喫煙者だが、客観的に見て、ドラスティックすぎるくらいドラスティックだとは思う。
「健康への害」そして「社会損失」という観点でタバコだけを規制するのであれば、実際は「お酒の飲みすぎ」「過重労働のさせ過ぎ」あたりも十分、規制するに値すると思うのだが、そうはならないところが不思議だ。
同じ「煙」という観点では、「学校からの焼却炉の消滅」も同じくらい過激であった。ダイオキシン騒動が契機であるが、日本中のすべての学校から一斉に「焼却炉」が消えたのである。これまた、どうもまあ何と極端なことよ、と私は感じたのである。こういう「一気呵成」な感じ、戦前の「欲しがりません勝つまでは」と一緒じゃないの?
付記すると、煙の出ない「電子タバコ」の普及も、平成初期からは想像の付かないテクノロジーの1つである。

〇飲料
缶の蓋がプルタブ式であった。いつの間にか、あっという間にプルトップ式に。スチール缶よりもアルミ缶の割合が圧倒的に増えたのも印象深い。
今ほどペットボトルは普及しておらず、1.5lばかりであった記憶がある。持ち運びのしやすい500ml、さらに手になじむ350ml以下などの登場は平成も中期になってからだ。今や「ホット専用」「ワイン用」「蓋がくっついたボトル」など、驚くべき進化を遂げている。

〇ゲーム機
当時は「スーパーファミコン」前夜、ファミコンの爛熟期であった。そんな中、「ゲームボーイ」が登場。白黒画面ながら夢はいっぱい。マリオランドやテトリスは、GBを購入した層は誰でもプレイしたのではなかろうか。
この当時誰が「手のひらで裸眼3Dを楽しめる」(3DS)、「高画質のフルHD画質をどこでも持ち運べる」(Switch)ことを想像できただろうか。

〇ロボット、AIの深化とICT技術の普及
AIBOASIMOPepperをはじめとする「愛玩型ロボット」の登場は、平成の一大トピックである。「鉄腕アトム」「ドラえもん」を生み出した日本ならではと言えようか(お店にふらっと立ち寄ると、ロボットが挨拶して出迎えるという光景は特段、特異なものではなくなっている)。
AI人工知能)はディープラーニングと結びつき、「自律学習」が進むレベルにまで至っている。実用化は次年代となろうが、その進化は「キャプテンシステム」で驚いていた平成初期とは比べるべくもない。
自動音声技術」も、登場初期と比べて著しい向上を見せている。近しい例は駅の案内アナウンス。どんどん自動音声化が進んでいるのが近しい例である。

〇物価

カテゴリ 1989(平成元)年 2017(平成29)年 備考
日経平均株価(年末) 38,915.87円 22,764.94円  
大卒初任給 160,900円 206,100円  
最低時給(東京都) 525円 958円  

タクシー初乗り運賃
(東京23区)

430円(2km)
+80円/370m
730円(2km)
※410円(1.052km)
+ 80円/237m
早朝深夜の割増運賃(10%)は平成2年から導入。
短距離の初乗り運賃は昭和54年頃の水準(380円)にまで値下がりした。
官製はがき 41円 62円 郵便番号は平成10年に「7ケタ」化。
NTT市内通話料金 10円 8.5円 3分当たり。
JR山手線初乗り運賃 130円 140円(IC:133円) 現金とICの二重料金制。
東京地下鉄初乗り運賃 140円 170円(IC:165円) 平成16年に営団は民営化。

公開:2018年1月28日

少しだけ関連するが、まったく違う話題から入る。

ヤマト運輸はすごい。「宅急便の値上げ」をするために、「ドライバーの長時間労働」という、現代最大のトピックスの1つである「働き方改革」にかこつけた同情作戦から入り、「値上げやむなし」と世論を味方につけた。以前、メール便を廃止した時も、「信書は郵便で」という総務省とのたたかいを演じて、「廃止やむなし」と、こちらも世論を味方につけた。本質的にはサービス低下なのだが、世論を味方につけるのがうまい。こういう企業戦略は、お見事というほかない。

メール便廃止にしろ、今回のAmazon再配達騒動にしろ、自分で売り上げ拡大のために「超小口」を狙ってインフラ的にシェアを拡大しておきながら(要は「ないと困るレベル」にまで浸透させておきながら)、その利益が思うようにでないとなると、何らかの正当な理由をつけて一気にサービスを縮小する・・というパターンである。ここに「民間」のパワーと同時に<限界点>を見出せるとともに、<ビジネスの拡大と手仕舞いの方法>という観点から見ても、今回の話は非常に興味深いのであった。

さて。ここからが本題。上にも少し出てきたが、ここからのお題は「働き方改革」である。

前回書いた通り、少し前の日本の成功モデルは「男が長時間労働し、女が長時間のケアワークで支える」という男女分業型モデルであった。これを時代の要請から「男女雇用機会均等法」で<制度的に>変化させていったものの、これがあくまで<制度的>であったがゆえに、結局、現役世代の総労働時間(男性単体ではなく、男女全体の)が長時間固定のままで是正されない(むしろ増大している)で推移した。これが現代社会の抱える「少子化・高齢化・人口減少・将来不安・消えない不況感」を産出している元凶である。

社会の「男女分業」という文化がある程度固定されたまま雇用機会だけが制度的に均等化されたため、女性の社会進出に伴い、在来の男性の長時間労働に加え、女性の長時間労働までもが創出され、ここに、家庭に温存されていたケアワークが輻輳的に重なり合ってしまった(本来は男女雇用機会均等に加えて、ケアワークのアウトソーシングを同時に推進すべきだったのだ!)。ああ、なんということだ。

この不幸なめぐりあわせによって、現役世代はますます締め上げられることになった。世代論でいえば、有閑裕福な団塊世代(逃げ切り世代)と、貧乏暇なしの現役世代(逃げ切れなかった世代)の対峙。シルバー民主主義ともいえる状況にある。現役世代は、少なくとも現在の団塊世代ほどの老後は送れないだろうという見込みが立っているからこそ(つまり未来への幸福感よりも不幸感が強いからこそ)、消費もしなくなる。かくて半永久的に「不景気感」が続く。もともと社会の<余裕>が失われてきたところに、これでは社会の<期待感>は根こそぎ奪われる。結果として加速度的な少子化(≒人口減少)に歯止めがかからない・・というのが、今の社会の閉塞感の正体であろう。

では、どうするか。
検討のため、以下に日本と米国型、北欧型の「労働とケアワーク」の概念図をまとめてみた。

連番 カテゴリ 日本 米国型 北欧型
法・社会制度 機会均等
(会社所属)
待遇平等
(ジョブ所属)
待遇平等
(ジョブ所属)
社会保障 育休金銭公的保証あり 育休金銭公的保証なし 育休金銭公的保証あり
ケアワークの担い手 私的セクター中心
(家族)
私的セクター中心
(移民)
公的セクター中心
(ケア公務員女性)
雇用制度 会社主義
(雇用維持型)
個人主義
(雇用流動型)
ワークシェア主義
(雇用分担型)
労働時間 事実上、上限なし
(会社裁量)
ジョブにより異なる
(ジョブ裁量)
公的な上限あり
(総労働時間、労働間時間ともに)
国民負担 中福祉・中負担 低福祉・低負担 高福祉・高負担

社会のひずみが起こり、いろいろとおかしなことが起こっているのが今の社会。とすると、どこを直したらよいのか。これが今回の議論の根本である。

まず(1)法制度・社会制度と(2)社会保障についてみてみたい。
日本は、「社会制度」としては、男女雇用機会がかなり均等に保障された国の1つであると言える。育休の金銭公的保証も担保されており、繰り返すが「制度としては」殊更に問題があるわけでは実はないのだ。ここは「直す」という性質のものではない。

余談;

日本は「会社所属主義社会」なので、よく言われる「同一労働(ジョブ)同一賃金」の実現は相当にハードルが高いものといえる。現在の延長線から、そもそもの「同じジョブ」の定義が、まず確実にできないからである。文化的に見ても、日本人を「ジョブ所属型」に変えるのは相当に難しいといえる。「御恩と奉公」の封建社会が日本社会の根底にはあり、これをたかだか数百年で変えられるのかというと・・・たぶん、無理である。そもそも、変えたところで少子化が止まるのかというと疑問でもある。

ついでに言えば、会社主義の社会において最低賃金「だけ」を上げ続けるとそれに見合う人材をまず中小企業が採用できなくなる深刻な人材難型の不況が訪れ、確実に経済が破綻する。最低賃金「だけ」が上昇すると、大企業は増長し、中小企業はどんどん没落していく。日本はジョブ型社会ではない、すなわち雇用がジョブによって流動化されていないというところは確実に押さえておくべきだ。金を出せるところに人が流れるのは自明の理。そもそも、すでに日本経済は社会全体で賃金を上げ続けるだけの余力は失っている。人口が減っているのだから当たり前である。

余談が過ぎた。では、(3)ケアワークの担い手についてはどうか。米国型の「移民」は、少なくとも現時点での日本にはなじまない。北欧型の、「公務員の女性が担う」(Aさん家のケアをBさんが、Bさん家のケアをAさんが・・すなわち、ハウスワークやキッズケア等を「公務化=公的に換金」することで、社会全体でワークをシェアしているということになる)ほうがなじむと思う。が、財政的な余裕は日本にはなく、結局は「家族」が負担するしかないというのが現状である。

核家族社会だというのに、長時間労働に加えてハウスワークもキッズケアも、介護も「家族がすべてやれ」という今の社会の要請が、実は少子化の最大要因ではないかと思うのだが、現状、保育園待機児童、介護のブラック労働に代表されるようにこれを有効にアウトソースできている状況にはあるとは到底言えない。

この分野の解決策としては、日本においてはおそらく有閑層(要は高齢者)と女性の活用、ということになるのだろうが、そもそもここへの財源が不足しているというのがジレンマ。本来は「ケアワークのアウトソーシングを公的にケアすること」が少子化対策の切り札になり得るのだから、ここは政策的な優先課題として注力していくしかない。

文化的な障壁として、「ウチのことをソトの者にやらせるとはけしからん」という勢力がたくさんいるというのも問題である。前回書いた「機械化」ですら、使用する側に心理的抵抗があるのだ。況や「人」においてをや。

余談;

バリキャリで、子育てもがんばって・・という女性の生活を紐解いていくと、実は実父母ないし義父母の協力を得やすい環境にある、というケースは意外とある。要するに、「ケアワークは私的セクター中心」ということをバリキャリの女性自身が証明しているのである。というか、そうでないと、少なくとも日本社会において「仕事も、家庭も、子育ても」は難しい。

そこで政策的に「大家族での相互扶助推進」という考え方を採ることは、日本では有効であろうと思う。結婚の際に両親(義理を含む)と同居ないし近居する場合、税制面で優遇処置をとるなどである。「家族の扶養範囲の実質的拡大」という意味では前近代的だが、ある意味では「超」近代的制度ともとれる。前近代を「集合」の時代、近代を「個」の時代とすると、超近代は「つながり」の時代なのかもしれない。

URは、すでに「近居割」なる制度をスタートしている(最大で5年間で2割くらい家賃が下がる制度)。これがより公的セクターに浸透していく「可能性」を感じるところである。

また余談が過ぎた。(4)雇用制度についてはどうだろうか。

日本が雇用維持型の会社主義であることは論を俟たない。ジョブ型社会ではない以上、制度的に雇用を流動化すると、これまでに見なかったような社会不安を巻き起こす危険性が高い。ジョブ型社会ならば、「A社のエンジニア」は「B社のエンジニア」であり得るが、日本の場合は「A社のエンジニア」は、「B社では営業」にもなり得るからだ。「自分がどんなジョブをしているのか」を明確にできない仕組みで雇用が成立しているので、いきなりアメリカ型の雇用流動社会を目指すと、ギリギリで維持されてきた社会の紐帯を、今度は本当に喪失してしまうことになると思われる(結果主義の中途半端な導入が、従業員と会社の紐帯をボロボロにしてしまったことは記憶に新しいだろう)。繰り返すが、いきなりドラスティックな雇用規制改革を推進すると、徹底的に社会を壊すことになる。

とはいえどんどんパイが少なくなる社会。方向性としては「ワークシェア」に向かうのが、社会の「つながり」を維持するための生命線になるのかと思う。

イメージとしては、「様々な働き方をする従業員」をMIXさせていくこと。例えば同じ職掌でも、以下のように多様な働き方ができるようにするのである。これは公的セクターのほうがスタートしやすいかもしれないが、民間でもどんどんベストプラクティスを発信していきたい案件である。

  労働時間 労働日数 転勤
タイプA フルタイム 5日 転居あり
タイプB フレックスフルタイム 5日 転居あり
タイプC フルタイム 5日 転居なし
タイプD フレックスフルタイム 5日 転居なし
タイプE フルタイム 4日 転居なし
タイプF フレックスフルタイム 4日 転居なし
タイプG 5時間 5日 転居なし

次に、(5)を飛ばして(6)の国民負担についてみてみたい。

日本は所謂租税負担のほかに、社会保障(年金と、医療保険)を含めた国民負担率がざっと43%くらい(2017年現在)である。これに財政赤字分を入れた「潜在的国民負担」が50%くらい。まさに「中福祉・中負担」の国ということになる。

ちなみにこの国民負担率、平成元年(1989年)が37.9%だそうだから、この30年で5%くらいあがった計算になる。国際的に「低い、低い」と言われながら、着実に「担税強化」はなされてきたのである。

これをどうするか。「低福祉・低負担」路線は現状からすると無理筋というもの。といって、これ以上高福祉・高負担も望めない。常識的に考えて現在の路線を進む・・・のだろうが、そうしたところで将来の財政破綻は目に見えている。

こういうのを、一般的には「詰んでいる」という。しかし個人と違って国は「お金を創れる」ので、実際は日銀が国債を買い入れれば「政府の借金」は消えることになり、理論上は絶対に破綻しない。ただインフレで国民生活の実質的な破綻があるのみである。

そこで必ず議論に上るのが消費税増税なのだが、これはどう考えても悪手である。仮に10%になったとしよう。「使うお金の1割が税金で消える」のである。絶対に消費は上向かない、というのが小学生でもわかる理屈だ。給料をもらった人は、お金を使うと勝手に1割引かれるので、畢竟、その大部分を貯金に回すのである。

「使うと1割差っ引かれるが、ため込んでおけばとられない。だったら貯めておこう」となるのが「合理的な」経済行動である。合成の誤謬というやつで、個人が「よかれ」と思って貯金をすることが、社会全体のお金の流れを狂わせているのである。

証拠を1つ示そう。世帯貯蓄は過去最高の1820万円(2016年の家計調査)だ。将来が不安な高齢者も、若者も、みな「貯蓄」に励んでいるのである。消費増税が招いた<貯蓄不況>ともいえる状況である(その貯蓄が貸し出しに回らないからマイナス金利という異常事態が発生しているのだ)。金はある、でも回らない。だから「不況感」だけが残るのだ。

究極の解決法は、消費や投資といったフローへの課税を弱め、資産税・貯蓄税、不活用土地への強制徴税といったストックへの課税を強めることで、国民に半ば強制的に消費をさせることである。しかし、今の政府は絶対にその逆をやる。なぜならストックを持っている票田、すなわち老人の資産だけは守りたいから。政治家も人の子、シルバー民主主義になるのは必然なのであった。

余談;

日本は光熱費・住居費が割高というのはよく言われることだが、なんといっても通信費が高い。家計を徹底的に圧迫しているものの1つが通信費と言っても過言ではない。キャリアの「2年縛り」の制約もあってか、MVMOの普及率はざっと1割強(2017年現在)でしかない。総務省と通信各社はプロレスのように「値下げ攻防バトル」を繰り返しているが、端末代が上がっただけで、何も変わっていないように思える。

若者の消費が伸びない原因の一つは間違いなく「スマホ代」にある。MNPが中途半端に「電話番号だけ」だからなおさら、競争が起こらない。ぜひ「メールアドレスもMNPできる」ようにしてほしい。すると・・・地殻変動が起こるはずである。間違いなく。

携帯のキャリアを変えない一番大きな理由。それは、「メールアドレスを変えるのが面倒だから」。MNPでこれを許せば一気に動きがあるはず。ここにメスが入ることを期待するが、おそらく絶対にやらないだろう。かくて携帯会社の安泰は続くのであった。よかったね!

また余談を書いてしまった。最後に、(5)労働時間を見てみよう。おそらく、これが現状でもっとも効果的に対応できる唯一の策ではないかと思えるのである。政府も、まずはこれが現代の閉塞状況を打ち破る「第一歩」と考えている節がある。だからこそ、安倍政権の肝いりで「労使で月100時間規制に合意」ということをやったり、「プレミアムフライデー」をぶち上げたり、色々やっているわけだが・・・

労使合意で「上限規制」ができたのは確かに歴史的なことと思う。しかし「月100時間」である。まったく「働かせすぎ」であるし、そもそもこういう合意がなされたことで、本社人事部が現場管理職へ厳しく勤務時間管理を迫るようになっており、現場は「余計、残業を隠れてするしかなくなった」と悲鳴を上げている状態である。要は「本社が今月から35時間以内にしろと言っているから、それ以上勤怠をつけるな」と上司が部下に「忖度」を求める感じであり、昔からあった闇残業がさらに「強化」される・・という非常にまずい事態があちこちで起こっているのを見聞きする。たぶん、このままではうまくいかない。もっと「強制力」をつけないと・・・

プレミアムフライデーは、ほとんどの国民が、「ああ、やっぱりお上は利益と関係ないから、一番忙しい週末に呑気に休めるんだねぇ。勝手にやってろ」とあきれた案件である。月末の週末に早く帰れる国民がどれだけいるというのか。そもそも、その金曜日に飲食店は「早開け」しなければならなくなり、実質的な労働時間が伸びたのである。本当に上級国民様の考えることは違いますなぁ。これ、やるなら「月1回でも週休3日制を取り入れる」という方向で、「たまにはレスト・ウエンズデー」のほうが多くの国民に恩恵があったのではありますまいか。

EU加盟28か国の労働時間規制(労働時間指令)は、大変参考になるものだ。ポイントはこの2つ。
「1週間の労働時間は、時間外労働を含み週48時間」
「1日の休息時間は、24時間当たり最低連続11時間」

これは、「仕事も、家庭も、育児も」を社会全体で目指していく中で、ぜひ取り入れたい考え方だ。しかも、これまで挙げてきた様々な方策の中でも、最も、「実現可能性」のハードルが低いものだと思う。

ちなみに後者の「休息時間」については、すでに厚生労働省が「職場意識改善助成金(勤務間インターバル導入コース)」として、実施に要した費用を助成する取り組み(9時間以上のインターバルに対して助成)を行っている。非常に評価できることだ。

現在の状況からして、すぐに上記規制を実現できると思うほど私は夢想家ではない。現実的な落としどころとしては、
「1週間の労働時間は40時間とし、これを超える場合は時間外労働と見做す。時間外労働は、週20時間・連続する2週間で30時間・月50時間・連続する2か月で80時間を超えてはならない。」
「労働と労働の間には、通勤時間を除き、週に3日以上は10時間、最低でも9時間の休息時間を設定する」
といったところが、まず有効なのではないかと思う。

まず、何はなくともこの「総労働時間規制」である。そして「休息時間の確保」。制度的に過ぎる日本の雇用制度を「実質的」にする意味でも、ここは是非とも推進してほしい部分である。

現実は、誰かの理想の奴隷ではない。雇用機会均等を制度で縛るだけ縛って、運用を企業に任せた結果がこれなのだ。次は、「本質」に着手していくしかないではないか。現実がおかしいのなら、その「理想」とやらを変えなければならないのだ。

これは「憲法」の不毛な論議にも言えそうである。現実にそぐわないのなら、その「理想」とやらを疑ってみる。これが現実をよくする第一歩ではないか。

ということで、余談だらけではあったが、「長時間労働の公的な抑制」が今こそ求められているのである。その方向での議論が社会全体で進んでいることに、期待をもっている。「働き方改革」は少子化対策の切り札だ。この方向への国会の議論が深まることも願いたい。


公開:2017年6月24日

少子化と高齢化により、凄まじい勢いで「労働力」が減少している。景気がいいわけでは決してないのに、どこもかしこも「人手不足」であえいでいる。将来の見通しが立たないので、人々は貯蓄に励み、財布のひもは締まったまま。社会が高齢化しているので、政策も老人優先。畢竟、若い世代はますます「放置」されていく。将来の見通しがなくて苦しいのに、さらに「一億総活躍」とお尻を叩かれ、「こんなに苦しいのに、まだ働けっていうのかよ。あがりはいつなんだよ」というのが正直なところではないか。

高齢者割合が増えるという意味での「高齢化」の原因は「少子化」で、「少子化」の原因は(様々なデータを見る限りでは)「晩婚化・非婚化」だ。晩婚化・非婚化の原因は、「不景気」というよりも、むしろ「女性の社会進出」である(誤解のないように書くが、これは「事実」であって、私は女性の社会進出そのものへの評価をしているわけではない)。

男女雇用機会均等法「前」の、戦後日本社会のロールモデルは、男が「仕事」で長時間労働して稼得をし、女が「家事・育児」で長時間労働して生活のケアを行う、という「長時間労働・役割分担型」であった。

男女雇用機会均等法「後」、このロールモデルはもはや過去の遺物とな・・・るはずだったが、男性は相変わらず「仕事」で長時間労働して稼得し、女性は「仕事」に加えて「家事・育児」でさらに長時間労働を迫られる(男は女性よりも家事をしないことは統計でも明らかなのである)・・しかも、高齢化によってここに「介護」が加わることで、何とかギリギリで回っていたはずの歯車が、まったく立ち行かなくなってしまっているのだ。「一億総疲弊社会」の到来といえる。

問題解決のカギは、仕事であれ家事・育児であれ「労働総時間」をこれ以上増やさないことである。ただ現実は、仕事においては「労働力不足」によって、既存労働力はさらなる勤労時間確保を求められるし、家事・育児においても、そもそも「保育園不足」が物語るように、家事・育児のアウトソーシング先が「労働力不足」なのであるから自分たちでその部分を担うしかない。

おまけに女性を取り巻く環境は相当に複雑化していて、「バリバリ働きたいから保育園に入れる自治体に引っ越して働き続ける」人、「バリバリ働きたいから親のそばに住んで(あるいは同居して)働き続ける」人、「バリバリ働きたいけれどようやく入れた保育園が微妙な距離にあって、16時台には上がらなくてはいけないからジレンマを抱えている」という人、「バリバリ働きたくないが、経済的事情もあって仕事と家事と育児を両立させざるを得ない」という人、様々だ。あまりにもバリエーションがありすぎて、政策での個別対応はおそらくもう不可能な領域に入っていることが直観される。

すなわち、「待機児童をゼロにしよう」とか、「残業は月100時間までにしよう」とか、「金曜日は早く帰ろう」とか、個別の事案をパッチワーク的に埋めていこうとしても、まったくの手詰まりなのである。問題は根本で解決しなければならない。繰り返しになるが、仕事であれ家事・育児であれ、「労働総時間」をこれ以上増やさないことだけが、様々な課題解決の糸口なのである。

結局、日本の場合は「家事・育児・介護」といった「ケアワーク」を誰が分担するか、という社会的合意がなされないまま、ずるずると「女性の社会進出」だけを歪めて推し進めていったことで、「男性型の長時間労働社会」に女性が加わっていくというスタイルで社会が確立してしまったのである。だから誰もが外で長時間働くし、家ではケアワークがそのまま残っている・・・という疲弊一直線への道をたどることになったのである。

こんな状態なら、一人で生活を成り立たせていたほうが楽だ。当たり前だが「よっぽど」でないと女性は結婚しなくなる。これが「非婚化・晩婚化」の一因であろう。ちなみに女性が労働市場に参入した分、当然だが男性のパイは減るので、男性の総合的な稼得力は長期的には低落する。したがって、「よっぽど」にカテゴライズされない男性が増えるので、これまた「非婚化・晩婚化」を推進するのである。

大昔、女性が中心的にケアワークを担っていたのは、おそらく古今東西、変わらない。女性が社会進出し、かつ家庭でもケアワークをしなければならないという「超長時間労働」から解放されるために、この「ケアワーク」は何らかの形でアウトソーシングされなければならない。

北米型社会が見出した解決策は、「移民労働力」であった。すなわち、ベビーシッターやハウスキーパーを雇用するのである。育児休業制度が企業マターであれば、「個人で」アウトソーシングをするしかないのである。北米らしい考え方だ。

一方、北欧型社会が見出した解決策は、「ケアワークのシェアリング」であった。すなわち、女性をケアワークの公務員として政府が雇用し、ケアワークを「社会が分担」することにしたのである。単純化するとAさんはBさんの家の家事を対価を得て行い、BさんはAさんの家事を対価を得て行う、その配分は政府が行うということである。まさに「大きな政府」というか、北欧らしい思考だと思う。

両方のケースとも少子化を克服しつつあるので、政策的には「成功」しているのだろう。ただ問題は、北米型や北欧型、いずれもおそらく日本にはなじまないということだ。移民を受け入れる社会的合意はないし、ケアワークを公務化してシェアするという財政余力もないからだ。

日本では、伝統的には「大家族での扶助」が解決策の1つであった。すなわち、「おじいちゃん、おばあちゃんが見てあげる」のである。「バリバリ働くキャリアウーマン」が、キャリアウーマンでいられるのは、実は父母または義父母が同居もしくは近居しているから、というケースは今でも決して少なくはない。

ただ、必ずしも同居や近居の恩恵に預かれる家庭ばかりではない。核家族が一般化する中で、「大家族での扶助」が(現状では実は唯一の)超長時間労働是正の糸口というのは、あまりにも心細すぎる。

では、どうするか。
「超長時間労働」解決策の1つが、「家事の機械化の政策的推進」であると思う。少なくとも家事労働の分野で、少しでも労働時間を縮減していく。それも政策的に一気に、である。

最近、「共働きの三種の神器」なる言葉がホットワードとして度々登場するようになった。すなわち、<食器洗い機(以下食洗器)>、<ロボット掃除機(以下ルンバ)>、<洗濯乾燥機(以下乾燥機)>の3つである。

実際に、私自身がこれを家庭に導入してみて分かったことを書いてみる。
まず食洗器。手で洗うのと変わらないんじゃないか、むしろ手間が増えるんじゃないかと思ったがそんなことはなく、洗い物に費やしていた時間をほかのことに使えるのは想像以上に「生活の余裕」を生み出したのである。特に赤ちゃんのいる家庭では哺乳瓶や離乳食用の食器類を洗う手間が省けることは大きい。また想像以上に食器がピカピカになるので、衛生的でもある。

次にルンバ。ゴミなんて拾えないんじゃないかと嵩をくくっていたが、さにあらず。まさかこんなにゴミだらけの中で生活していたのかと絶望した。「外出中に勝手に部屋が綺麗になっている」ことの精神的効用は大きく、これまた「生活の余裕」を生み出したのである。

最後に乾燥機。洗濯物を乾かすために洗濯ばさみに吊るすという行為が、ここまで「重労働」だったのかと思い知らされた。天気を気にしたり、夕方まで乾くのをまったり・・という必要がなくなり、洗ったら即、服をたためるというのは異常な便利さであった。副次効果として、タオルがふかふかになること、花粉やPM2.5を気にしなくてよいことなど、いいことづくめなのである。これも「生活の余裕」の一。

ニュースで「自動服畳み機」が登場すると聞いた。次は「自動アイロン」だろうか。ここまでくると、あとは「水回り掃除」だけである。

機械で、家事労働は相当に軽減される。精神的な余裕も大幅に生まれる。導入当初、一かけらだけあった「罪悪感」のようなものも、「精神的効用」の前には雲散霧消した。「便利なものは、どんどん取り入れるべき」なのである。「仕事は残業すればいいってものではない」のと同様、家事も「時間をかければいいってものではない」のである。当たり前だが、浮いた時間は「人間性」の追究に活かされるべきなのだ。間違いなく。

そこで政府は、「結婚する」ときにご祝儀として「共働き三種の神器の購入引換券」でも渡したらどうか、というのが今回の主題である。

食洗器5万、ルンバ5万、乾燥機(ドラム式ではなく、乾燥機単体で)5万として合計15万くらいである。年間60万組が結婚するとして、予算はざっと900億(初婚限定にすれば、もっと予算は減らせる)だ。田舎にじいさんばあさん向けのふれあい交流施設を建てたり、使われないスポーツ施設をボンボン作るよりは、よっぽど未来への投資になると思うが・・・

ともかく、名付けて「結婚お祝いバウチャー制度」である。これを考えてみたい。

まず、ここで政策的な誘導が必要になる。すなわち、「早く結婚すればするほどよい引換券がもらえる」ようにすることである。そこで以下のようなことを考えてみた。これ、提案したらしたで物凄く怒られそうなのだが、現実としてはこれくらいやらないとのっぴきならないところまで来ていると思うのだ。

【結婚お祝いバウチャー制度(案)】

女性の初婚年齢 結婚時にもらえる家電バウチャー 保育園入園バウチャー
27歳まで 食洗乾燥器・ルンバ・ドラム式乾燥機 3点 あり
27歳-34歳 食洗乾燥器・ルンバ・乾燥機(単体)の中から 2点 あり
35歳以上 食洗器・ルンバ型ロボット・乾燥機(単体)の中から 2点  

ちなみに「女性の」初婚年齢としたのは、この政策が「晩婚化・非婚化」対策であるだけでなく、少子化対策でもあるからだ。政策は「社会の方向」を政府のメッセージとして誘導することでもある。これくらいやったほうがよほどインパクトがあるし、何より即物性・即時性・有効性も高いものであると思う。

今の政府は何の飴もなしに、とにかく「男は働け、女も働け、死ぬまで働け。租税負担をしろ。見返りはないが、結婚して将来世代をつくれ。」と号令をかけ続けているだけである。

それよりは、「男は働け、女も働け、死ぬまで働け。租税負担をしろ。早く結婚して将来世代をつくれば、少しだけ見返りをやろう。」とやってくれたほうが、まだ希望が持てると思うのだ。

ちなみにこれでは育児も介護も何も解決していないが、少なくとも「家事労働時間の縮減」だけは、社会的に最低保証できることがあるのではないか、と思うのである。

※ちなみに、政策的に「大家族での相互扶助推進」という考え方を採ることも、少なくとも封建的な思考が根深く残っている日本では有効であろうと思う。結婚の際に同居若しくは近居する場合、税制面で優遇するなどである。ただ、これは近代的発想とは言い難い。「個人の解放」が近代のテーゼなのだとすれば、これは完全に近代の指向性からは逸脱しているからだ。ただ、日本が既に「超」近代社会になってしまっているのだとすれば、近代社会へのアンチテーゼとして、復古的に「イエ」への回帰を志向するという、社会的な選択肢が<ないわけではない>ことは付記しておく。おそらく、現状では現代日本が抱える「超長時間労働の罠」は先に挙げた「機械化」ないし、ここで挙げた「大家族化」の推進でしか解決し得ないように思われるからだ。


公開:2017年6月11日

私は幼少の頃から「知識欲」が強く、当時の愛読書は図鑑であった。幼稚園に行っている間は、家で教育テレビを録画(VHSで)しておいてもらい、帰宅後にそれを見る、という生活をしていた。夕方は「たんけんぼくのまち」(チョーさん)や、「あいうえお」などを楽しみながら見ていたのだ。

幼稚園では、業者が様々な「知育グッズ」を斡旋販売している。幼稚園で配本されていた本の中で、親が買ってくれたのだろう、毎月楽しみにしていたのが、世界文化社の「かがくらんど」である。ビジュアル満載で、科学についての知識を楽しく身に着けられる素敵ブック。私は、この「かがくらんど」から様々な知識を学んだのである。

最近、どうしてもそれをまた読みたくなって、「かがくらんど」のアーカイブがどこかに残っていないかを探索した。すると国立国会図書館(の、上野にある分館である「国際子ども図書館」)にしっかり所蔵されていることが分かった。喜び勇んだ私はさっそく足を運び、幼少の頃読んだ「かがくらんど」に再び出会ったのである。

当時、むさぼるように読んでいたので、驚くことに30年近く経っていても、全号、内容を覚えていた。これには自分でも驚いた。

以下が、各号の内容である。せっかくなのでコメント付きでまとめてみた。

号数 テーマ コメント(当時得た知識)
1988年4月号 あかしろきいろチューリップ ■チューリップの花を摘むと球根が大きくなること
■オランダでチューリップ狂時代があったこと
1988年5月号 どうぶつえんにいこう ■ゴリラのボスはウイスキーを飲むこと
1988年6月号 つめのひみつ ■爪を伸ばし過ぎるとクルクル回転すること
1988年7月号 おいしいね アイスクリーム ■アイスクリームは日本への輸入当時「あいすくりん」と呼ばれていたこと
■アイスクリームは妊婦にもよい完全栄養食であること
1988年8月号 アマゾンだいぼうけん ■アマゾンには未発見の昆虫がたくさんいること
■背中に数字の書かれた蝶がいること
■アマゾンにはたくさんの果物があること
1988年9月号 すいすいとんぼ ■とんぼの眼鏡は相当な量の複眼であること
1988年10月号 まつぼっくり ぽとん ■植物の種の飛ばし方には様々なバリエーションがあること
1988年11月号 ゴーゴー こうそくどうろ ■サービスエリアは概ね50キロ間隔で設置されていること
■トンネルに信号があること
■消防士はスロープで仮眠室から降りるようになっていること
1988年12月号 かみってなあに? ■「燃えない紙」があること(紙鍋など)
■紙の強度は想像以上に高いこと
1989年1月号 みかんのなぞ ■温州みかんのことを欧米では「テレビオレンジ」と呼んでいること
■みかんは風邪によいこと
1989年2月号 さむいくにのどうぶつたち ■流氷という現象があること
1989年3月号 はるをみつけよう ■ふきのとうという苦い食べ物があること

1年間ですさまじい量の知識を得ることができた「かがくらんど」。大人向けのコメントが随所にちりばめられており、私はそれも読んでいた。

子ども向けと言いながら知識の内容は安易に妥協せず、非常にクオリティの高い名著といってよい。現代でも通用するレベルの内容で、制作陣の意識の高さを今回、手に取ってみて改めて感じた次第である。

知的興奮を呼び覚ましてくれたかがくらんど。今でも本当に感謝している。


公開:2017年6月5日

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